探偵たちに未来はない

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探偵たちに未来はない

二〇二四年一月二十五日、大雪の朝である。暖房を強くしても、強くしても、しんしんと寒い。 とある探偵事務所では、一人の男が、実に退屈そうに溜息を吐いていた。依頼なんて来るはずはない。そう、来るはずはない、と思いつつも、しかし彼は寒さで痛む膝を摩りながら、今日も仕事机の前で待ち続けていた。 彼の名前は海老原水樹。今年二十五歳になり、探偵歴六年目になる。容姿端麗、明るい灰色の髪はロシアンブルーのように滑らかで、見る者に好印象を与えるだろう。だが、今の彼の表情からは倦怠しか感じられない。 水樹がいる探偵事務所の名前は「探偵社 アネモネ」だ。曇り空の色をした雑居ビルの二階、階段は外にしかない。ここは探偵を生業とする者なら誰もが知る老舗である。水樹が就職したころは、探偵事務所と言えば此処だった。しかし、今はどうしようもないほどに、依頼が来なかった。此処には、現在は三人の探偵しかいないが、充分すぎるほどに――いや、今日のように水樹一人でもどうにかなってしまうほどに。ましてや今日は大雪である。人の気配などありはしない。 それでも毎日こうして待ち続けるのは、もはや水樹の意地であった。 午後二時に、一人の男がやってきた。黒い髪の青年――彼が依頼人なら良かったのだが、彼は探偵の一人である。 「コーヒーでもお淹れしましょうか?」 オーボエの様な声をした彼、名前は、橘理人という。水樹は理人の問いかけに首を振る。 「結構です。自分でやりますので」 「そうですか……ああ、では私は仕事に取り掛かりますね。貴方の邪魔をしてはいけないでしょう?」 理人はそう、パソコンを開いた。この探偵事務所には常に二台のパソコンがある。どちらもネットに繋がる環境が整っている。 「理人に仕事なんてあるのですか」 と、水樹が嫌味を投げると理人は笑顔を見せ、 「沢山ありますよ。例えば、えーっと……あ、ありました。これに目を通すことですとか」 と、ノートパソコンの画面を水樹に向けた。 「なっ……! ふざけないでください!」 水樹は怒りに任せて叫んだ。画面に映っていたのは小説投稿サイトの小説である。水樹は探偵業の常の暇に任せて推理小説を書いているが、あまり読者の反応は良くない。 「僕は理人と違って忙しいんですよ」 吐き捨てるように絞り出した声に、理人は口元を隠して笑い、「へぇ、そうですか」なんて答えた。其処からまた、沈黙が流れる。 「……もう良いです。帰ってください」 何せ仕事がないのだから。水樹は理人を睨み付けた。 「そうですか。では失礼します」 理人は鞄を持って立ち上がる。水樹はその背に向かって言葉を投げつけた。 「こんな冗談で僕の貴重な時間を潰さないで下さいよ、この暇人!」 理人は振り返って、「はい、そうですね」と微笑んだ。 が、理人は帰らなかった。と言うか、帰れなかったのである。事務所のビルの、外の階段を下りていく金属の音がしたが、直ぐに戻って来て、ドアを再び開け、今度はこう笑った。 「水樹。お待ちのお仕事の依頼人ですよ」 水樹は顔を上げた。その顔は笑顔だったに違いない。いや、事件を望むのは、ひどく不謹慎なのだけれど。 *** 依頼人を事務所のソファに通す。事務所のソファはマリンブルーで、探偵たちがよく集まる場所だ。依頼人が座ると、依頼人の正面に水樹が座り、左側に理人が座る。もう一人の探偵はというと、未だ到着すらしていない。待っていてもキリがない。彼は、非常に気まぐれで、髪の色も相まってシャムネコのようなのだ。 依頼人は女性である。依頼人は水樹と理人に名刺を渡して来た。その名刺には、依頼人の名前がある――黒谷柚子。