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*21 湯けむりの約束
白濁を放ったあと、僕らはそのままソファの上でぐったりとしばらく横たわっていた。見上げた天井はいつものように白く素っ気ないのに、そこに立ち上っていく吐息はいつになく甘く熱い。
繋がりを解いてソファの上に寄り添うようにしていると、密が僕の汗ばんだ額や頭にそっと撫でて少し申し訳なさそうな顔をする。
「どうしたの?」
「……や、俺そう言えばいま勤務時間だったなーって思って」
「え、そうなの? ……でも、もともと僕のとこに来ることにはなってたんでしょ?」
「ええ、まあ一応。この後も依頼は入ってないんですけど……でも……」
まさかこういうことになるなんて……と、密は今更に顔を赤らめてバツが悪そうな顔をする。こういうところが真面目だなぁと思えておかしくなる。
だから僕はくすりと笑って、同じく汗ばんでいる密の額を撫でてその頬に口付けてからこう言ってあげた。
「いいじゃん、顧客のピンチを助けるために活躍したんだから」
「そう、なるんすかね?」
「なるよ。少なくとも僕はすごく助かったんだから」
ありがと、密、と僕が微笑みかけると密はようやく小さく笑ってくれて、そっと壊れ物を扱うように僕の頬に触れてそこにキスをしてきた。啄むよりもやさしいキス。
キスをしてくれたお返しに僕から密に抱き着くと、密もまた抱き返してくれた。直に触れる肌が心地よい熱さだ。その熱に気化されるようにあの熟れた甘いにおいがする。
「密ってさ、最初はすごいチャラくてヤンキーみたいかと思ってた。甘いにおいもさせてるし」
「チャラくてヤンキーっぽいはよく言われるっすけど……甘い、においっすか? なんか前も言ってましたよね」
「うん。なんかね、熟れた果物みたいなにおいがするんだよね……甘くて濃い、でもクセになるにおい」
裸の胸元に顔を押し付けるようにして言うと、密もまた自分の腕の辺りに鼻先をしつけて嗅いでいる。
「へぇ? 俺、香水とかつけないんすけどねぇ……そんなににおいます?」
「僕、鼻がいいから。だから最初はすっごいチャラチャラしてる奴なんだなって思ってた」
僕の言葉に、「……まあ、否定はできないなぁ」と、密は苦笑して僕の頭にキスをしてくる。
「しないの?」と、問いながら見上げると、「よく言われるんで」と密は肩をすくめた。
それならば余計に、僕はちゃんと気付いたことを伝えなければいけない。このままでは、密自身も第一印象で誤解されてもいいと思い込んでしまうから。
「でも、それって間違いだなってよくわかったよ。密のこと、第一印象でこうなんだ、って決めつけてたけど、全然違うんだもん」
「そうっすか?」
不思議そうに首をかしげて僕を見つめる密に、僕は大きくうなずいてその首に抱き着いて伝えた。
「ウチに来て家のこといろいろやってくれる時も、僕と風磨がもめた時も、密はいつでも真正面から取り組んでくれたでしょ? 僕が周りにどう思われているかとか、そういうの関係なしに手を差し伸べてくれたの、嬉しかった」
「薫さん……」
「だから最初は、密は僕のこと友達としか見てないんだなって思ってた。まあ、それでもよかったのかな……」
でもまさか本当にセックスしてしまう仲になってしまうなんて思ってもいなかったから、僕が苦笑しながら言うと、密は強く僕を抱きしめてこう言い返してきた。
「それは、違う」
「……密?」
「俺は、最初から薫さんのこと、好きでした」
「最初から? え、それって……」
「初めてこのウチに来た時から、ずっと」
「えっ……」
思いがけない言葉に抱擁を解いて密を見上げると、真っ赤な顔をした密が照れたような恥ずかしいような顔をして僕を見つめ返している。
密に出会ったのはあの春先の夜、新しくお願いするハウスキーパーとしてだったはずで……
「あの時から? だって密、あの日僕のことよくわかんないとか言って……」
「すんません、あれは……薫さんとあいつがああいう仲なのかってなんとなく気づいちゃって、それが衝撃すぎて……その……ショックで、つい……」
密がウチに来た初日は、確かに僕と風磨がセックスした痕跡が残ったままだった。それを見て密が呆れたんだろうと思っていたけれど……ちょっと違ったようだ。
「薫さんは俺とは住む世界が違って、異次元の人なのかなぁって思ってたんす。なんて言うか、気持ちいいことも金で買うんだなぁ、俺じゃ手が届かない人なんだなぁって……すんません、失礼なこと思ってて」
