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*8 プロに伝授する僕の知識
僕はひとり暮らしなので毎日の汚れはそんなに溜まったりはしない方なのだが、密は仕事上依頼の場所によっては手ごわい汚れに出くわすこともあるという。
「換気扇とかカビ取りとかは専用の洗剤とか道具が会社から持たされてるんでそれ使えばいいんで案外楽なんすよ。そうじゃない、床拭きとか棚の整理整頓とかがちょっと苦手で……」
「でもさ、床拭きとかなんて換気扇外したりなんだりすることに比べたら楽じゃない?」
僕が首をかしげて言うと、密は肩をすくめて苦笑する。
「お客さんが普段やるような掃除だからこそ、自分の普段のやった後との差がわかりやすいんすよ。“あ、ここの隅のとこ拭けてないな”とか、“ここの死角見えてないんだな”とか。そういうのって出来てるとお客さんは嬉しいじゃないっすか、ここまでやってくれるんだ! って」
なるほど、と僕はうなずく。確かに密の言い分には一理ある。そしてたとえバイトとは言え、お金をもらうプロであるからにはそういうところにも気付けないと意味がないということを彼もわかっているんだろう。
(適当にこなしているわけじゃないんだな……意外だ)
思いがけない一面に僕が感心していると、密はさっそく先程途中だった床拭きに戻ろうとする。僕はそれを手で制して止めた。
「あのさ、密は普段どんなこと考えながら掃除してる?」
「どんなことって……そうっすねぇ、時間が気になりますね」
「時間?」
「時間かかっちゃったら延長になっちゃってお客さんに余計なお金払わせちゃうじゃないっすか」
「まあ、そうだね。でもさ、時間ばっかり気にしてて掃除が疎かになってたら結局密がそこの担当外されちゃうかもしれないんだからさ、あんまり意味なくない?」
「……そう、っすね」
これまでに掃除のことで担当を外されたことでもあるのか、密は僕の言葉にバツが悪そうにうな垂れる。
「でも、時間かかりすぎるのは良くないって会社からは言われてて……」
「そりゃ、延長料金狙いでワザと時間かけるのは良くないけどさ、掃除の出来が疎かになってまで早く切り上げるのは本末転倒じゃん」
そうでしょ? と念を押すように問うと、密は少し考えながらうなずく。
じゃあ、どうしたら時間をかけずにきれいにできるか、という根本の問題にぶち当たる。
現場に出る前に研修は一通り受けているであろうから、密に技術的な問題があるとは思えない。それなのに掃除が上手くいかないのは、掃除の方法の用い方に問題があるんじゃないだろうか、と僕は考えた。
なので、実際に一緒に掃除しつつ考えてみることになった。
棚の上など高いところは密の方が背は高いので埃に目が付きやすいらしく、手が届いていない感じではない。棚の隅の方まできれいに拭いているのは僕もこれまでにわかっている。
となると、あとはやっぱり床など低いところの掃除だろうか。
「テレビモニターの裏のその奥とか、本棚の裏とか、そういうところも気にしてみたらいいんじゃないかな」
「なるほど……」
「あと、壁も案外汚れているって言うから、そういうとこも拭き掃除するとすっきりするんじゃないかな」
僕が知りうる掃除の知識にもならない話を、密は真剣にメモ帳にメモしながら聞いている。壁の拭き掃除には水拭きでもいいのか、とか、洗剤は使っていいのか、とか、色々と訊いてくる。
正直意外だった。プロでもない僕が掃除の仕方に難癖付けてお節介焼いていると思われているんじゃないかと思っていたのだけれど、思いのほか密は真剣に僕の話を聞いてくれる。熱心とさえ思える姿勢は、初めて会った時に感じたチャラさのカケラもなかった。
チャラいどころかむしろそこら辺の同い年のやつよりはるかに真面目な目をしてぼくの話を聞いてくれる密の姿に、僕はなぜかすごく胸の鼓動が速くなっている気がした。
「埃を丁寧に素早く払って、硬く絞った雑巾で拭いて、それからさらに乾拭き……ガラス棚はマイクロファイバーのクロスを使う……ッヨシ、イケそうっす!」
一通り話を聞き終えてメモをした密は、さっきまでのしょ気た雰囲気とは打って変わって自信に満ちた顔をしてうなずいている。その明るい表情に、何故か僕の胸が大きく音を立てて高鳴る。