年齢は二十代後半くらいだろうか。長い茶髪を後ろで束ねている。水樹は、彼女のことを少しばかり観察する。目の下に隈が出来ており、疲労しているように思えた。理人が先に口を開く。 「初めまして。私は橘理人と申します。こちらは海老原水樹です。以後お見知りおきを」 理人は水樹の方を向いて微笑んだ。水樹は首を縦に振ってから、なるべく上品な声を出す。 「宜しくお願いします」 理人はまた前を向く。そして理人は、自分のスマートフォンをポケットから取り出して、何かの操作をして、柚子の前に出した。 「黒谷さん、先ほど、少しお伺いした通り――最近起きた、この密室殺人事件、毒ガスで死亡した被害者の謎を解いて欲しいということでよろしいでしょうか」 「はい」 頷く柚子の声は沈んでいた。 「被害者は、私の知人の男性で、私は今日、彼に会って話を聞こうと思っていました」 「それは何時頃の話ですか?」 「一週間前の正午過ぎに電話をかけて、その日の夕方に会う約束をしていました」 彼女はずっと俯いているが、水樹は内心テンションが上がっていた。何せ、巷を騒がす殺人事件の解決を依頼されたとなれば、鼻が高い。もしかすると、事務所の評判も上がるかもしれない。さて、と前置いて水樹は柚子に声をかける。 「黒谷さんは、被害者に、どのような話を聞くつもりで約束を取り付けたのです?」 柚子は顔を上げて、小さく答えた。 「……私は、彼が、私のせいで殺害されたという可能性を考えています」 柚子の目は悲しげに揺れていた。 「貴女のせい? いったいどういうことですか。僕に教えてください」 「死の真相というより……それも、勿論そうなのですが。彼は、何かを隠していました。私はそれを、確かめたいんです」 *** 一週間前に黒谷柚子が被害者に会う約束をしていたと聞いたとき、理人は何か引っかかった。なので、其処から柚子に詳細を問いただした。彼女が言うのは、被害者の名前は、宮藤英嗣。柚子とは、彼が勤める会社の社長の紹介で知り合ったという。そして柚子は、彼に会いに行く直前、彼の会社を訪ねていた。そのとき、社長から、彼は柚子には隠し事をしているようだったと聞かされた。 柚子によると、柚子の仕事は、アパレル関係である。だから、柚子自身もファッションが好きで、よくファッション雑誌を読むし、服も買うそうだ。柚子は、最近までとあるブランドの専属モデルを務めていた。柚子は元々、モデルではなく、ファッションデザイナーになりたかった。けれど親は猛反対していて、それならばいっそ他の道を選ぶことにしたのだという。しかし、ファッデザイナーの夢は、まだ諦めきれていないのだそうだ。彼女は、自分の作った服を着ている人をもっと見たいと社長に熱弁。その後、柚子は、英嗣に会う時間だと気づき、社長と別れて待ち合わせ場所に向かったが、英嗣が来なかったため、彼の家へ向かった。 「そして、其処は全て施錠されており、窓が閉まっているにもかかわらず、英嗣さんは亡くなっていた――と」 「ええ、私が大家さんに頼んでドアを開けるまで、其処は密室でした。英嗣さんは毒ガスで亡くなったそうですが、窓も閉まっていたし、どこから発生したのか分かりません」 「失礼ですが、黒谷さんと被害者の関係は、どのようなものでしたか?」 「英嗣さんは、私の上司です」 「職場恋愛ということですか?」 「まさか! 違います」 理人は、柚子が激しく首を左右に振る理由を頭の中で整理するため、わずかな沈黙を置いた。この反応は、職場恋愛だったと見ていいだろう。 「黒谷さん、貴女は、この密室殺人のトリックを解き、真犯人を検挙することを望んでいますか?」 「はい」 「では、私たちは、私たちなりにこの事件の解決に全力を尽くします」 *** 「――以上です」 理人は、三人目の探偵に報告を終える。