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*1 第一印象はよろしくない部類
行為の後であるだけでなく、こいつからにおってくるのはいつも安っぽい甘いにおいだ。いかにも人工的な甘さで、嗅ぐたびに頭痛がする。
僕が気怠い体を起こしてベッドの縁に座り、サイドボードに置いていたミネラルウォーターを飲んでいると、においの根源であるこげ茶色のショートヘアの同じ年ぐらいの男が手を伸ばしてきた。
「なに?」
「俺にも水くれよ、薫」
「欲しいならもう一本そこにあるよ、冷えてるのが」
サイドボードの下には小さな保冷庫があり、そこには未開封のミネラルウォーターのボトルの他にビールなんかも備えられている。
それは彼も知っているはずなのに、彼は保冷庫を開けずにまだ僕の方を見て、そして呆れたように苦笑した。
「そんなの知ってるよ。そうじゃないのが欲しいってこと」
そうじゃないの、が指す意味を僕は気付いていたけれど、あえて知らないふりをして保冷庫のことを言ったのだ。彼が何を求めているのか、どうしたいのか、知りつつもかわすのはいつものことだ。
僕は誰かに恋愛感情というものをほとんど持ったことはない。第一印象からのイメージが揺るがないのを知っているので、印象が悪ければたいていの場合それ以上知りたいとか関わりたいとか思わないし、それ以上の時間を過ごす意味がないからだ。
「……僕にそういう趣味はないって知ってるでしょ、風磨」
「いいじゃん、さっきまで水よりも濃いもの飲み交わしてたのに」
「…………」
それはそれでこれはこれだ。確かに僕らはさっきまで肌を重ね合っていたけれど、それと事後の水を分け合うような感情は別物だ。特に、風磨のような体を重ねるだけの関係のやつとは。
第一印象があまり良くなかったのにずるずると体の付き合いまであるのはこの風磨ぐらいだ。理由は単純に彼が僕の誰にも知られたくないこと――つまり、僕と彼がいま持っているような関係を持つような趣向にあるということを知っているからだ。
「俺と薫の仲じゃん、いまさら同じ水飲むくらい良くない?」
風磨の言葉を黙殺するように水を飲み続ける僕に、彼も呆れたように溜め息をついてベッドから体を起こす。いつものやりとりではあるけれど、いい加減諦めたらどうなんだろうか。僕は寝るだけの関係のやつと何かを分かち合う主義ではない。
ボトルの水を半分ほど飲み切って、僕は脱ぎ散らかした下着を拾いつつ身につけて寝室を出てウォークインクローゼットに向かう。
「いまから着替え?」
「人が来るから」
「ひと?」
ウォークインクローゼットにまでついてくる半裸の風磨にそう言って暗に着替えを促したけれど、彼は意に介していない。
その内に素肌に下着とTシャツだけを身につけたところで、インターホンが鳴った。
「え、マジで来んの?」
僕と同じような格好をしている風磨が来客の報せに慌てて着替えを進めていく。
時刻は深夜にほど近い二十二時。こんな時間に来る相手はたいてい決まっている。
インターホンのモニターには若い見知らぬ男が映し出され、風磨が「誰だこいつ」と言いたげに僕を見てくるが、構わずマイクをオンにして応答する。
『こんばんはー、ウッディハウスキーピングっす』
「ああ、はいどうぞ」
エントランスの施錠を解除すると、ハウスキーパーの男が画面から消えた。
「なんだ、ハウスキーパーか」
突然の来訪者の正体を知った風磨は安堵したように息を吐き、背後から僕を抱きしめようとしてくる。僕は風磨より小柄なので抱きしめられてしまったら身動きがとりづらくなる。着替えがしにくくなるだろうから僕はそれをかわし、再び着替えの続きをしにウォークインクローゼットに向かう。
「誰が来たかわかったなら、もう帰るか、せめて着替えてくれる?」
クローゼットから適当にボトムスを出しながら僕が言うと、「なんでだよ。べつにいいじゃん。いつも文句言わないくせに」と、風磨は不満げに返す。
「今日の人は初めての人なんだよ。初対面から男ふたりで裸同然はマズいでしょ」
「薫にもそういう常識あるんだな」
僕を何だと思っているんだ、という代わりに、着替え終えた僕は寝室に置いていたスマホを手にして風磨宛てに目の前でオンライン入金をする。遠くどこかで何かが震える音が微かにした。入金されれば、その日はもう終わりということだからだ。
