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*3 クセになる彼
ハウスキーパーの利用は毎週水曜日の二十二時過ぎで、洗濯と掃除、それから一週間分の惣菜の作り置きを依頼している。
ひとり暮らしである上に昼間は大学やその付き合いでの外出が多くて留守がちで、食事も基本外で済ませてくることが多い。それでも惣菜の作り置きまで依頼されているのは、両親、特に母親の意向を反映してのことだ。
僕の初恋は、父親のクリニックに勤務している看護師――もちろん男性だ――だった。
まだ小学校に入って間もない時分に二十代前半だった彼に、ひとりっ子である僕は年の離れた兄を慕うような気持ちとは別の甘やかな感情を持って接していることに気付いた。
看護師であった彼は母親をはじめとする他の女性たちとは違って香水のようなきつい香りをまとうことがなかったのも、僕が惹かれた理由だったかもしれない。
その後も僕は学校の先生や家庭教師など、年上の男性を中心に恋をしていき、やがて男性同士のマッチングアプリに手を出すようになり、のめり込んでいった。
「――これは一体どういうこと?」
高校三年の冬、受験を控えたある晩に突然母親から何枚もの写真を突きつけられた。写真には都内のどこかのラブホ街と明らかにわかるところを歩く三十代ぐらいの男と――僕が写っている。
「薫、あなた予備校に行ってるはずの時間にこんな……いかがわしいところで何やってるの? この人は誰?」
当時僕は両親の後を継ぐべく医学部受験のために予備校に通っている――体で、マッチングアプリで年齢を偽って出会った男たちとデートと言う名の体の関係を持っていた。
予備校のためのお金を勝手に彼らとの逢瀬にも使っていたのだが、どうやらそれが予備校の何某かの代金として振り込みされていないという連絡が親に入ったことで、僕の淫行がバレてしまったのだ。
当然ながら、両親、特に母親からの叱責はものすごかった。嘘をついてよその男に会って肉体関係を持っていたこと、親の金をそういうことに使ったこと――いや、何よりも彼らは僕が男とそういうことをしていたのが許せなかったようだ。
挙げ句僕はその年の受験に失敗し、唯一合格した香田大学に入学したのだが医学部ではなかった。それを口実に僕は実家を出され、大学にほど近いこのマンションの一室を買い与えられ別居となった。
両親は周囲に僕の自立を促すためだとか言っているようだが、跡取りになるための成績を収められない上に男と関係を持ったような息子を家族として認める気はないようで、ほぼ絶縁状態のいまに至っている。
体裁を繕うためか、住む場所であるマンションとその他に困らないための生活費と学費は途切れることなく振り込まれているが、僕が彼らに会ったのは家を出た日以来一度もない。電話もメールも、一切ない。
それなのに僕の身を案じるふりをして、今月もまた膨大な金を振り込んでくる。そうしておけば、僕を見捨てていないというアリバイができるからだろう。
「清田さんってあれっすか、あの港区の清田クリニックの息子さんすか?」
次の週の火曜日の夜、今回もまた夜食に卵のお粥を作ってくれた淀川が不意にそんなことを言ってきた。
僕の実家のクリニックは地元では知らない人がいないくらいに有名ではあるので、そのうち言われるであろうとは思っていたが、こんなすぐだとは思わなかった。
とは言え、言われ慣れている質問ではあるので、「ああ、そうだけど」とだけ手短に答えた。
「俺港区の営業所から派遣されてるんすけど、そこの近くに病院があって、清田って言うからもしかして―って思ったんすけど……そうなんすねぇ」
何をどう納得しているのか、淀川はひとりうなずきつつ作り置きの惣菜――どうやらポテトサラダのようだ――を作っている。相変わらず掃除はどことなく雑なのだけれど。
淀川は今日も明るい茶髪を後ろで結い上げて不釣り合いなエプロンを付けて機嫌よく料理している。
「やっぱあれっすか、清田さんも将来は医者になったりとか――」
「ならない。というかなれない。僕にそんな有能さはない。だから僕は家を追い出された」
僕の実家のことを知ると必ず言われる言葉を遮るように返すと、淀川は驚いたように目を丸くし、やがて気まずそうにうつむく。