二〇二四年一月二十六日、雪は止んだ。つまり二十五日は事務所に来ることすらなかった怠惰な三人目の探偵は、今、ソファにだらしなく横になり、マーマレードジャムの色の髪に寝癖を携えてスマートフォンを操作しながら、その報告を受けたのだった。彼の名前は、光岡陽希。右耳に三つのピアスを着けた、シャムネコのような青年。ここにいる三人とも同じ二十五歳の探偵である。 「理人ちゃん、お疲れぇ。報告サンキュー」 理人は、はい、と小さく返事をして苦笑した。すると理人の向かいに座っている水樹が口を開いた。 「それで、どうする? これから」 テーブルに手を着き、両方の手の指を組んで、其処に顎を乗せる水樹を見もせず、陽希が答える。 「ああ……そうだねぇ、まあ、一応、現場に行ってみる? あー、でも雪積もってるし、面倒くせぇからやめとくか」 「そう言う訳にもいかない。あんまりふざけるなよ、陽希。折角の依頼なんだ、これを逃したらまた閑古鳥だ」 「だって水樹ちゃん行けねぇじゃん」 水樹は、少々足が悪く、杖がないと歩くことは難しい。雪道は危険だ。そこで、理人は溜息をついて二人の間に割って入った。 「私が行きます」 「えっ」 理人は、グレーのジャケットを着て立ち上がり、戸棚からチェスターフィールドコートを出して羽織った。 「ちょっと行ってきますね」 「待てって、俺も行く」 「ふふ。夜には戻りますから、陽希さんは残っていてください。私は大丈夫です。そんなに心配なさらなくても」 「だって……」 「陽希は、やたらと理人には甘いんですね」 水樹の尖った声が飛ぶ。 「理人ちゃんはいい子だから。理人ちゃんの方が優秀だし。水樹ちゃん、僻み?」 「そういうことを言ってるんじゃない!」 理人は二人のやり取りを眺めて微笑んでいたが、いよいよ背を向けて外に出ようとした。 「ちょい待ち」 「はい?」 理人は振り向いた。陽希はソファから立ち上がり、自分のバッグの中から財布を取り出して、中から札束を一つ出した。 「これでタクシー呼んで、行っておいで。気を付けてね、理人ちゃん」 陽希はいつものようにへらりと笑った。 「本当、優しいんですね」 「じゃ、よろしく。行ってらっしゃーい」 陽希がひらひらと手を振るのを横目に見て、理人は事務所を出た。 *** 宮藤英嗣のマンション、つまり、彼が死んだ自室があるところだ。理人はその部屋を、先ずマンションの入り口から見あげた。三階とのことである。マンションの周りは昨日の雪で濡れ、そうでない部分は凍り、白っぽい外装を余計に寒々しく見せている。 理人は入り口の自動ドアを通って、エントランスホールに入った。比較的高級なマンションと事前に聞いていたが、想像していたより、やや古びていて質素だ。理人は誰ともすれ違うことなくエレベーターに乗って三階に上がり、英嗣の部屋の前まで来た。チャイムを鳴らすと、インターホン越しに柚子の声が聞こえてきた。 「『探偵社アネモネ』です」 理人が声を投げると、柚子はドアを開けてくれた。今日も、かなりくたびれて見える。恋人を亡くした焦燥か、はたまた。 事件が発覚したのは、もう一か月も前だと言う。ほとんどのものは、警察が調べた後だろう。それでも柚子には、捜査情報をくれるかもしれないという望みもあった。そしてそれは叶ったようだ。理人は柚子に勧められるままソファに座った。 お茶を出してくれるというので、それを待つ間、マンションの室内を見渡してみる。内装は、全体的に落ち着いた色合いだ。白や木目調を基調とした家具が多く、清潔感のある印象を与える。 此処で、英嗣は毒ガスで亡くなった。密室だったにも関わらず。 暫くすると、湯気の立つ白いマグカップを持って柚子が戻ってきた。柚子の目の下の隈は濃かった。昨日も眠れなかったのだろうか。