*6 守り切れなかった約束と涙

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*6 守り切れなかった約束と涙

 ゼミの飲み会は大学からの最寄り駅前にある最近建てられた商業ビルの居酒屋で行われた。  香田大学は僕のような、いわゆる実家が太い家庭から極平均的な経済状況の家庭の学生などが多い。中には密のようなタイプもいるらしいことを今日初めて知ったのだが、ゼミの面々は極平均かそれよりちょっと上のようだ。  何故そんなことをいま言うかと言うと、相変わらず風磨がみんなを煽るように料理やら酒やらをオーダーし、口では遠慮しつつもみんな箸を伸ばしグラスを手に取るからだ。 「そろそろ二次会移動する?」 「どこ行く? カラオケ?」 「じゃあさ、そこのエコー行ってVIPルームにしようよ。薫がいるんだし」  一次会だけの参加の約束のはずなのに、酔った風磨はそんなことも忘れて当然のように僕も二次会に出て、しかもなにがしかの支払いをさせようという魂胆が透けて見えることを言っている。 「えー、いいのぉ?」 「だって清田の実家って医者なんだろ? カラオケ奢るぐらいどうってことないんじゃね?」 「あったりまえじゃん。薫の実家は港区の清田クリニックだぜ。何ならここの支払いだってできるよ」 「マジで?!」  色めき立つ面々を前に、風磨が俺の方をちらりと見ながら得意げにうなずく。 「“友達”のためなら薫はいつでも気前いいから、な?」  僕のことなのに当たり前のように風磨が仕切っている。お前は僕のマネージャーか何かか? とでもいう風に。  いつもなら、多少苛立ちつつもこの場が丸く収まるならと黙って僕はカードで支払いをしてしまうところだ。そして酔っ払いたちの喝さいを浴び、なし崩し的に二次会まで連れて行かれるんだろう。 (そしてそのあとはきっと……風磨が僕の部屋に寄っていくんだ)  酔っぱらったから休ませろとか泊めてくれとか口実を作って、昼間断ったことの埋め合わせを体でしろと強要してくるかもしれない。  暗澹(あんたん)たる気分で風磨の方を見ると、彼は薄く笑って僕を見ている。その笑みが今日は無性に腹立たしい。  その時不意に、脳裏に密の声と印象的な垂れ目が見つめてくる様子が甦る。 「薫さん。薫さんのお金は薫さんのために使うんだ。お金は使い方次第で毒にも薬にもなる。だから友達でもないやつにたかられてホイホイ出しちゃダメだよ。約束だよ、薫さん」  小指を絡ませ合ってヘンな節の歌を唄いながら密から告げられた約束。あの歌は確か嘘ついたら針千本だとかだったと思うけれど、僕らの約束にそういった罰はない。そもそも律義に守る義務だってないはずだ。  ないけれど――僕は密のあの懐っこい笑顔と彼から漂う熟れた果物のようなにおいを思い出すと、それを裏切るようなことができない気がした。  密は僕に奢ってくれなんて言わず当然のように一緒の金額を払い、そして僕の金は僕のために使えと言った。ただそれだけのことがほんのりとまだ嬉しかったからだ。それだけのことが、僕にはここにいる奴らと密が何かが違う特別に思えた。 「――ごめん、今日はもう帰る。あと、会費の他のお金は出せないよ」  風磨が吹聴した僕の気前の良さとやらで盛り上がっていた場が、水を打ったように静まり返る。周囲の部屋のバカ騒ぎする声が聞こえるほどの静かさには言葉にならない気まずさが滲んでいるようだったけれど、構わなかった。 「な、なんだよ付き合い悪ぃなぁ、薫。まさかの金欠だとか?」  気まずさを打ち消すように風磨が冗談ぽく声をあげたけれど、僕はにこりとすることもなくきっぱりと返した。 「そうじゃないよ。僕が参加するのは一次会だけって話だったし、今日は奢らせないって約束だっただろ」 「そ、うだったっけ? 俺そんなこと言ったっけ?」 「とにかく、僕はもう帰るよ。会費、誰にいくら払ったらいい?」  僕がスマホを取り出すと飲み会の感じを請け負ってくれていたやつが慌てて手をあげる。「アプリ決済でいい?」と言うと、彼から会費が四千円だと告げられ、それだけを払った。 「じゃ、おつかれ」  呆然としている一同を置いて、僕はひとり店を後にした。風磨もその呆然としていた一人で、店を出てから彼の間抜けな顔を思い出しておかしくなった。  