「……すんません、余計なこと言って」
「べつに。いつものことだから、先回りして答えただけだよ」
「…………」
それは本当のことだった。うんざりするほど訊かれてきた、答えのわかりきった質問にあえて時間を割くことなんてない。だから僕はそう答えたにすぎない。それなのに、淀川はまるでさっきの言葉が禁忌の言葉であったかのようにバツが悪そうにしている。それが僕にはわからない。
しばらく僕も淀川も無言で、ただかすかに淀川が和えている野菜とタレの何かが混じる音がするばかり。
「――俺、父親知らないんすよ」
どれくらい沈黙していただろうか。唐突に淀川がそんなことを言いだした。
言葉の意図がわからず僕が顔をスマホからあげると、淀川はカウンターで相変わらず惣菜を作っている。
手を停めることなく、淀川は続きを話し始める。
「私生児、ってわかります? 結婚してない二人の間に生まれちゃった子ども。俺それなんすよ。だから俺の名前、ヒミツの“密”っていうんす」
「……それを、なんでいま言うの?」
知り合って間もない、友達でもなんでもない人間の身の上話なんて突然聞かされてもリアクションに困るだけなんだが……そう言うように眉をひそめて淀川を見ると、彼は垂れ目の人のよさそうな顔をよりやわらかくしてこう答えてきた。
「清田さんのタブーに触れちゃった気がしたんで」
「だから?」
「俺の秘密を明かしました!」
そういう割には淀川に悲壮感はなく、むしろこちらが戸惑うほどあっけらかんとしている。秘密でありタブーであるならもっと複雑な顔をしていそうなものなのに。
「べつに僕はタブーでもないし……そもそもそれ、本当に秘密にしてる?」
「一応。でも名前が名前なんで、たいていバレますね」
「なんだそれ……」
無意味なタブーに僕が思わず苦笑すると、淀川は一瞬驚いたように料理していた手を停めた。まるで思ってもいなかった何かを見てしまったかのように。
淀川のリアクションに僕が首をかしげていると、彼は照れたように笑って呟いてまた料理に戻った。
「――ああ、綺麗すぎてびっくりした」
綺麗だとか、顔が良いとか、そういった類の言葉は掃いて捨てるほど言われ慣れている。聞き飽きてすらいる。それなのに――料理をしながらまたキッチンの中を所狭しと動き始めた淀川のほんのり赤く染まったあの果物のにおいのする横顔を見ていたら、まるで生まれてはじめて言われたかのような響きに思えたのだ。
愛想よく笑ったわけでも無防備な姿をさらしたわけでもなく、僕はただ苦笑しただけだ。それなのに、彼はまるで見たこともないような花を見たように僕を見て密やかに頬を染めて呟いた。
言葉自体は他愛ないなんてことのないひと言のはずなのに、ほのかに甘いにおいにくるまれて差し出されたそれは、僕の中に何かを小さく植え付けた気がした。いままでに感じたことがない感覚に僕は軽く戸惑う。
「清田さん、夜食のおかわりいります?」
淀川に声をかけられるまで僕は彼を見ていたのか、視線がかち合って逆に僕が慌ててしまう。
「いや、もういい」
そう言って僕が立ち上がると、淀川は食器を下げて片付け始める。その姿にはもう先程の照れた様子はなかった。あるのは僕の胸の中に何かが植え付けられたような感覚がしていてむず痒いばかり。
そうしてその日も、淀川は前回同様、掃除と洗濯と惣菜を七品ほど作り置いて帰って行った。
チャラそうな外見の割に、淀川は僕が注文した和食を良く作っていく。ただ少し味が濃い目なのだが。
「……ちょっと濃いんだよなぁ、やっぱ」
今日作ってもらったうちの一つの煮物をひと口つまみ食いしながら、僕は呟く。いままで色んなハウスキーパーが僕に料理を作って行ってくれたけれど、その中でも結構上位に入る美味さな気がする。
医者の両親が薄味信望者だったのもあるけれど、僕自身がにおいや味の濃いものが昔から苦手だった。人と同じで、濃いものはくどいと思っていたからだ。
(でも、あいつが作るのは、いやな濃さじゃないんだよな……)
あのにおいのように、ちょっとクセになる。それが淀川から感じる彼らしさな気がした。
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