120人が本棚に入れています
本棚に追加
*2 懐に滑り込む独特のにおい
「メシ……食事の好みってあります? 和食とか、洋食とか、ガッツリ系が良いとか。アレルギーはないっすよね?」
一通りの洗濯と掃除を終えた淀川がキッチンカウンター越しに僕に訊ねてくる。
見た感じ、洗濯とその片付けは良いんだけれど、掃除の仕方が若干雑な気がする。
とは言え相手は一応プロではあるのできれいになってはいるんだろうけれど、それでも気になるのは僕が少々潔癖気味なんところがあるからかもしれない。
淀川はウッディハウスキーピングの制服代わりの緑のエプロンをして家事をしてくれるのだが、それが大きな彼の身体のサイズに微妙に合っていなくてちょっと面白い。
先程こぼしたひと言なんて忘れているのか、淀川は何食わぬ顔で冷蔵庫や食品棚を開けている。おお、すげぇとか呟きながら。
「アレルギーはない。好みは薄味」
「薄味……じゃあ、和食が良いかなぁ……煮物とか食べます?」
「ああ、まあ、少し……」
「少しか……もしかしてあんま量食べないっすか?」
「そう、だね……」
「んー……じゃあ、あんまたくさん作っても飽きるよなぁ……焼びたしとかどうっすか?」
「……任せる」
あまりにぐいぐい来るので僕がたじろぎながらそう告げると、「お任せかぁ……どうすっかなぁ……」ぶつぶつと言いながら、淀川は食品棚から食材をあれこれ取り出してカウンターに並べる。
僕は何一つ料理をしないけれど、こうして作りに来てくれる人――主にハウスキーパーだけれど――がいるので、その人たちが勝手に買ってきて置いていくのだ。僕はただお金を渡して、作ってもらって食べるだけ。
「そういや清田さん、お仕事何かされてるんすか?」
「……学生」
学生、という僕の答えに何かを炒めている淀川の手が停まる。
幼い頃から両親とも開業医のため忙しかったので、シッターとかハウスキーパーとか、お金を払って誰かが家に来て家のことをあれこれしていくことは僕にとってはふつうのことで日常だ。ちょっと珍しいのかもしれないことで言えば、僕個人がそういうことを利用しているという点だろうか。
前に来てくれていた人も、僕が学生でありながら都心のマンションに一人で住み、家のこと全て食事までハウスキーパー任せであることを驚いていた。
「マジっすか……清田さん、若手の社長か何かかなって思ってたんすけど……学生かぁ……若いはずだぁ」
淀川もまた、これまで担当してきた人たちと同じようなリアクションだ。若造のくせして生意気な、とでも思っているんだろう。
まあそれもいつものことだ……と思いながら、僕は手許のスマホに視線を落とす。
「学生ってことは、そこの香田大学っすか?」
「……まあ、うん」
「ここら辺いいっすよねぇ、学校から近いし、駅も近いし、美味そうな店多いし。あ、そこのパン屋のメンチカツサンド食べたこと事あります? すっごい美味いっすよ」
ウッディハウスキーピングは比較的余計なことを喋ったりしない人が多いのだけれど、今回は外れだったのか、淀川はやたらと話しかけてくる。好みの味付けに始まり、好きな食材だとか料理だとかそんな他愛ない事を。
喋りながらも淀川の手は止まることはなく、手際よく一品二品作り上げていく。
「清田さん、夜食に何か作りましょうか?」
いつの間にか依頼の作り置き七品を作り終えてもまだ時間と余力があったのか、淀川が不意にそんなことを聞いて来た。
「夜食……」
確かに風磨とセックスをして小腹は減っているので、何か食べたくはある。でも、こういう時に僕は誰かに何かを作ってもらった記憶がない。昔作り置きのおにぎりみたいなものはあったけれど、僕はレンジの使い方をその当時知らなくて冷たいまま食べた記憶しかない。
それ以来、僕は夕食以降に何か誰かが作り置いたものを食べたことがない。食べたかったとしても、デリバリーのピザとかスナックフードとかで済ませればいいのだけれど。
だからなのか、思わずこんな言葉が口をついて出た。
「……あったかいもの」
夜中に怖い夢でも見た子どもみたいな弱々しい声で答えた僕に、彼は満面の笑みでうなずき、「じゃあ、鮭粥を作りますね」と言って作り始めた。
淀川はリズムの好い音を立てて瞬く間に鮭の入ったお粥を作ってくれた。
