38.わたしは幸せな娘

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38.わたしは幸せな娘

「そうですか。神影村に」  私、透真は縁側に座る胡蝶様の言葉に小さく頷いた。  今、私たちはお茶の準備が整うのを待っている最中だ。離れに勤める者も一同そろってお茶するために、居間にいくつもの座卓が運び込まれている。私も何か手伝いたかったが、座って待機しておくようにと言われたのでお言葉に甘えている。 「ああ。美影は本当に千鶴から霊気をもらっておるのか? 収穫直前に嵐が来て、作物の大半が駄目になったそうじゃぞ」 「え、ええと。毎夜、霊気より千鶴様を召し上がっておられるようで」 「……困ったやつじゃな。その千鶴の生家は大火に()うて、皆、焼け出されておった。千幸は体調が優れんようなのに、これからどうするのかのう」 「千鶴様の元婚約者を頼るのでは?」 「あやつは村から出された。遠野井家との関わりを完全に絶つために、勘当されたんじゃと」  まさに火の粉を払ったわけか。 「それと倉も燃えてな。あやかしや鬼神の花嫁のことが書かれている史録も燃えてしまったようじゃ。この世代で人間との協定は終わるかもな」  胡蝶様は呑気に足をぶらぶらと遊ばせているが、これは大変なことだ。 「それは困りますよ。神影村と神影山の治安のためにも、これからも鬼神様の花嫁は必要です」 「別に必須ではないじゃろ。村にまで力を使わなければ、山の治安は維持できるのじゃから」 「できませんよ。花嫁を迎えて余力ができるから、村にも力を配分していましたが、本来は無法者だらけのこの世界を統治するだけでも大変なのです。花嫁の力を無くしては為せません」 「できるさ」  いとも簡単に私の言葉を覆す胡蝶様に眉をひそめてしまう。 「あやかしは人間の欲から生まれたものじゃ。人間があやかしという存在を認識しているからこそ、(われ)らは存在しえているのじゃ。人間があやかしを忘れ去れば、あやかしもまた人間界に及ぼすだけの力を失う」 「っ!」 「まあ、あやかしが人間に干渉できる力を失うだけで、人間が存在する限り、妾らが消えるわけではないがな」  なるほど。そうすれば結界の力も緩められ、この世界の統治だけで済むということか。 「神影村の人間は私たちを忘れるでしょうか」 「どうじゃろうなぁ。神影村が繫栄しているのは、鬼神の力が大いに関わっておる。それを決して手放したくないと思うのならば、伝承していくじゃろ。しかし、もう鬼神の力に頼らないと決めれば、この習わしを伝えず、記憶から消していくじゃろうな。妾らはこれからの神影村を高みの見物をするだけじゃ」 「……そうですね」  また百年後に、人間の欲深さを測ることができるというだけだ。私たちはただこのあやかしの世界を守っていけばいい。 「皆様、おっ待たせいたしましたあぁぁっ!」  喜びあふれた鈴さんの明るい声が聞こえて、私は視線を上げた。  彼女はお盆に載せたたくさんのお皿を喜々として配り始める。一方、真白さんはお茶を配っている。目が合うと彼女は微笑んだ。 「何デレデレしとるんじゃ」  胡蝶様に注意されて思わず口を押さえる。 「そ、そんなにしていましたか?」 「冗談じゃ。しかし透真は、(さとり)じゃのうて、(さと)られじゃの。分かりやすいわ」 「し、失礼いたしました」  してやられたなと苦笑いしていると、美影様と千鶴様が居間にいらっしゃった。私は御前失礼いたしますと立ち上がると、美影様のお側に付く。  千鶴様は美影様が贈った鶴のかんざしを挿し、鶴柄の着物を身に着け、肩にモフモフとクルを乗せている。お茶と菓子が用意され、笑顔の皆が勢ぞろいしている様子に、千鶴様は嬉しそうに目を輝かせて頬を染めた。 「千鶴様、千鶴様ぁ! ここです、ここ。早く早く! 今日は、おはぎのおかわり自由ですよぉぉっ!」 「まあ、鈴さんったら」  両手で手招きする鈴さんに千鶴様はくすくすと笑う。するとなぜか千鶴様は私に振り返った。 「透真様、今、私の心が見えますか? 何か質問してくださいませ」 「そうですね。では」  私は顎に手を当てて考える。  きっと鈴さんのことを質問してほしいに違いない。けれど。 「千鶴様。あなた様は今……お幸せですか?」  千鶴様は何を尋ねるのだとでも言いたげに目を見開いた。けれどすぐに皆が集まる居間を見て、側に立つ美影様を仰ぎ見て微笑み、そして私に視線を戻すと、とろけるような笑顔を見せた。 「はい。私は幸せです。――私はとても幸せな娘です」  千鶴様のその笑顔に、そのお言葉に、そのお心に嘘偽りの曇りは一点もなかった。 (終)
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