理人は実に丁寧に礼を言って、出された温かい緑茶を一口飲んだ。 余りの焦燥ぶりに心が痛むが、理人がここにやって来た理由は一つだ。この事件を解決すること。それが柚子のためにもなる。 「突然の依頼にも関わらず、請けてくださってありがとうございます。他では断られてしまって……そんなに、報酬も支払えませんし。こんなに優しく請けていただけるなんて」 理人は、まず柚子の心を解すべきと考えた。女性と話すのは得意だ。顔を上げて、質問を投げる。 「あなたは、水樹を見て、どのように感じますか? 彼は、事件の背後には、必ず依頼人が抱えている悩みや問題がいくつも存在しているため、それらに焦点を当てることで事件解決に繋がると信じている」  柚子は白いマグカップで手を温めながら、俯いて、黙って話を聞いてくれている。 「水樹は、単に犯人を捕まえるだけではなく、事件のアウトラインを示すことに情熱を注ぎます。また、依頼人の気持も置き去りにはしません。人情味のある対応で信頼関係を築くことで、依頼人にとって最善の解決策を提案します。また、彼は自分の推理が正しいと妄信せず、関係者や他の探偵の考えも必ず聞いて、尊重します。真実に辿り着くことは一人では不可能であり、仲間の情報と連携が必要だと確信しているからです。口に出して信念を押し付けはしませんが、依頼にしっかりと向き合うことで問題解決に向けて尽力しますから、それが伝わるはずです」 そこで、理人は「ちょっぴりツンデレかもしれませんがね、其処も愛らしいでしょう?」とユーモアを付け加えて、言葉を続ける。 「実は依頼された調査に全力で取り組み、自分のやり方や信念を曲げることない、誠実な探偵です。私は水樹を尊敬しています。ですから、御安心ください。私たちが必ず事件を解決します」 「ありがとうございます、ありがとう……」  理人は柚子が落ち着くまで背中を撫でてから、こう告げた。 「英嗣さんの亡くなっていた場所を見せていただけますか」 「勿論」 柚子は二つ返事で承諾してくれた。 其処は、キッチンであった。いたって普通の、システムキッチンだ。流し台もコンロも換気扇も綺麗なまま。食器棚も中身はそのままだ。理人は辺りを見回しながら、柚子に訊いた。 そういえば英嗣さんって料理はお上手だったのですか? と理人が首を傾げると、どうなんでしょうね。私は食べたことがないから分からない、というようなことを、柚子は答えた。彼が死してなお、職場恋愛を隠すあたり、彼の立場を考えられる奥ゆかしい女性である。 此処の床に、彼は仰向けになって亡くなっていたらしい。理人がほかにも見て回ろうとした時、チャイムが鳴った。インターフォンに、水樹と陽希が映っている。 「おや、二人とも……」 「やっぱり、来ちゃいました。理人が真面目に働いているか、監督したくて。だって、僕たち、三人で『アネモネ』なんですから。ね?」 水樹はまだ問うてもいないのに、べらべら喋る。心配だったくせに、素直ではない。 「はい、お茶とお菓子」 遊びに来たというわけでもないのに、陽希は茶葉の缶と菓子を持っている。依頼人の柚子が引いているくらいだった。 *** 「よく、此方へ来られましたね」  理人は水樹に声をかけた。何だかんだ言いながら、陽希が親切に介助したのだろう。 「雪が少し融けましたし。一度は自分の目で現場を見ておきたかったですから」 「嬉しかったですよ。心細かったので。私のことが気がかりで来てくださったのでしょう?」  理人が素直に言うと、水樹は目を逸らす。全く、照れ屋さんだなぁ、と思わず笑みを零してしまった。 「へえ、ここが事件現場かぁ」  陽希はピーコートのポケットに手を突っ込んだ状態で首を伸ばし、室内を観察した。水樹が、換気扇に目をやる。 「このマンションは変わった作りですよね。