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01
縁に装飾のついた、真っ白なテーブルクロス。そこに並ぶ、見栄えの良い華やかな料理。足元は靴が沈むほどの柔らかさを持つふかふかの絨毯が敷かれ、天井には広い会場を照らすシャンデリアが、いくつもぶら下がっている。
親族と友人だけの集まりにしては豪勢すぎる会場に、稲葉陽希はただ圧倒されていた。
(相変わらず慣れないなあ……この雰囲気)
母の父――陽希からすれば祖父にあたる人物が、大きな会社を経営していることを知ってはいるが、陽希自身の父はごく普通の会社員で、母は専業主婦だ。一般家庭の生活をしている陽希からすれば、視界全てが眩しく華やかな会場の雰囲気はどうしても身を硬くしてしまう。
大きな会場の奥はガラス張りになっていて、都心の街並みがよく見えた。景色はいいが、それを綺麗だと感動できる余裕はない。
窓ガラスに映った陽希は、どことなくうんざりした顔をしていた。
両親の付き合いで訪れている陽希には、ここですることなどなく、暇つぶしにぼんやりと窓ガラスに映った自分を眺める。
高校生男子の平均を越えた百七十半ばというそれなりに恵まれた上背だが、手足はほっそりとしている。勉強ばかりで部屋にこもりがちのため、肌は白く、母譲りの艶のある黒髪とのコントラストでどこか人形めいた不思議な感覚を覚える。
小作りな薄く色づいた唇や大きな黒い瞳など、印象的には母によく似ていて中性的だ。だが、母がつり目がちできつく見える一方で、陽希は目尻の垂れた柔らかな雰囲気を持っていた。……父の影響だろうか。
じろじろと見たところで、ガラスの向こうの陽希は一向に表情が変わらない。ひどくつまらなさそうだ。
今日は母の弟――次期社長になる叔父、尊志の子どもが無事に産まれたことによる祝いの場だと聞いている。
陽希はこうした親族の集まりの際にはいつもそうしていたように、今日も父と母の後ろをただついて回っていた。慣れない雰囲気の場で一人になる気になれない、というのもある。しかし、もう一つの理由は――。
「恵子! やっと来たのか! 今日も顔を見せないのかと思ったぞ」
会場と同じく上品な人々の雰囲気を割くように上がった声に、ドキリと陽希は身を縮こまらせた。
叱責するような声を上げて陽希たち家族に近づいてきたのは、口ひげをたくわえた白髪の老人――この集まりの主催者である祖父だ。隣には着物姿の祖母も連れている。
ああ、嫌だな。スッと背筋を伸ばした母の後ろに控え、陽希はそう思った。祖父の威圧するような大きい声も、その隣で顔色一つ変えずに全て受け入れている祖母の態度も。そして、すこし強ばる両親の空気も、全てが苦手だ。
「お父さん、ご無沙汰しています」
「ああ、きみか。どうだ、あれから昇進したのかね」
すかさず頭を下げた父を興味の薄い眼で一瞥し、祖父はこれだけは訊かねば、という態度で言い放った。あれから、というのは最後に会った正月の時だろう。半年も経っていないのに、そう状況が変わることもないだろう、と未だ高校生の陽希でも想像がつく。
再び僅かに首を倒して「申し訳ありません」と一言告げた父に、今度こそ興味をなくした祖父は、次に母に矛先を向けた。
「だから言ったんだ。この男じゃ、どんなに頑張ったって会社を継ぐことはないんだから別の者にしろと」
「……それより、尊志の子が産まれたんですよね? おめでとうございます」
「ん? ああ、そうだ。元気な男の子でな。これで跡取り候補が出来た。お前が森本の名のままでいれば、その陽希も候補の一人に入れてやったものを」
最初は機嫌良く続けていた祖父だが、嫌なことを思い出したのか、とたんに顔をしかめてしまう。
