*5 においに過敏な彼と鈍い彼

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*5 においに過敏な彼と鈍い彼

 密に連れて行かれたのは、大学から歩いて五分くらいの通りにある所謂ダイナーだった。アメリカンテイストの派手なネオンが店内のあちこちに飾られていて、古いアメリカ映画などに出てきそうなジュークボックスやブリキの看板などもある。薄暗い店内には学生らしい客が何組かいて、そこはかとなく甘ったるいにおいと油のにおいが漂う。 「ちわー」 「おう、密。授業はどうしたんだよ」  カウンターのスツールに並んで座ると、店員の男が声をかけてくる。密は顔なじみなのか挨拶をかわしてかも会話をしている。 「お、珍しいタイプの友達連れてきたな。清田クリニックの坊ちゃんじゃねえの?」 「俺のハウスキーパーのバイト先のお客さんでもあるんだよ。薫さん、何飲む? ここ俺のバイト先だから安くできるよ」  おすすめはクラフトコーラだよ、と言いながら差し出されたメニュー表を眺めると、確かにそれは手書きのポップで示されていた。 「バイト先? 密、ここでバイトしてんの?」 「うん、週三で授業の合間とかに。まかないが出るからすげー助かるんだよねぇ」  そう言いながら密はメニュー表を捲る。メニューには学生向けの大盛りポテトだとかボリュームたっぷりだという謳い文句のハンバーガーなどが並ぶ。 「坊ちゃんにはハンバーガーよりコーラが良いんじゃないか?」 「さっき勧めたとこ。どうする?」  いい歳して未だに坊ちゃんなんて呼ばれたことがちょっと癪に障ったけれど、結局勧められるままクラフトコーラを注文し、店員の好意でアイスがつけられてフロートになった。 「……あ、美味しい」 「でしょう? 店長、美味いって!」 「お口に合って何よりだわ。そう言えば密、明日シフト入れるか? 森田が風邪で寝込んでるらしいんだ」 「いいっすよ」  店長の頼みを二つ返事で快諾してフロートのアイスを掬う密を見ながら、「明日って僕のとこに来るんじゃなかった?」と訊くと、密はああ、というようにうなずく。 「大丈夫です。間に合うようには行くんで。店長、シフトって昼シフトですよね?」  密の問いかけに店長は何か料理を作りながら手をあげて応じる。ダイナーだからハンバーガーの肉でも焼いているのか、油とタレの焼けるにおいがしている。 「バイト、掛け持ちしてるんだ?」 「うん、俺奨学金もらってて、生活費とかは自分で稼がなきゃだから。あと、母ちゃんにも仕送りしなきゃだし」 「仕送りって普通親からしてもらうもんじゃないの?」 「ウチすげー貧乏だから。まだ高校の時の奨学金もあるしね」 「え、じゃあハウスキーパーとこことだけじゃ足りないんじゃない?」 「だから単発で引っ越しのバイトもしてる」  自分が恵まれた環境にいる自覚は一応あったけれど、それでも周囲のみんなはほとんど親から何かをしてもらっている奴らばかりだったから、密のように自分で何とかして、その上親の面倒まで見るという発想が驚きだった。 「エライね、密」 「そうでもないよ。貧乏なだけだもん。てか見てよ、おかげで最近ムキムキになってきた」  そう言いながら密はTシャツの袖を捲って筋肉の程よく着いた腕を見せてくる。日に焼けた肌がむき出しになり、その拍子にかすかにあの甘いにおいがした。 「密って香水とかつけたりする?」 「なんで?」 「なんか、甘いにおいする」 「全然。そういうのって俺より薫さんの方が似合いそう」 「それこそ全然だよ。僕は香水とかすごく苦手、って言うか嫌いだから」 「へぇー。俺そもそも香水つけられないからなぁ」 「つけない、じゃなくて、つけられない?」  言葉使い方が妙で僕が首をかしげると、密はコーラを半分ほど飲み干してからうなずく。 「俺、鼻がすっげー悪いの。ガキの頃母ちゃんが忙しすぎてさ、病院とか連れて行ってくれなかったんだよね。自分で行けばよかったのかなぁって思うんだけど、俺病院って金かかるって思い込んでたから」  そう言いながら密は鼻先を指先でつつき苦笑する。通った鼻筋に形のいい鼻腔は見かけによらずその機能が悪いという。 「強いにおいとかなら大丈夫なんだけど、なんかこう、微妙なにおいはダメだなぁ。あんまわかんない。香水もさ、高校の時とかつけてたんだけど加減がわかんなくて母ちゃんに“クサい‼”って怒られたからつけないようにしてる」 「そうなんだ……なんか意外」 「まあ、密は香水とか好きそうに見えるもんなぁ」 「え、店長、俺そうっ見えるすか? カッコつけてるっぽいってこと?」 「っはは、まあな。でも、密は他の感覚は鋭いんだよな」  僕らの会話に、店長が割って入ってくる。日頃密はダイナーのフロアを立ち回るバイトをしているそうだが、においに関すること以外であれば耳ざとく目ざといんだとか。 「お客さんのことはすぐ覚えるし、よく見てるもんな」 「やった、店長から誉められた」 子どものように無邪気に笑う密に、「ま、明日の休日出勤分だな」と店長が苦笑する。二人の親密さに僕まで何故か気分が良くなっていた。 僕の周りには僕の……というか、僕が親からもらうお金とか僕の顔や頭の良さだとかを利用しようとたかってくるような人間しかいないし、そもそもにおいの合わないやつとは付き合えないと思っているし。