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12
母に会いに来たというわりには、なぜか恵里は陽希の家とは反対にある駅前のカフェを指定した。
電車で来たと言っていたから、多分そのまま帰宅するのつもりだろう。
(お母さんに会わなくていいのかな……?)
不思議に思いつつ、陽希は素直にあとをついていった。
平日の夕方だからか、店内に人は多くはなく、窓際にあった四人がけのソファ席に向かい合って腰掛けた。
恵里は、まずメニューを開いて「陽希くんはどうする?」とこちらに見せた。一番大きく書かれていた珈琲を読み上げる。
頷いた恵里が店員を呼ぶと、さっき陽希は言った珈琲を二つ注文した。
そのまま店員が戻ると、恵里はこっちであっという仕事のことをぼやき始めた。
祖父のせいで、急にこちらの取引先に来ることになった、とうんざりした顔で言っていた。陽希は、学校楽しい? もうすぐ夏休みだねぇ、などと他愛もないことを訊かれては、ほとんど頷くだけで返していた。
そんなに時間もかからずに温かい珈琲が二つ運ばれてきた。
手持ち無沙汰だったので、陽希はすぐにカップに手を伸ばして口をつける。
香ばしい匂いが鼻腔で膨らみ、口に広がった苦みを飲み下すと、胃の辺りが熱さを感じてしくしくと痛む気がした。
「そういえば、昨日遠足で遊園地行ったんでしょ? 楽しかった?」
恵里は一口珈琲を飲むと、不意にそう言った。
それまで楽しそうに近況を話していたのと違って、どこか硬い雰囲気だった。ちらりと探るように視線を寄越され、どうして彼女が知っているのだろうと首を捻る。情報源としてあり得るのは母ぐらいだ。だが、母がわざわざ恵里に陽希の話題を出すとも思えなかった。
きっと恵里のほうからなにかの拍子に訊いたのだろう。それこそ今みたいに近況を訊ねてきたように。
恵里は、陽希のことを昔から弟のように可愛がってくれていたから……。
「初めて行きましたけど、見たことない景色ばっかりで楽しかったですよ」
「陽希くん地元の高校だし、電車乗ることって滅多にないでしょ? 困ったこととかなかった?」
「都内の駅での乗り換えは戸惑ったけど……まあ、それもそれで新鮮だったし」
「そっかそっか」
なら良かった。と言いつつ、恵里はまだ訊きたいことでもあるみたいに言い淀んだ。
落ち着かない様子で、珈琲をもう一口飲んだ恵里に、不思議がった陽希がそっと彼女を呼ぶ。すると、あっとした顔でギクリと顔を上げた。
取り繕うように笑って、恵里は言う。
「そういえば、向こうでは自由行動だったんでしょ? 陽希くんは友達と回ったの? それとも彼女とか?」
「友達とですよ……彼女なんていませんから」
苦笑して、陽希はドキリとした動揺を珈琲の苦みで隠した。
恵里が、「恋人」の同義として彼女の言葉を使ったのは分かった。嘘を言うようで心苦しくはあったが、彼女がいないのは本当だ。
と、そこで陽希は思い直した。
(いや、恋人だって……いないか)
珈琲の黒い湖畔に、諦念したように虚ろな顔をした陽希が映っていた。母によく似た細面に、すぐに嘲笑が浮かんだ。
青島だって、あれできっと懲りたはずだ。陽希にこれ以上構ったって仕方がないと。
あんなふうに陽希に拒絶されてまで、彼がこんなごっこ遊びを続けるとは思えない。
青島とは、糸が繋がる前のような関係に戻るのだ。顔も会わせず、話も出来ず。名前を呼ばれることもない日常に――。
そう思った途端、今度はしくしくと心臓が痛んだ。悲しむようであり、淋しがるようでもあった。
初めての誰かとの特別な繋がりがなくなる。それを、陽希の心は嫌だと言っているのだろうか。
(また一人に戻るのが嫌なのかな……)
自分の心にそう訊ねた。
けれど、本当にそうだろうか。陽希は、自分でも説明のつかない違和感お覚えて首を捻る。
だって、青島が遠くで誰かと笑う姿を思い浮かべると、胸の痛みは強くなるのだ。どれだけ見つめたって気づいてもらえないことが、泣きたくなるほど辛いのだ。
この気持ちは、本当に一人に戻ることが怖いからなのだろうか。
浮かない顔で黙った陽希に、恵里はそろそろと窺うように尋ねた。
「陽希くん? どうしたの? もしかしてその友達となにかあった?」
陽希はゆるゆると首を振って答えた。
どうしてか恵里は、遠足の日にやけになにがあったのか気にしている。そんなに人間関係で軋轢を生みそうに思われているだろうか。
表面的にだが、人間関係を円滑に回してきた自負のある陽希としては、ちょっとばかりムッとしてしまう。
だが、陽希のほうが原因で青島との関係が終わりそうだ、というのは事実なのだ。
「俺が、一方的にひどいことをしてしまったんです」
落ち込んだような、けれど少し拗ねたような声で言った陽希の珍しい姿に、恵里は驚きで眼をしばたたいた。
「陽希くんが、友達に?」
信じられない。そんなふうに嘆く恵里に、陽希は強い声で肯定した。
恵里は、悩ましげに声を上げながら珈琲をこくりと飲む。珈琲の苦みのせいか、彼女の眉間に微かに皺が寄った。
「陽希くんが一方的に友達を傷つけるって言うのは、想像出来ないけど……自分では、そうだって思ってるんだね」
「……俺が悪いんです。青島くんは俺のために気遣って言ってくれたのに、それを俺が無下にしたりしたから……」
だから、きっと怒ってる――。
弱った様子で零した陽希に、ふと恵里は居住まいを正すように身を乗り出した。
「相手の子は本当に怒ってた?」
「え?」
「いやね、その子のことはなんにも知らないけど、陽希くんの友達だもん。きっと優しい子なんだろうなあって思うんだ。そんな子なら、陽希くんがそれだけ受け入れられないことにも、理由があるって分かってくれそうだけどな」
恵里の言葉は、陽希の胸を刺すように届いた。
(青島くんが怒ってない……?)