森本というのは、母の旧姓だ。今は父と結婚したことで稲葉に改姓した。
急に話題に自分の名があがり、陽希の心臓がドキリと音を立てる。見つかってしまった。そう思った。
もう小さな子どもではないのだから、両親の影に隠れることなど出来ないのに、陽希の体は自然と一歩後ろに行く。
常に皺の寄っているような厳しい祖父の眼が己に向いたことで、陽希は仕方なく会釈と共に挨拶を交わす。すっきりした面立ちの陽希は、少し口角を上げるだけでも随分と人好きのする柔らかい表情になるのだ。
しかし、祖父母ともに挨拶が返ってくることはなく、じろじろと上から下まで検分されるように見られる。
居心地の悪さにさらに身が竦み、陽希は知らずのうちにもう一歩退いた。
「そういえば高校は県内の公立に行ったんだったか。都内の私立に幼少期から行かせておけば、良かったものを。あそこは家柄のしっかりした者しかおらんし、変な人間と知り合うような心配もない」
そこで鼻を一つ鳴らして、祖父は「まあ、お前のような例もあるがの」と母に向けて言った。
当人である母はというと、意に介した様子もなく、静かに言葉を聞き流している。まるでそうするのが正解だとでもいうように。
「陽希だってそうしたほうが良かったのになあ?」
とたんに猫なで声とともに、笑みをはりつけた祖父に、陽希は口ごもるしかなかった。
そんな格式高そうなところに行くのは勘弁してほしい。けど、素直に言ったらきっと顔を赤くしてカンカンに怒るだろう。
親族間での集まりのなにが一番嫌かというと、この祖父との会話だ。
(同じようなこと、今年のお正月も、去年のお正月もしたのに……)
何度も同じ言葉で悪意を向けられ、うんざりする。さすがに孫である陽希に直接的にその感情を向けてくることは少ないが、両親には違う。
あまり大きな役職を持たない父と結婚した母のことを祖父は良く思っていないし、父のほうに嫁入りしたことも腹に立っているようだ。
今のように陽希さえも利用して、どうにか父と母を卑しめたいという思いが伝わってくる。
それがまた、陽希の心も傷つける。
幼少の頃から繰り返された祖父との邂逅は、すっかり陽希に苦手意識をすり込んだ。
どう答えたものかと迷っているうちに、祖父と陽希の間に滑りこむように母が入り、「それよりお父さん、あっちで尊志が呼んでますよ」と祖父の後方を示した。そこには赤子を抱いた夫婦がいて、たしかに祖父を呼んでいた。
叔父である尊志たち夫婦だ。
急にころりと機嫌良くして「どうした、尊志」と楽しそうな声で向かっていく祖父の背中を見送り、陽希はやっと体から力が抜けた。
「ごめんなさい」
小さく母の謝罪が聞こえ、陽希が顔を上げたときには「気にしないでくれ」と父の素っ気ない声が届く。
それ以降、両親の間に会話はなかった。
陽希は、先ほどまでとはまた違った息苦しさを感じていた。
祖父がいるときは、その威圧感と向けられる悪意で萎縮してしまうが、家族三人でいるときは、いたたまれなさで落ち着かない。
父も母も、揃って壁をはるようにどこか距離がある。それは互いだけではなく、子どもである陽希に対してもそうだった。
きっと陽希と同じように、父も母もこの三人の空間から逃げ出したいと考えている。家でなら部屋に逃げ込んでしまえばいいが、出先ではそうもいかない。
「あ、恵子姉さん! 健一義兄さんも! 陽希くんも来てたんだ!」
憂鬱さにため息が出そうになったとき、女性の声が新たに陽希たちを呼んだ。祖父の時のように揃って体を硬くすることもなく、三人はその女性――恵里を向かえた。
母とは年の離れた姉妹である恵里は、姉である母をよく慕っていた。他の親族は一切稲葉家に近寄ることはないが、恵里だけはときどき遊びに来ることもあった。