例外的に風磨のようにセックスするほど体の関係はあっても、そこにあるのは弱みに付け込んだ金銭授受による利害関係しかない。 だから、密たちのように心置きなく笑い合えるような関係性を持てるなんて考えたこともない。においで人を判別するような僕には、そういう資格はないのかなと思えてきて少し胸が切なくなった。  結局あれから密の友達だという学生も顔を出してきたりしてダイナーには二時間近くいて、程よく時間が潰れた。  密には性別関係なく友達がたくさんいるようで、ダイナーには入れ代わり立ち代わりやってきて密に挨拶していく。店長もいるけれど、どちらかと言うとみんな密が目当てのようだった。 「密、この前言ってた単発のバイトまたあるけどやる? 俺行けなくなっちゃってさ」 「やるやる」 「んじゃ決まりな」 「サンキュ。助かるよ」 「いいって。この前バイトゆずってもらったから時の約束だからな」 「バイトを譲る?」 「うん。イベントの売り子とか、警備のスタッフとか。登録制だから、俺が行けなかったら友達の誰かに回すし、俺も回してもらう。何だっけこういうの。餅の……」 「持ちつ持たれつ?」 「そうそれ、さすが薫さん」  密は指をパチンと鳴らして感心してくるので、僕は思わず笑ってしまった。  それからは密をはじめとしたみんなのバイト遍歴を聞かせてもらった。 「工場バイトってのがあって、ベルトコンベアーに延々とお菓子の箱が来て、それに詰めてくっての。それが楽は楽なんだけどすげー拷問で」 「拷問? 詰めてくだけなのに?」 「そう思うでしょ? 窓もない時計もない景色も変わらないとこで延々と同じ作業やらされてるとすげー眠いし、なんかもうわけわかんなくなってくるんだよ」 「でも給料はまあまあなんだよなぁ。立ったり座ったり動き回らないけど、ずーっと同じなのもしんどい」 「しんどいって言ったら子ども相手のも容赦ないから体力的に厳しいよねぇ」  知らない話を次々と聞かされて、僕は驚きの連続だったし、すごく良く笑った気がする。においに関係なく初対面の相手にこんな近い距離で話をしたことなんてなかったから、気付けば笑いすぎて頬が痛くなっていた程だ。  話を聞いていく内に、密はすごくみんなに慕われているのがわかった。信頼されていて、そこに秘密がどうとか口止め料がどうとか、ましてやなにがしかの恩恵にあずかろうと言う下心なんて存在していない。対等な関係だ。それが僕にはすごく新鮮だった。 店を出る際、コーラフロートの代金は密とそれぞれ払った。いつもこういう時はぼくが出すのが通例だったから、割り勘というのも初めてだ。 「密のも払うのに」 「べつに俺が貧乏だからってコーラ飲めない程じゃないよ」 「や、そういうワケじゃ……ごめん」  まるで彼の経済状況を見て僕が払うと言ってしまったかのように思えて思わず謝ったんだけれど、密は「まあ、俺から誘ったからね」と気にしているようではない。それが妙に嬉しく思えた。  再び大学に向かい、ぶらぶらとキャンバス内を歩く。さっきよりも少し日が傾き始めていて人通りもまばらだ。 「薫さん、これからどうすんの? 授業?」 「いや、ゼミの飲み会」 「そっか。いいね」 「いいのかな?」 「飲み会楽しくない? たまにしか行けないけど、行ったら会費の元取るぐらい俺飲み食いしちゃうもん」 「っはは、それすごいな」  密ぐらい体格が良ければ、きっと会費の元を取ることぐらい容易いくらい飲み食いは出来るだろうけれど、そう言った発想をそもそも僕はしたことがなかったから斬新に感じられる。飲み会の会費なんて、結局支払いの過剰分を払わされることが多い僕にとっては無意味だから。  何となく僕がそう言うと、密はそれまで朗らかに笑っていた表情を曇らせた。 「それ、良くないよ薫さん。友達に奢らされて文句言わねえの?」 「文句って言うか……まあ、僕の金のようで僕の金じゃないし」 「じゃあなおさらだよ。自分の金じゃないなら、なおさら友達を奢るのなんかに使っちゃダメだ」 「友達……ってわけでもないし。どうせみんな僕のそういうのを期待してるんだろうし」  友達、という言葉にさっきまでのダイナーでのひと時が()ぎる。僕には無縁な、今日だけ特別に輪に入れてもらった別世界。  僕が苦笑していると、密は突然僕の肩をつかんで真っすぐに見つめながら更にこう言った。 「薫さん。薫さんのお金は薫さんのために使うんだ。お金は使い方次第で毒にも薬にもなる。だから友達でもないやつにたかられてホイホイ出しちゃダメだよ」 「……密」 「約束だよ、薫さん」  そう、密は肩から離した左手の小指を差し出してくる。何だろう、と首をかしげていると、右手で僕の左手を取って小指を絡ませてきた。そして妙な節をつけて歌いだしたのだ。 「ゆーびきーり、げーんまん、もう薫さんはやたらに奢ったりしーない! はい、俺との約束ね」 「なんだそれ……」 「約束したからね、薫さん。信じてるよ」  再び人懐っこそうに笑いだした密はそう言って指をほどき、「じゃあね」と言って去っていく。  僕はぼんやりと密の指の感触の残る小指を軽く掲げたまま、その背中を見送った。
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