そんなこと思いもしなかった。だって、彼は陽希のことを気遣って慰めようとしてくれて……なのに、陽希はそれを振り払った。そんなことをされて怒らない人はいるだろうか。
――本当にそうなのかな。
自問自答してぐるぐると回っていた頭の中が、水をかけられたように静かになった。
突然視界が開いたような、そんな気分だった。今まで、自分の気持ちの折り合いをつけるのに一生懸命だったから、青島の気持ちはおざなりに決めつけてしまっていた。
本当に彼は怒っているだろうか。怒って、陽希との関係を終わらせようと思うだろうか。
(違う、気がする……)
漠然とそう思った。
あの時は動揺して真っ白になってしまったが、よくよく思い返してみれば、彼は本心で言ってくれたのではないか。そんなふうに思える。
(だって青島くん、苦しそうだった)
陽希の中に愛はあると告げた彼は、もどかしさを覚えたような苦しみを映していた。愛があるのに気づいていない――そんな陽希を憐れだと、不憫だと思うようだった。
だから彼は、少しずつ距離を詰めるように言葉を選び、寄り添うように陽希に告げたんじゃないか。
陽希の中にあるその愛を、彼はそっと両手で掬い上げ、ほらと差し出してくれたのだ。これに気づかないなんて馬鹿だなあお前は――と慈しむように笑う彼の瞳には、気遣いや優しさよりも、うんと温かくて深い感情が浮かんでいて――。
途端、ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。
昨日からずっと鬱々としていた世界が、急に晴れ渡ったように心地よい風を通した。
(あ、あれ……? なんか心臓がおかしい……)
青島のあのときの眼差しを思い出しただけで、陽希の心臓が普段の倍も近い速さでドクドクと鳴っていた。
みるみるうちに頬に熱が昇って、胸には喜びや嬉しさのような温かい高揚が膨れ上がった。それは、陽希が想像する「愛情」というものに、よく似ていた。
気落ちした顔をしていたと思えば、急に顔を真っ赤にする陽希に、恵里は眼を白黒させた。
「陽希くん? 大丈夫? どうしたの?」
「だ、大丈夫です……なんでもないので」
片言みたいにぎこちない陽希に、恵里は胡乱げだがひとまずは引き下がって頷いた。
「それならいいんだけど……なにかったら大人に相談するんだよ? 私でもいいし、恵子姉さんだって陽希くんに頼って欲しいって思ってるからさ」
「……そんなこと、あるかなあ」
母の名に、陽希は自信なく声を詰まらせた。さすがに母の身内相手に正面から言い切ることも出来ず、濁すように言ったが、恵里は満面の笑みで「もちろん!」と肯定した。
そして、ふと切なさの滲んだ柔らかな眼を外に向ける。
「陽希くんてさ、聡い子だよね……子どもの頃から周りの色んなことを察しちゃう子で、しかもそれを自分の中にいろいろ溜め込んじゃうでしょ? そういうところ、恵子姉さんに似てるなって思う」
「……お母さんに?」
そう、と恵里は頷いた。母のことを語る恵里の眼には姉への尊敬や情が詰まっていて、その中に一筋、悼むような色が入った。
「あの父さんも母さんも尊志も……うちの家族ってみんな変でしょ? 恵子姉さんは尊志が生まれるまで、ずっと父さんの期待に応えようって頑張ってたんだ……けど私は反抗してばっかで、なにも言うことなんて聞かなかった」
母に対して、申し訳なく思ってるようなしおらしい声だった。
そういえば、と陽希は思い出す。
森本である祖父母の子は、母――恵子と、年の離れた恵里、そして末っ子の尊志の三人だ。
母だけが、随分と年が離れている。尊志に至っては一回り以上違うので、今二十代の半ばである尊志とは、陽希のほうが年が近いぐらいだ。
祖父は、今となっては前時代的な家父長制度を重んじる人間だ。きっと長男である尊志が生まれ、一番喜んだのは祖父だろうことは容易に想像が出来る。
