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*19 届いた声と決裂と
叫んだところで密に声が届くわけがないのはわかっていたけれど、それでも口をついて出たのは彼の名前だった。
僕の叫びにも構うことなく、風磨はナカを指で犯しながら屹立した熱を押し付けてくる。
――もう、ダメだ……このまま僕はこいつにめちゃくちゃにされて、そしてもう離れることもできなくなって、このまま言いなりに――そう、諦めかけたその時だった。
「薫さん‼ てめぇ、薫さんから離れろ‼」
聞き覚えのある声が僕を呼び、そしてふわりとあの熟れた果物のような甘いにおいが微かにして、僕は思わず声のした方に顔を向けた。
「み、つ……?」
現れるわけがない人物が現れ、その名を口にした瞬間、僕の上に覆い被さっていた風磨に駆け寄ってきた密が掴みかかり床に転がっていく。
密と風磨はソファとローテーブルの狭間でつかみ合いになり、押し退けられた風磨が密の襟元をつかんで引き離そうとしている。
「お前、薫さんの友達なんじゃないのか?! 友達のくせに何してんだよ?!」
「っせぇな! 俺らの関係に口出しすんじゃねぇよ! お前全然関係ねえだろ!」
「関係ある!」
「ハウスキーパーと依頼人ってやつかよ? 金の関係だろ?」
「違う! そんなんじゃない! 薫さんは、俺の大事な人だ!」
「はあ? なんだそれ。意味わかんねえ」
「大事な人にひどいことする奴は、許さねえのは当たり前だろ! そんなこともわかんないのかよ!」
密が怒鳴りながら言った言葉に、僕は視界が一気に滲んで濡れていくほどの喜びを感じた。あんなひどいことを言ってしまったのにまた大事な人だと言ってもらえるなんて思ってもいなかったから、胸が音を立てて締め付けられるほど嬉しかった。
だけど密の下で彼をにらみ上げている風磨は鼻先で嗤い、「っは、なんだそれ」と吐き捨てる。
「大事な人? お前は金もらえりゃ誰でもいいんだろ? ちょっと構われたからって尻尾振ってついてくんじゃねえよ、バカ犬か?」
風磨の言葉に、密が鬼のような形相になって拳を振り上げる。その姿に僕はハッと息を飲んだ。
いま密は、ウッディハウスキーピングの作業服を着ている。ここで彼に風磨を殴らせてしまったら、きっと風磨はそれを盾にして会社に苦情を入れるだろうし、密をクビにしようともするだろう。そして、また僕のように密にもまた何かと言い掛かりをつけて弱みを握ろうとするかもしれない。
――そんなこと、させるもんか。 僕は反射的に、密の腕を抱き着くように止めにかかった。
「薫さん?! 放してください!」
「……密、ダメだよ。こんなやつの言葉に煽られて、つまんない暴力なんて振るっちゃダメだ」
「でも、薫さんのことすげぇバカにしてきたんすよ?!」
「僕なら平気……そんなことより、密がつまんないことで仕事クビになっちゃうことがイヤだよ」
滲む視界のまま無理矢理に微笑んでそう言うと、僕の腕の中の密がゆるゆると力を緩めて振り上げていたものを下ろしていく。その隙に押し倒されていた風磨が体を起こし、忌々しそうに密を押し退けた。
「ックソ、見た目通りアタマの軽い考えなしってわけだな、お前」
乱れた髪を忌々しそうにかき上げて嗤いながらそう密をにらんでいる風磨の前に僕が立ちふさがるようにすると、風磨はムッとした顔をして僕を見やる。
「その言葉、そのまま風磨に返す」
「ンだよその目は、薫。お前、マジで自分の立場わかってんのか? お前がゲイで俺と寝てたってこと大学中に広めたって――」
いつもの脅し文句が風磨の口をついて出ようとした時、僕は怯みそうになる気持ちを奮い立たせて口を開いた。
「風磨が口にしようとしてることは、アウティングという名の脅迫だよ。それに、密は全然関係ない。関係ない密にも脅迫しようとしたこと、僕が出るとこ出て証言したっていいんだからね?」
本音を言うとすごく怖かったけど、ここで怯んでしまったら僕は取り返しのない事態を招いてしまうのはわかっていたから、震えそうな体を叱咤してそう告げた。たとえ僕が殴られたとしても、それで密が守れるのであれば全然かまわなかった。
風磨は僕が言い返してきて、逆に自分が追い込まれるなんて思っていなかったのか、ぐっと口をつぐんだまま黙り込んでしまった。
「こんな、チャラいヤンキー上がりっぽいやつのためになんでそこまで言えるんだよ、薫」