夜の更けた駅前の通りを歩きながら、僕はいつになく気持ちが晴れなことに気付く。当たり前の光景だと思っていたことを覆せたことが思いのほか爽快だったのだ。 「……約束、か」  僕にとっての約束とは、両親や教師などの大人と交わす決め事のようなものだった。テストで百点を取るとか、学年で一番になるとか、守らないと叱られる、そんな類のものが約束なんだと思っていた。  でも密と交わしたのは、そう言ったものとは違う。罰はないけれど、守れないと叱られる以上にいやな気分になる気がするものだ。まるで密から漂う甘いあのにおいのようなクセになる感じがする。 「あいつ、案外まともなんだな」  絡ませた名残も消えた小指を見つめながら、僕はチャラいだろうと思っていた第一印象と違う顔を見せた今日の密のことを考えていた。  夜もまだそんなに更けていなかったので、駅前からマンションまで歩いて帰った。喉が渇いたので途中で見つけた成城石井に寄ってミネラルウォーターを買った。ほろ酔いの喉と頬に冷たい水は無条件に美味い。  見上げた夜空には小さく満月が見えて、僕はなんとなくそれをスマホのカメラで撮った。カメラ性能が良い機種を選んだので、撮った月はくっきりとした輪郭できれいだ。 「密に送ろうかな」  不意にそんなことを思い立ってメッセージアプリのアドレスを開いても、出てくるのは風磨とゼミのやつらとよく知らない誰かのアカウントばかり。密のそれはどこにもない。 (……そうだ、僕ら友達じゃないんだった……あいつは、僕の部屋に来るハウスキーパーだ……)  ごく当たり前の事実に気付いただけなのに、僕はそれがひどく衝撃的で思わず立ち止まってしまう。あんな約束をしておきながら、僕が密の名を呼び、彼が僕の名を呼んでくれたのは今日が初めてだったのだ。  二十四時間も経ていないのに、なんでこんなにも濃密な記憶が残っているんだろう。ハウスキーパーで僕の部屋にいたのと同じくらいの時間を共にしただけなのに、記憶の残り方が全然違う。今日の二時間の方が圧倒的に濃密なのだ。だから、僕は月の写真を送ろうとしたんだろう。  ――でも、なんでそんなことを唐突に? 連絡先も知らない相手であることも失念してしまうほどに、あいつはごく当たり前に僕の中に存在感を示している。その感触が不思議でならない。 (今までにない感覚だな……なんだこれ?)  写真を送りたい相手の見つからないアプリを開いたまま見つめていると、突然画面が通話を求めるものに切り替わって震えだした。相手は、風磨だ。 「……もしもし?」 『おい、薫いまどこいるんだよ?』 「何の用? カラオケなら行かないよ。そういう約束だっただろ」 『まだ根に持ってんのか? 俺と薫の仲じゃんよ』 「……なにそれ」  風磨が良く口にする都合のいい言葉に、僕は呆れながら返す。いつもいつもその言葉が通用するなんて思われたくないからだ。僕と風磨の中だと言えば、“友達”であることが免罪符になるとでも思っているのが腹立たしい。 『へぇ……お前そういう態度取れる立場だっけ?』 「…………」 『いまさ、カラオケルームの外にいるんだよ。いまから部屋戻ってさ、お前のことマイクで全部言っちゃってもいい?』  通話越しに酔った吐息を感じそうなほどに粘っこい声色で絡んでくる風磨に、僕は溜め息も出ない。いつもなら何のかんの言いながらも僕が彼に付き従うようについてくるのに、無下にしたことが気に食わなかったのだろう。  卑怯で悪趣味なヤツめ……苛立ちを覚えつつも、強く言い返す言葉をすぐに返せない自分にも腹が立つ――でも、ここで僕が強く出たら、彼は本当にいますぐそばにいるというやつらに僕のこと知られたくないことをバラすかもしれない。風磨の性格を考えれば、しないだろうという可能性が低い。  だから僕は、努めて平静を装ってこう返した。 「……いくら欲しいわけ?」 『さーすが、頭が良い薫は話が早い“友達”だな』  通話の向こうで風磨がせせら笑っているのが目に浮かぶ。それが何故か異様に悔しくてたまらない。いままでだってこんなやり取りいくらでもあったのに。  請われるがまま僕はアプリ決済で風磨に送金し、それから早足でマンションまで帰る。歩きながら何故だか視界が滲んで揺れるのが止まらなかった。
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