その明るい性格で交友関係の広い恵里は、森本の名を持つ親族から嫌われている両親のことを姉、兄と慕っているし、陽希のことも年の離れた弟のように面倒を見てくれている。
茶髪を編み込んでまとめ、ピンクベージュの淡い色のワンピースを纏った恵里は、大人っぽく見えるのに、そのくしゃっと崩した笑みのせいかどこか子どものような愛らしさもあった。
「いつもは正月にしか来ないのに、珍しいね! あんな人たちの顔なんて年一でみたら十分じゃない?」
あんな、と称してさりげなく祖父や叔父夫婦たちを指さすので、「恵里」と窘めるように母がその手を叩く。
それでも恵里は「ごめんごめん。見つかると面倒だもんね」とさらに悪びれなく言葉を重ねて軽く笑い、思わず母もつられたように笑いながらため息を吐いた。
(ほんと、恵里さんてすごいな)
誰もが思っても口に出せないことを、けろりとした顔で言ってしまうのもそうだが、これが本人にバレても、渋い顔をされ「本当にお前は困ったやつだ」と小言を言われながらも許されてしまうところだ。
愛嬌のせいか、それとも恵里の言葉選びが秀逸なのかは陽希には分からない。
(たぶん、俺や母さんが言ったら、大変なことになっちゃうだろうなあ)
言えやしないのだけれど、そんなことを考えてしまう。
「あなたが今度会ったときに話がしたいって言ってたでしょ? なのにそのあと全然連絡してこないから、心配して様子を見に来たのよ」
「あ、ごめん。ちょっとばたばたしててさ。落ち着いたらちゃんと連絡する気だったんだよ」
ぺちん、と両手を合わせ、「申し訳ない!」と恵里が大仰な仕草で頭を下げた。
普段と変わらない彼女の様子に、母は安心したように「まあ、なにかあったわけじゃないならいいわよ」と笑う。
「ありがと~姉さん! 健一義兄さんも陽希くんもごめんね、心配かけて」
「いいんですよ、恵里さん。気にしないでください」
父の言葉に続いて、陽希も頷いて応えた。
――ただ、ほらね。とは思ってしまった。
陽希からすれば、そんなに心配することなのかという思いもあったのだ。恵里は立派な大人だし、しばらく返信がなかっただけで、わざわざ嫌なパーティに顔を出してまで確認することかな、と。
そこに嫉妬が混じっていることを、陽希はよく分かっていた。
森本の家族は、みな揃いも揃って嫌みっぽくて人を見下すような人ばかり。その中で一人だけ異質なのが恵里だった。
表情豊かで、見ているだけでこちらまでつられてしまいそうな笑顔を宿す女性。彼女の周りにはよく人が集まる。そして恵里は、その人たちからよく愛されていた。
(俺とは全然違う……)
普段は表情の硬い両親も、恵里といるときは笑顔を見せる。それが、陽希には受け入れがたかった。
俺といるときはそんな顔しないのに……。そんな嫉妬心が胸の中にたまっていくのだ。
モヤつきを覚えて、陽希はジャケットの襟元をぎゅっと掴んだ。
恵里のことは好きだ。一人っ子の陽希にとっては姉のような存在だ。でも、どうしても自分と比べては黒い感情を抱えてしまう。
どうして、どうして――。
恵里と話す両親を見ていると、子どもの頃の陽希が胸の中で声を上げている。
そんなふうに困った子だと笑ってくれたことはないのに。そんな親愛のこもった眼で見てくれたことはないのに。
とっくに諦めたはずの感情が顔を出してしまうから、やっぱりこんなパーティーに来なければ良かった。陽希は、そう後悔し始めていた。
無意識のうちに、縋るように自身の左手の指を撫でる。
両親と談笑していた恵里を視界から外すように俯くと、彼女がふと思い出したように言った。
「そうだ、紹介したい人がいるの。話って言うのはそれなんだけどさ……多分どこか捕まってる……あ、いた」
ふらふらと視線を彷徨わせた先で、恵里は顔を明るくして手を上げ、誰かの名を呼んだ。陽希たちには聞き覚えのないものだ。