申し訳なさそうに密が肩をすくめたけれど、僕はそれを否定しなかった。結局のところ、口止めをしつつもどこかで僕も風磨で満たされない想いを晴らそうとしていたのかもしれないからだ。でも結局それが満たされることはなくて、余計に枯渇したんだけれど。
肩をすくめつつも、密は僕の頬や唇に指先で触れながら同じくらいやさしく言葉を続ける。
「でも……俺が作ったメシを美味しいって言ってくれたり、掃除おしえてくれたり、コーヒーご馳走してくれたりして……なんか、ああ、俺と一緒なんじゃん、って気づいたら……なんかもう、それからもっとすっごく好きになってて……それに、」
そこまでひと息に喋ったかと思うと言葉を切り、密はとろけるような顔で笑いかけてきながらこう言葉を続ける。
「それに、薫さんのおかげで初めて穴守さん……先輩に褒められたし、バイトも続けられそうって思えたんす。だから俺、薫さんがすごくやさしくて良い人なんだなぁって思えて……より、好きになってた。ありがとう、薫さん」
先日密の代理で来てくれたあの穴守という男が、本当に本人に僕の言葉を伝えてくれたのが驚きだった。おかげで密がより僕に好感を抱いてくれたことに繋がりもしたのだから、有難くもあった。
密の言葉が嬉しくて僕からも彼に抱き着いたら、密がしみじみと呟く。
「俺、このバイトしてて本当に良かった。だって、いままで生きてきた中で一番大事な人に巡り会えたから」
「それは僕も同じだよ。……それにね、密」
「うん?」
腕に抱かれながら見つめ合う密の瞳に映し出される僕は、いままでになくしあわせそうに微笑んでいる。ああ、僕もこんな顔できるんだな……そう改めて知れたこともまた、ひとつ密と出会えてよかったことだろう。
「それにね、密と出会えたから、僕は自分の考えを変えることができたと思う」
「薫さんの考え?」
なんすかそれ? と問うように首を傾げている密に、僕はくすりと笑って耳元に顔を寄せて囁く。
「――初めて会った時の印象より、いまの密の方がうんと好きだってこと」
囁いた言葉に触れた耳元が赤く染まっていく。振り返って見つめてくる目許が薄っすら潤んで僕を映し出している。
密に出会わなかったら、触れ合うことがなかったら、僕はきっとヒトに対して思い込んだ考えしかしないままだっただろう。深く相手を知ろうとしないまま、うわべだけの――例えば風磨とのような――関係を持つだけの人間になっていたかもしれない。それはちょっと怖い事だと思える。
愛しいと心から感じるぬくもりに包まれながら、僕は密に出会えて想いをかわし合えたことを嬉しく思った。
僕という人間を信じて愛してくれる彼を、僕もまた心から愛していこうと心に決めながら。
それから密は浴室に行って風呂を沸かしたりタオルを出したりしてくれて、僕を風呂に入れてくれた。
それがハウスキーパーとしてなのか、恋人としてなのかはわからなかったけれど、湯船に張られたお湯は適温で心地よく、甘い疲労感に痺れていた身体に沁みる。
「密は入らないの?」
僕が湯に浸かっている間、密はシャワーだけ浴びて着替えをしているので訊ねると、密はすごく名残惜しそうな顔をしながら答えた。
「そりゃあ、一緒に風呂入りたいっすよ……」
「いいじゃん、入ろうよ」
「でももうさすがに会社戻らないと。それに、さすがに風呂上がりのにおいさせて事務所に顔出せないんで」
風呂場の時計を見るともう密が来てから二時間近くは経過していたし、確かに風呂上がりの気配をまといながら職場に戻るのは何か詮索されかねないので避けた方がいいだろう。
そうか、仕方ないね……と、僕が少ししょ気ながら呟くと、密が浴室に入ってきてそっと僕の耳元にキスをしてこう囁いた。
「その代わり、終わったらすぐまた来ます。だから、待ってて」
囁いた言葉に添えられるようにあの甘いにおいがして、湯気越しに見つめ合った密の目に人懐っこさよりもさっきソファで抱き合った時の獰猛さが垣間見え、僕は胸がギュッと締め付けられるほど高鳴る。
だから僕もうなずく代わりに密の頬に口付け、こう告げる。
「――いいよ、続き、いっぱいしよう」
湯気の中で交わした約束を結ぶように口付けをして、僕は密を送り出す。
あと数時間。これがいままでのどの約束よりも甘く、叶えられるまでに永遠のように長く感じられることになる。
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