僕らの関係は金銭の授受で成り立っている。所謂口止め的なあれだ。
「へいへい、帰りゃいいんだろ」
大げさに溜め息をつきながら風磨が脱ぎ散らかした服を取りに寝室に向かっていると、玄関先のインターホンが鳴った。
モニターに映し出されたのは先程エントランスで応対したハウスキーパーの男で、僕は彼を家の中に通す。
「こんばんは! ウッディハウスキーピングより参りました、淀川っす! 穴守の代わりに来ました! よろしくお願いします!」
淀川、と名乗った彼は、モニター越しではわからなかったがかなり背が高かった。僕よりゆうに十センチは高く、日に焼けていて細く見えるが割とがっしりした体つきだ。少し長めの髪に営業スマイルのせいか凛々しい眉毛の割に垂れ目が印象的で人懐っこそうにも見えたのだが……一歩こちらに近づいてきた際にふわりと独特の甘さをまとったにおいを嗅ぎとった。風磨のとは違った、安っぽさはないがクセのあるにおいだ。
しかも髪色が透けるような茶色のせいで少々……いや、かなりチャラついて見え、思わず俺は眉を顰めてしまう。
(でも、においはイヤじゃない? かな……でもチャラそうだな……)
「今日は掃除と洗濯と、惣菜の作り置きでしたよね?」
「……ああ、はい、お願いします」
家の中に上がり込みながら淀川は今日の依頼内容を確認してくる。僕が曖昧に流しながら彼を中に連れて行くと、リビングに着替えを終えた風磨が佇んでいた。
「あ、お客様っすか? すんません、いまから掃除しますんで」
「や、もう俺帰るし。じゃあな、薫」
「ああ、うん」
風磨に軽く手をあげるように挨拶をして送り出したのだが、彼が何か言いたげににやにやしてこう言って去っていった。
「じゃあな、毎度あり。あっちも楽しかったよ」
なんだあの言い方……そう、思いながら飲みかけのミネラルウォーターを取りに寝室に向かいかけてハッと気づく。――あ……ベッド、あのままだ……
そう、僕と風磨がほんの数時間前までセックスしていたのがほとんどそのままで忘れていたのを、風磨は何も言わずに帰って行ったのだ。それでさっきあんなことを言っていたのだろう。
(あえて見せつけるためか? 趣味が悪い奴め……)
性的趣向を隠す必要はないだろうが、事後そのままの状態は誰であれある程度は片付けておくものだろう。しかも初対面の相手ならなおさらだ。それを怠ってしまったことを悔やみながら寝室に向かうと、淀川は既に寝室の中にいた。
何か声をかけた方がいいだろうか……そう迷っていると、汚れたシーツを剥ぎながら淀川はこう言った。
「新しいシーツはどちらにあります? これ、洗濯しちゃうんで。他に洗うものあります?」
「ああ、はい。えーっと……」
眉でもひそめられるかと思っていたけれど、何も気付いていないんだろうか。
僕は疑問に思いつつも、他にも洗濯物として先程の風磨との行為で汚れた服なども洗ってもらうことにして、淀川を洗濯機の場所へと案内する。
「ではあとはやりますんで」
「お願いします」
そう言って僕がその場を後にしかけ、そう言えば今日以降の依頼はどうしようかと思い出して声をかけようと引き返した時、それまでにこやかな懐っこい顔をしていた淀川の横顔が真顔になっていてこう呟くのが聞こえた。
「――金持ちの考えることってわかんねーな」
金持ち、とはきっと僕のことだろう。その僕の考えることって何だろうか。なにが彼は言いたいんだろうか……そう思いながらリビングに向かいかけてその意味が分かった。
淀川は気付いていたんだ、僕と風磨がどういうことを直前までしていたのかを。
それは僕に落ち度がある事ではあるけれど……それを“下品な金持ちの道楽”のように言われたことが気に食わなかった。
一応物腰は低いが、チャラついて見える外見と先程の言葉が僕の中でネガティブな要素として記録されていく。
(あいつはキャンセルだな……他の人に変えてもらおう)
こうして僕の中で淀川の第一印象は確立されていき、そしてそれはあまりよろしくないという部類に振り分けられていったのだが――鼻腔の奥にはいつまでもあのクセのある甘いにおいが微かにまとわりついていた。
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