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「遼、仕事は? もう済んだん?」
「ああ。ちょうど帰り道だったからな」
迎えに寄ったのだと言って微笑を見せる。紫月に向けられたその笑顔は穏やかでやさしく、完璧なまでに品がいい。
「楽しめたか?」
短いそのひと言の裏には、『もう夜も遅い。そろそろお開きにしよう』という意図が含まれているように思えたのか、三春谷は苦虫を噛み潰したような顔つきで黙り込んでしまった。
「迎えに来てくれたんか! さんきゅなぁ」
紫月は今し方注いだグラスをクイと空けると、そろそろ行こうかと言って三春谷に向かって微笑んだ。
「三春谷、今日はありがとな! 幸せになれよー」
そう言って伝票を手に取る。ここは俺が――ということなのだろう。三春谷は半ば呆然ながらもその動きをただただ目で追っていたが、その直後にオーナーの銀ちゃんから思いもよらない言葉を聞いてハタと我に返らされてしまった。
「紫月ちゃん! いいのよぉ。お代はもう遼ちゃんからいただいてるの!」
ゲイバーをやっているだけあって、クネっと腰をよじりながら可愛らしい仕草でウィンクをしてよこす。
「マジ? 遼が?」
悪いなと言いつつも、穏やかに細められた視線が頼れる亭主だと言っているようで、三春谷は礼の言葉さえ詰まったまま金縛り状態でいて、しばらくは立ち上がることさえできずにいた。
「三春谷、行くべ!」
紫月にうながされてようやくと我に返る。外へ出れば既にタクシーが一台待っていて、それも鐘崎が手配したのだろうことが窺えた。
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