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*7 新たな約束と無防備な笑顔
飲み会から帰ってすぐに僕は寝室に飛び込み、そのままベッドに潜り込んで眠ることにした。シャワーも浴びず、着替えもせずに頭から布団をかぶって。
風磨とのやり取りがあってから、僕の中には悔しさと行き場のない怒りがぐるぐると渦巻いている。そしてそれは僕の頬を伝って流れていく。
――僕、泣いてる? 濡れて熱い頬に触れてぼんやりと思う。明らかに泣いていると自覚できるくらいに泣いたのって、いつ以来だろう……思い出せないぐらい前なのは確かだけれど。
布団の中で息苦しくなってきたので顔を出すと、エアコンの冷えた風が火照った頬を撫でていく。
泣くぐらいに感情が激しく揺さぶられることなんてもう何年もなかったから、暗い部屋の天井を見上げながら僕は驚いてもいた。
(こんなに泣いたのって本当にいつ以来だろう……)
ぼんやりと記憶をたどりながら行き着いたのは、花束を持って申し訳なさそうな顔で僕を見ている看護師の、あの人だ。
「ずっとパパの病院にいるんじゃなかったの?」
泣きじゃくる僕に、あの人はただただ困ったように笑うばかり。
「ごめんね、どうしても彼女についていかなきゃなんだ。僕が彼女のお手伝いをする約束だからね」
「僕がお医者さんになったら一緒にお仕事するって約束したのに!」
「ごめんね、薫くん。元気でね」
――ああ、そうだ……あの人の顔も名前も忘れてしまったけれど、最後に言った言葉は憶えている。あの人は、僕との約束よりも彼女……お嫁さんになる人との約束を取ったんだ。
約束をしても守られない。だから約束なんて意味がない――それは僕が一番わかっていたのに。どうしてまた、僕は守れもしない約束をしてしまったんだろう。
「約束したからね、薫さん。信じてるよ」
僕と指を絡めて、何の疑いもない眼をして言っていた密の姿が過ぎり、胸が痛む。胸が痛むと暗がりの視界が滲み、また頬を伝っていく。
「……ごめん、密」
潤んで揺らぐ視界と泣いて発した熱で意識が眠りの中に落ちていく。ぼやけていく意識の中で呟いた言葉に、「信じてるよ、薫さん」というあの人懐っこい声が甘いにおいに包まれて返ってきた気がした。
大して酒を飲んでもいなかったからか、僕は随分とよく眠った。
部屋全体が常に快適な気温を保つような設定になっているのと、やはり昨日の色々と慣れない疲れることのせいで眠りが深かったようだ。
寝すぎたのか目が覚めるとぼんやり頭が重たくてものすごく怠い。目もものすごく腫れぼったい気がする。
「いま、何時だろ……」
独り言をつぶやいた声が掠れていてガサガサだ。念のためのどの痛みを確かめたけれど、痛くはないので風邪をひいたわけではなさそうだ。ただひどく喉が渇いていた。
のっそりとベッドから体を起こしてしばらくぼんやりとしてから、僕はゆったりと体を引きずるように寝室を出る。
どうやら外は昼過ぎなのか、リビングの窓の外は眩しいほど明るい。陽射しが射し込む窓際に行くとそれだけで日に焼けそうだ。
リビングのソファに座ってなんとなくテレビをつける。昼のニュースがやっていて、やっぱり今は昼間なんだと知る。
「……腹減ったな」
思えば昨夜の飲み会でも満腹になるほど食べていないから胃は空っぽなんだろう。珍しく腹が鳴った。
ソファから立ち上がってキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。そこには密が先日作り置いていった惣菜の残りがタッパーに入って並んでいた。
その内の一つを取り出し、更に冷凍庫からもおにぎりのようなものを一つ取り出す。おにぎりのようなものは同じく密が作り置いていってくれたもので、茶碗一杯分くらいの炊き込みご飯だ。
レンジで温めながら、ぼんやりとこれを作ってくれた時のことを思い返す。
「清田さんは少食だから、炊き込みご飯とかして色々な食材食べれるようにした方が良いっすよね」
そう言いながら手際よく大きな密の手の中で次々と大き目のおにぎりが作られていくのはなかなか面白いものがあったのを憶えている。
母親は物心つく頃には病院で当たり前に働いていたから、僕には所謂“おふくろの味”みたいなものはない。僕が小学校に上がる頃くらいまで来てくれていたハウスキーパーのおばさんの作る料理の味が強いて言うならそれにあたるのだろうか。関西のなまりがある人だったからか、出汁の利いた料理が多かった。
「うまッ……」
密の作る料理は全体的に僕の味覚からしたら濃い目なのだけれど、喉が渇くような下品な味付けではない。