換気扇が、隣の部屋のベランダを向いているんですよ。隣室の住人が蛍族なら、たまったものじゃない」  水樹は煙草を嫌う。そのため何となく、理人も陽希も吸わない。陽希にいたっては、恐らく、そんな苦いものより、甘いお菓子の方が好きだ。  水樹は換気扇に近寄って行って、顔を寄せた。背伸びをしたり、下から覗き込んだりを繰り返し、その後、スイッチの部分を指さした。 「何か、取り付けられています」  理人も近づき、後ろ手を組んだまま其方を見やる。 「これは……タイマー、でしょうか」  水樹はスイッチとタイマーの間に再び顔を近づけてから、理人と視線を合わせた。 「タイマーで間違いなさそうです。このスイッチと連動して、換気扇が作動するようになっています。毒ガスを供給する機械を、この換気扇に着けて、タイマーを動かせば、換気扇が自動的に、被害者のところへ毒ガスを運んでくれるというわけか。考えましたね」 「と、なると、犯人は、このマンションの住人……でしょうか」 「早速、聞き込みに行ってみよー!」 陽希が元気いっぱいに宣言したのに合わせて、水樹と理人も頷き、三人でひと先ず英嗣の部屋を後にした。 ***  隣室のチャイムを押してみたのは、陽希だった。ドアを開けたのは、水樹と同じような身長だから、一七五センチくらいで、眼鏡をかけている男だ。彼は此処の住人で、名前は田島と名乗った。陽希は水樹と理人が推理した内容を話した。すると田島は、何かを考えるように黙った後、陽希に訊いた。  どうして、その話を僕にしたのか、と。  陽希が答えると、今度は、何故、その結論に至ったかを問われた。陽希がその理由を話すと――つまりは、換気扇を用いて毒ガスを被害者の部屋に流し込んだ可能性が高いこと、そうだとしたら犯人は隣室の住人、つまり田島だと思う、と実に素直に語った。この素直さが、理人は好きだが、恐ろしくもある。  すると、田島は納得したような顔をして、それから、笑った。 「なるほど。君は面白い子だ。分かった。その推理は当たっているかもしれない。その可能性は高いと思う。だけど、まだ証拠はない。それに、犯人はきっと、自分が捕まることを恐れているはずだ。つまり、証拠を残さずに殺人を犯す方法を持っているということだよ。それじゃあ、ダメなんだ」 滔々と、いけしゃあしゃあと、自分が犯人ではないかのように、田島は言う。水樹は田島の話を遮った。 「それは分かっていますが、田島さん、貴方が犯人である可能性が高い以上、証拠と言うものを探すためにも、捜査には協力していただきますよ」 「まぁ、そうだよね。僕だって、犯人じゃないっていう確証が欲しいから、協力するさ。ただ、一つだけ約束してくれないか。もし、君が犯人を見つけたら――その時は、必ず、警察に自首をさせて欲しい。いいかい? 犯人を追い詰めるのは、警察の仕事なんだ。それに、君は足が不自由で、犯人を取り押さえることも出来ないだろう」 田島は、水樹の杖を手で示して肩を竦めた。 「もしも犯人が逃げてしまったら、取り返しがつかないことになる。犯人を逮捕するのは、警察の役目。探偵はあくまで犯人を特定するだけで、逮捕権はないんだ。それを忘れちゃいけないよ」 と、一見して心配しているように見えるが、恐らくは、自首するふりをして逃げるつもりだろう。なめられたものだ、と水樹は憤った。しかし、此処に拘っていても仕方ない。 「承知しました。それでは、田島さん、貴方のお部屋に失礼します」 「ああ、どうぞ」 「こいつ、むかつくなぁー」 陽希が呟いた。素直過ぎる。 *** 田島の部屋は、ひどく散らかっていた。部屋に入った瞬間に、水樹は思わず顔を歪めた。部屋中にゴミ袋が散乱している。 「うわぁ、汚いな。ゴキブリとかいないよね? 