片手鍋に艶々ふっくらした白いお粥、そこに鮮やかなピンクの鮭のほぐした身が散らされていて更にやわらかな色合いの卵とネギで覆われている。
湯気を立てるそれを前に、不覚にも僕のお腹が鳴ってしまった。
それが聞こえたのかどうか知らないが、淀川は僕の前に注ぎ分けた器を置いて、「どうぞ!」と言って微笑む。
蓮華でひと口掬って食べたそれは知らぬ間にくたびれてカラカラになっていた舌にやさしく溶けていく。僕の好みより濃い味付けではあったけれど、セックスでくたびれた身体にはちょうどいい塩梅だった。
「美味しい……」
「よかった! まだあるんで、いっぱい食べてください」
そう言って淀川はキッチンの方に戻り、調理器具の片づけを始める。鼻唄交じりに洗い物を片付けていく後ろ姿に、僕は今日初めに受けた印象とのズレを少し感じた。こんなこと、いままでなかったのに。
妙なこともあるんだなと思いながらもうひと掬いお粥を口に運ぶ。やっぱりそれはちょっと塩味が濃くて、でも妙に身体が喜ぶ味だった。
いままでこの部屋に来てくれたハウスキーパーの人たちは、僕が深夜帯の依頼をすることが多いせいか男がほとんどで、年齢層も様々だったけれど、たいていが自分より年上の人ばかりで淀川ほど若い人なんて初めてだった。
僕には昔から友達らしいものがほとんどいたことがない。いたとしてもそれが極少数の限られたやつらばかりで、恵まれたあれこれのおかげで僕に興味を持ってあれこれ言ってくるやつらはたくさんいるけれど、嗅覚から受ける第一印象も相まって一緒に遊びに行くというような関係になったことがない。
だからなのか、見た感じチャラそうではあるけれど、(例外として風磨のような体の関係にあるやつはいるけれど)、歳が近いであろう淀川のような人物が自分の部屋にいることが新鮮で、心の中に妙なあたたかさを覚えるような感じだった。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
片付けを終え、二時間の予定ぴったりに仕事を終えて淀川は来た時のように玄関先に立って一礼する。
「次回も……って、こればっかりはわからないっすよね」
今回の利用はいままで指名していた人が急に配置換えになった都合で引き継がれたのが彼だったので、お試し利用でもある。料金はそのままだが、指名するかどうかはまだ告げていない。告げるとすれば、次に依頼する時だろう。
それなのに、僕は――
「――じゃあ、来週また、この時間に」
「え? いいんすか?」
僕の言葉に色めき立った淀川から、一瞬ふわりと強くあのにおいが漂ってきた気がした。クセがある独特の甘さを孕んだ……まるで熟れた果物のにおいにも似たそれが。鼻先をくすぐった甘い匂いは嬉しそうに垂れた淀川の表情によく似合っている。
僕がおずおずとうなずくと淀川は満面の笑みで「ありがとうございます!」と大きな声で礼を述べて頭を下げてぎゅっと手を握って来た。そのはずみに、またあのにおいが近づく。
「じゃあ、また来週よろしくお願いします! 申し込みフォームで俺の名前をチェック入れてもらったら大丈夫なんで!」
「ああ、はい……」
距離感のなさに軽く仰け反りながらうなずくと、淀川は何度も礼を言いながら帰って行った。
じわじわと残る手の感触にしばし呆然としながら、僕は淀川が去ってからも呆然としていた。
ヒトに手を握られたのなんていつ振りだろう……幼稚園の頃からすでに僕は神格化まではいかないけれど、なんとなく特別扱いをされて遠巻きにされることが多かったので、常に周りと距離を置かれているのが普通だ。僕自身も踏み混まれたくはないので、それでいいと思っていた。
それなのに、あの淀川というやつはするりと僕の懐に滑り込むように距離を詰めてきたのだ。初対面にもかかわらず、僕は自分がどこの大学の学生であることやここでひとり暮らししていることなんかをいつの間にか彼に喋っていた。いままでどんなハウスキーパーにも必要最小限なこと以外は告げたことなかったのに。
「……なんだ、あいつ」
でもどうしてだか、不快ではなかった。うっかりと喋ってしまった自分の迂闊さに舌打ちはしつつも、それを彼のせいにしようとは思えなかった。
きれいに整えられた寝室のベッドにもぐりこみ、どことなくほのかに甘くにおう気配を感じながら、僕は遅い眠りについた。
最初のコメントを投稿しよう!