昨夜久し振りに泣いたからか、濃い味付けがちょうどよく思える。塩分でも補給しているんだろうか。そう考えたらなんてタイミングのいい味付けなんだろう。
「っふふ、なんか空気読んでるみたいだな」
まるで見透かすようなそれにひとり笑いながら、まだ少し腫れぼったくてだるい体に濃い目の味付けの朝食とも昼食とも取れない食事をする。
つけっぱなしのテレビを見ながら食べる密の作った料理は、なんだかいつもよりやさしい味な気がした。
結局今日は昼過ぎに起きてしまったのもあってそのまま講義をすべてサボることにした。
だらだらとリビングのソファでサブスクの映画を二本くらい観て、またちょっと惣菜を摘まんだりそのままソファで転寝をしたりしていたら日が暮れていつの間にか夜だ。
そうしてだらだらと自堕落に過ごしていた二十時過ぎ、インターホンが鳴った。
僕は寝ころんでいたソファから飛び起きて応答画面を覗き込む。
『こんばんはー、ウッディハウスキーピングの淀川っすー』
画面には昨日の昼間に会った時のようにハネまくった派手な髪形ではない、髪を後ろに束ねた地味な作業服姿の密が映っている。僕はその姿に無意識の安堵の息をついていた。
密はいつものように掃除から始め、その合間に洗濯をしていく。
持参したモップで棚やテレビモニターの埃を落としたり、スプレーを吹き付けたフローリングを雑巾で拭いたり、手際は良い。
決してきれいになっていないわけではないんだけれど、初回から二回ほど彼の掃除を見てきて、なんとなく気になっている。手際は良いんだけれど、密のやり方はどことなく雑な感じなのだ。その証拠に拭き跡が残っていたりする。
「どうかしたんすか?」
「……や、前から気になってたんだけど」
「はい」
「密って、掃除苦手でしょ?」
僕の指摘に密の顔がほんのわずかに赤くなり、床拭きをしていたままの体勢で正座をして手をついて頭を下げてきた。
「すみません‼ やりなおします!」
「え、や、そういうわけじゃ……」
「俺、掃除が家事の中で一番苦手で……こういう仕事してるのに……。たまーに苦情来ることもあったりして練習してるんすけど……やっぱ、バレますよね、下手なの」
顔をあげてあからさまにしょ気ている密の姿を見ていると、掃除の出来を指摘した僕の方が悪いような気がしてくる。まるで良かれと思って獲物を持ってきた猫を叱ってしまったような気分だ。
「すみません、次からは掃除が上手い人に代わってもらって――」
「いや、僕もするよ」
手伝いらしい手伝いはいままでしたことがない。でも実家にいる時に、ハウスキーパーの掃除が気に入らなかったら後でやり直しを自分でしていたことはある。なのでそれなりに掃除には自信がある。
「いやいや、薫さん依頼主じゃないっすか。そんな人にさせるワケには……」
「僕がやりたいから、やらせてよ」
「それよりも別の人に代えた方が良くないっすか?」
「掃除以外は、べつに文句はないんだ。だからさ、一緒に掃除しようよ」
僕の言葉に、密が目を丸くして顔を赤く染めて照れたようにうつむき、もじもじと手許の雑巾をいじりだした。その内やがて上目遣いでこちらを窺いつつこう訊ねてくる。
「一緒にやったとして、それ、会社に報告します?」
「しない。そういうことするぐらいなら交代してもらう」
「だったら交代した方が良くないっすか」
「だから、掃除以外は文句ないんだよ。正直、前の人よりご飯美味しいし」
僕まで赤くなりながら正直に答えると、密は赤い顔のまま考え込む。僕に掃除をさせるか悩んでいるのだろう。
しばらく沈黙した後に、密はうーん……とうなりながら顔をあげた。
「……わかりました。掃除ができてないのは俺のせいなんで、清田さんがそう言うなら、一緒にやりましょう。その代わり」
「その代わり?」
何か条件を付けてくるというのだろうか。会社には言わないとはさっき言ったんだけれど信じてもらえなかったんだろうか。もしかして、こいつも体の関係を要求してくるとか……
僕が気をもんでいると、密はいたずらっぽく笑ってこう言った。
「俺に掃除おしえて下さい! そしたらその内清田さん追い抜くんで!」
力こぶを作るようなポーズを取ってそう宣言をしてくる密の姿がおかしくて僕が吹き出して笑うと、密もまたおかしそうに笑う。その表情はダイナーで見せた時のものと同じように無防備な素の密の表情で、チャラさなんてかけらも感じられなかった。
(こいつ、こんな顔もするんだ……)
思いがけない表情を目撃したのが密かに嬉しくて、僕は久し振りに声をあげて笑った。笑った拍子に鼻先にあの熟れた果物のにおいがくすぐっていく。
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