それでも尚足掻くようにそう言ってくる風磨に、僕はまっすぐに見つめてきっぱりと告げる。
「違うよ、風磨。密は、全然チャラくない。真面目でやさしくて、働き者で、僕をすごく大事にしてくれる。僕のことを脅してお金も体も気持ちもめちゃくちゃにしていく風磨とは全然違う」
「……なんだよそれ。お前は俺の――」
「僕は、風磨のオモチャでもアクセサリーでもないよ」
「…………」
「本当に友達になりたいんだったら、もう、お金もセックスもなしにしようよ」
そこまで告げると、風磨は感情のわからない顔をしてうつむいてまた黙り込んでしまった。
重たい沈黙が訪れて僕も密も風磨も黙ったままでいたら、突然背後からやさしく包むように抱きしめられた。振り返ろうとする、肩に熱い唇が押し付けられる。
「……密?」
「ありがとう、薫さん。俺、ずげー嬉しい」
肩に刻み込むように呟かれた言葉に僕の涙腺が刺激されて頬を雫が伝っていく。そっと肩に手をやると、明るい茶色のたてがみの様な密の髪に触れた。触れたたてがみはほんの少し甘いにおいをさせながら震えていた。
「――あー、そうかよ。そんならもういいわ」
不意にそれまで黙っていた風磨が立ち上がり、苛立っている感情を隠すことなく音を立てながらリビングを出て行く。
「風磨、」
「もうお前なんか“友達”でもなんでもねえよ。そいつと好きにしな」
僕が立ち上がりながら名前を呼びかけると、背を向けたまま風磨はこう言い捨てて僕らの前から去っていった。
閉じられたドアは僕と風磨を永遠に分つ壁になった。
風磨が去っても、僕と密は沈黙したまま呆然としたままだ。
肩には密の熱い唇が宛がわれていて、じわじわとその辺りからあのにおいがしている。
「……行っちゃった」
小さな子どものように僕が呟くと、密はただ黙って僕を抱きしめてきた。強くきつく、離れてしまうことを恐れるように。
「……かった……良かった……」
「密……」
「薫さんがヘンなこともうされないことも、金取られないことも、俺のこと、大事って言ってくれたことも……すっげー嬉しいっす」
押し付けられている熱いところからさらに熱い雫が滲んでいくのがわかって、僕もまた涙があふれる。抱きしめられたまま、僕も嬉しくて一緒に泣いていた。
「密が来てくれたから、助かったよ。ありがとう」
「いえ、たまたまっすよ」
「よくウチに入ってこれたね。なんで?」
「あ、それは……これっす」
どうしてあんなタイミングよく密が部屋に入ってこられたんだろうと思って訊いてみたら、密はゴソゴソと作業服から一枚のカードを――いつだったか僕が預けたカードキーを出してきた。
「指名が解除されちゃってたんで、鍵、返さなきゃって思って来たんす。エントランスでも良かったんすけど……どうせならちゃんと挨拶しようと思って玄関まで来たら、声がして、そんで……」
そう言いながらも密はさっきまでの光景を思い起こしているのか、まるでその記憶を掻き消すようにまた強く僕を抱きしめてくる。
小さな子どもみたいな仕草が愛しくて、僕は身体を捩って密の方に向き直って抱きしめてあげた。大きな身体からはやさしく甘いにおいがする。
(――ああ、このにおい、すごく好きだ)
胸いっぱいに密のにおいを吸い込み、心から思う。
その内に密が顔をあげて僕と向かい合う。お互い頬も目も濡らしていて、それがおかしくて小さく笑い合う。
「密、僕、密を好きになっていい?」
「なってください。誰よりも大事にします」
「好きだよ、密」
「俺も、薫さんが好きです」
数センチの距離で交わした言葉は彼からの甘いにおいと共に僕らを包んでいく。においに惹かれるように僕と密は距離を縮めていき、やがてその距離をなくすように互いの唇に触れた。
この前触れ合った時とは違う感情で触れ合っているからか、絡み合う舌先もいつの間にかつないだ指も熱くてとろけそうだ。
繋いだ手をほどき、互いの背を抱いて一層僕と密は距離をなくしていく。いつになく濃いにおいが、僕の嗅覚を甘く痺れさせていく。
距離が近くなり、互いの感情も熱も昂っていることに気付いてしまった僕らは、そっと口付けを解いて見つめ合う。
「密、僕を愛してくれる?」
「もちろん。薫さんの全部、俺に下さい」
だから密のすべてを僕にちょうだいよ、という代わりに、僕から再び唇を重ねると、密はそっと僕をソファに組み敷いていった。
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