「薫さん、ありがとうございます! これで俺、掃除ちゃんとできそうっす!」
飛びつかんばかりの勢いで僕の手を握りしめて顔を近づけてくる密を、避けることも拒むこともできずただされるがまま手を握られてしまう。そしてまた、あの果物のにおい。大きな熱い手が強く僕の手を握る感触と、そのにおいが心地よい。
「いや、べつにそんなたいしたことでは……」
「マジで感謝っす! なんかお礼を……ああ!」
掃除のお礼に何でも言うことを聞くと言い出しかねないほどの感激ぶりの密が、突然僕の手を握ったまま素っ頓狂な声をあげる。
何事かと密を見つめていると、密は申し訳なさそうな顔をして肩を落として呟く。
「……掃除教えてもらってたら、時間になっちゃいました……まだ惣菜も作ってないのに……」
自分のうっかりで手許の風船を飛ばしてしまった子どものような密の慌てる姿に、僕はつい、吹き出して笑ってしまった。だって本当に大きな身体の彼が小さな子どもみたいに見えたからだ。
あまりにおかしくてしばらく笑っていたら、密はバツが悪そうにうな垂れつつも苦く笑った。
「そんなにおかしかったっすか?」
「ごめ……すっごい慌ててたのがおかしくて……っはは……」
笑いすぎて涙が出るなんて初めてかもしれない。文字通り腹を抱えて僕が笑っていると。密もやがておかしそうに笑いだして二人でしばらく笑っていた。
「密、この後仕事入ってる?」
「いえ、この後は特には」
「じゃあ、延長お願いしていい? 元はと言えば僕が掃除のことに口出したせいなんだから」
涙のにじむ目許を拭いながら僕が言うと、密は慌てて首を横に振る。「そんな! 俺がちゃんとしてればいいだけの話なんすから!」と言って、延長料金をもらわずに惣菜を作っていくと言うのだけれど、さすがにそれは申し訳ないので、きちんと僕から延長の連絡を会社にした。
「じゃ、あともう一時間、お願いしていい?」
電話で連絡をし終えて僕が改めて告げると、密は改まった様子でうなずき、「了解っす」と笑顔で答える。
その笑顔に、僕はまた小さく胸が高鳴ったのだけれど、やっぱり理由はわからなかった。
――いや、あえてわからないふりをしていたのかもしれない。
結局その日、密はいつもの七品に加えてもう一品の惣菜と、夜食にといつものお粥でなく小さなおにぎりと野菜たっぷりの味噌汁を作ってくれた。
「あのさ、また改めて依頼するけど、鍵預けるから、また惣菜作ってくれる?」
「え、いいすんか?!」
「うん、密の美味しいから」
「わー! ありがとうございます! 鍵のことは、俺も会社に報告しますけど、一応薫さんからも連絡してもらって良いっすか?」
「うん、わかった。またよろしくね」
「はい! ありがとうございました!」
そう言って鍵のカードキーを受け取り、玄関先で改めて頭を下げてお礼を言って密はにこにこと帰って行った。
いままでウチでの勤務中の様子が暗かったわけではないけれど、今日はやけに晴れやかな顔をしていた気がする。
密が晴れやかな顔をしていたことの要因に僕の助言……というよりもお節介に近いものだったけれど、それが役に立てたのかと思うと、なんとなく頬が緩んでしまう。まるで僕の方が誉められたかのように。
その妙な発想に、慌てて首を振る。
「……いやいや、なんで僕が自分ことみたいに思ってるんだよ」
声に出して打ち消してみても、胸中にはあの嬉しそうに笑う密の顔が浮かぶ。それが一層僕の感情を掻き立てる。
蜜の言動に掻き立てられる嬉しい感情……その意味を考えながら、密が作ってくれた塩の利いたおにぎりを頬張った。
密と一緒に掃除をして体を動かしたからかおにぎりはとても美味しくて、具沢山の味噌汁はも味が濃いながらも旨味があっておいしく思えた。やっぱり、彼はこれまでのハウスキーパーの中で飛びぬけて料理が美味い気がする。
「あー、ホント美味しい」
彼がウチに来てくれるようになってからささやかに変わり始めた僕の生活には、密の姿が映るようになっているのを、そこにいつもあのにおいが付きまとっているのも、薄々気付きつつもまだ知らないふりをした。
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