そう経たずに、一人の男性が疲れた様子で人の輪から外れてきた。恵里はその人と腕を組んで引き寄せ、「今度私たち、結婚するんだ!」と一際輝く笑顔で言う。
相手の男性は、「どうも」と頭を下げて照れくさそうだ。
彼はどこにでもいる、普通の人に見えた。よくパーティで祖父に挨拶に来るような、のりのきいたスーツでもなく、背筋をはって出世欲の強そうな、いかにも仕事が出来る、というふうな人でもない。
自分の娘と一般の会社員を結婚させるのは、祖父が嫌がる。色んな場でさんざん父が人目も憚らずに嫌みを言われているので、それは一族だけではなく、周囲までにも及ぶ共通認識だ。
「おめでとう。よくお父さんが許したわね」
「尊志の子が産まれて、上機嫌な時を狙って言ったの。それでも大変だったけどね」
茶目っ気のある顔で、恵里はウインクと共に笑った。そのせいで、なかなか連絡を入れられなかったらしい。
「もうあなたってば疲れた顔して~! だからこんなところに顔出さなくていいって言ったのに」
「いやあ……だって、一度ぐらい挨拶はしておかないと」
「変なとこだけ真面目なんだから」
男性の頬をつつきながらも、恵里は嬉しそうだ。
「式はいつ挙げるんですか?」
「あ、式は挙げる予定なくて。写真だけ記念にとって終わりにします」
父の問いに、恵里はけろりとした顔で言ったが、さっと周囲を見渡すと「お父さんたちを出席させたくないからさ」と声を潜めて言った。
そりゃそうだよね、と陽希は内心で同意を示した。せっかくの記念の場が、十中八九嫌な空気で終わってしまうだろう。祝いの場にはまず呼びたくない顔ぶれだ。
「指輪も二人で選んで、籍はもう入れてるんです」
じゃーん、と見せびらかすように恵里は自分の左手を掲げ、相手の左手もあげて見せた。二人の薬指にはまるシルバーリングが眼に入り、それを見た瞬間、陽希は息を飲んだ。
きらりと輝く薬指の指輪の隣――小指からはうっすらと光を纏った赤い糸が伸びていて、陽希はそれをゆっくりと視線で辿っていった。そして――。
恵里のすぐ隣の人物におさまった糸を見て、衝撃で陽希の喉からひゅっと細い呼吸が漏れる。ひしひしと自らの背筋に絶望がにじり寄るのが分かった。
(ああ、やっぱり恵里さんは違うんだね)
すとん、と急に色を失った感情が、諦めと共に心に着地した。
どうして、と羨む子どもの声もだんだんと小さくなっていく。もう、そんなことを言える資格もないのだと気づいたのだ。
間違いだらけのこの家族の中で、恵里だけが、本当の運命を見つけたのだから。
陽希は後ろめたい気持ちになって、自分の左手を咄嗟に隠すように背後に持って行った。陽希の小指からも、同じように赤い糸が伸びている。でも、それは運命の糸ではない。偽物なのだから。
本物の運命の相手同士の前で、自分の間違いを大きく取り上げられたような気分になった。
(青島くん、今なにしてるかな……)
大人たち四人の会話を横目に、陽希は居心地の悪さに体を小さくしつつそんなことを思った。青島俊也――この糸の先にいる、張りぼての運命の相手。
ほんの一日前まで、陽希はもちろんこの糸の先の青島だって誰とも赤い糸が繋がっていなかった。
二人の糸がつながったのはつい昨日のことで、事故みたいなものだった。しかも、それは青島の知らないところで起きた。
あれからすでに丸一日経過している。きっと彼もこの赤い糸に気づいているはずだ。
怒ってるだろうな、と週明けに登校したときのことを思うと、陽希の気が重くなる。それでも恵里たちの会話に入っていくよりは、いくぶんも心が楽だった。
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