水樹くん、よく見てよ」 陽希が悲鳴を上げる。確かに、其処ら辺に黒い塊があるが、まさか。いや、今は調査だ。 「毒ガスを供給する装置を探しましょう」 水樹はゴミ袋を避けながら部屋を歩く。足が悪いため、ゴミに阻まれて奥には入れそうもない。其処へは陽希が進んでいく。しかし匂いがきつい。 「ねえ、これじゃない?」 陽希が何かを見つけて指差す。それは、小さな機械だった。理人は何とか、ゴミを乗り越えて、機械に顔を寄せる。 「これが毒ガスのスイッチでしょうか。だとしたら、犯人は何処かにスイッチを置いて、遠隔操作していたということでしょう」 「そりゃ凄いな」 陽希が真っ白い歯を見せて笑った。 「ってことは、毒ガスの入ったマシンがこの部屋にまだあるってことだぁ。換気扇から隣室に入れたのなら……」 「ベランダ、でしょうね」 理人がベランダに行こうとすると、容疑者の田島が腕をつかんできた。 「待ってくれ、僕はやってねぇんだよ。本当なんだ、信じてくれ」 つかまれた腕がとても痛い。理人は顔を顰めながら、 「じゃあどうして、ベランダを拝見させていただけないのでしょうか」 と、問うた。すると田島は、理人の手首を離して、ポケットから何かを取り出した。それは小さな箱型の機械で、ボタンが幾つかついている。 「バカな探偵どもだ。此方が、毒ガスを供給するスイッチだよ。ほら、お前ら、もう動くな。一歩でも動けば、一発で死ぬぜ」 其処で、まさにシャムネコのようにサッと動いたのは、陽希だった。 陽希は、ピーコートのポケットに手を突っ込んだ、ちょっと猫背の状態から、急にばねのように伸びて、両手を出して田島に飛び掛かった。理人の目にすら見えない速度で。そして、田島が持っているスイッチを、蹴り飛ばしたのだ。カラン、と音を立てて床に転がったそれに、陽希は素早く手を伸ばす。 「畜生! 畜生!」 田島も必死で抵抗するように飛びつくが、陽希の俊敏さには敵わない。 スイッチを奪い取った後、陽希は、スイッチの本体を握り締めて壊した。そして、陽希はスイッチを投げ捨て、スイッチを蹴飛ばして遠くにやった。 「相変わらず、お見事」  水樹が拍手すると、陽希はちょっと頬を赤らめて、頭をぼりぼりと掻いた。   ***    隠し事。  英嗣が、柚子に隠していたことは、自分が田島に命を狙われているかもしれないという、正しい恐怖だった。  田島は、柚子が英嗣のマンションに通っていたため、エントランスで偶然すれ違って恋をしたらしい。その後、最初は柚子の気づかない範囲で付きまとっていたが、そのうちに自宅を突き止めるようになった。英嗣は危険を察知し、田島に今後柚子へ接近しないよう訴えた。そこで殺害を企てられてしまったようだ。柚子に心配をかけないよう、英嗣はそのことを秘密にしていた。英嗣は、いつも柚子に笑っていて欲しいと言っていたらしい。その判断が正しいとは、水樹は思わない。英嗣が早くに周りに相談していれば最悪の事態は防げたのだろう。こういうやり方は、周囲の心にも傷を残す、間違った責任感だ――というのは、探偵にとっては、もうどちらでも良い話である。  かように事件は無事に解決し、「探偵社アネモネ」には、再び依頼が舞い込むようになった――というのは、水樹の夢幻。  二〇二四年二月十日、依頼件数ゼロの「探偵社アネモネ」の事務所に、三人の探偵が集まっている。指を組み、その上に顎を置いた水樹、パソコンに向かいつつも何も目に映していない理人、来客用のソファに寝転がってスマートフォンを見ている陽希。 「暇ですね」 「暇ですねぇ」 「暇だねぇ」  三人の声が、静寂にふと重なって、三人は目を見合わせて、噴き出して笑うのだった。
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