だが、尊志が生まれてくるまでの十数年もの時間は? 祖父は会社を誰に継がせるつもりだったのだろう。
(決まってる……母さんと結婚した人だ)
もしくは、そこは自身の子だからと母に継がせるつもりだったのかもしれない。恵里の言葉からも、母はずっと長子としてプレッシャーを受けていたことが分かる。
それなら母は、尊志が生まれたときに一体なにを思ったのだろう。
「恵子姉さんはさ、いっぱいいっぱいになって一回グレちゃったの。溜め込んでた分があるきっかけで破裂しちゃって……だから、そのときの恵子姉さんみたいになっちゃわないか、陽希くんが心配なの……少しでもいいから、姉さんと話をしてみて? ほら、私たちって親があんなんだし、普通の親子の距離感て分かんないじゃん? 姉さんはただ、どうしたらいいか分かんないだけだと思うんだよね……」
母はいつだって物静かで大きくは表情の変わらない人だ。
なにが起きたって平然とした顔で対処できるような感情の薄い人だ。そんな母が感情を爆発させる?
咄嗟に陽希はあり得ないと思った。
けれど、ふと母の毅然とした後ろ姿を思い出した。
祖父母のところに顔を出す時は、いつだって母の後ろに隠れていたから、陽希にとって馴染み深い姿は母の背中だ。
祖父の皮肉を肯定も否定もせずに受け流す姿に陽希は、母は強くて、けれど冷たい人なのだと思った。
だが、恵里の痛みを憂うような眼差しを見た後では、ピンと背筋を伸ばして立つ母の凜々しい姿が、どうも物寂しく見える。
母は、皮肉や嫌味を受けても平気なのではなく、ただ諦めただけなのかもしれない。自分の両親に言葉を尽くすことを、なにかを求めることを諦めた。
期待に応えたくて母はそれまで頑張っていたけれど、それは叶わなかった。あるきっかけと恵里は言ったが、それはきっと尊志が生まれたことだろう。
(お母さんは、どんな気持ちで……!)
こみ上げる切なさに、陽希は下唇を噛んだ。
尊志の年齢を考えるに、彼が生まれてそう経たずに母は父と結婚している。跡継ぎとして用はなくなったとしても、母には自分の求める人材と結婚して欲しかったはずだ。だが、そのときの母にはそれを受け入れることなど到底出来なかっただろう。
「……お母さんは、自棄になってお父さんと結婚したんでしょうか?」
ふと思った疑問は、そのまま言葉になった。恵里はとんでもないとばかりに身を乗り出し、勢いよく否定する。
「違うよ! 姉さんと健一兄さんは、本当にお互いを大事に思って結婚したの! そりゃ……今は、ちょっとすれ違っちゃってるかもしれないけど」
尻すぼみになる恵里に、彼女にも分かるほどに二人は冷え切っているのだと実感した。
陽希の心に、しとしとと雪が降り積もるみたいにじわじわと冷たい淋しさが伝っていく。その淋しさは、しばらくすれば諦めや納得へと変わっていった。
恵里は否定したけれど、陽希には信じられなかった。
彼女の話を聞けば、母が祖父への反抗として当てつけみたいに父と結婚したのが容易に想像がついた。
それになにより、自分たちの子どもである陽希を愛していないのがその答えではないか。
思った途端、陽希の眼球の奥に悲しみがツンと沁みた。痛みを伴って瞳が潤み、けれど涙として零れはしなかった。
(俺はお母さんから愛されてない……)
母のなかに愛がないから仕方がない――そんな言い訳はもう通用しない。
陽希は、降参するように淡々と受け止めた。
青島が言うように、陽希の中に愛があるというのなら。それなら、母の中にだって愛情はあるはずなのだ。ただ、それが陽希に向けられていないだけ。
愛されていないという事実は、陽希の心を深く斬りつけた。きゅうと切なく痛みに泣いた心に寄り添うように、陽希はそっと胸元に手を当てる。
辛くて淋しい。ここが誰の眼にも入らない場所でだったなら、恥も外聞もなく泣き崩れたかもしれない。
(でも、意外と受け入れられてる)
青島の言葉で突きつけられてから、それと直面するのは時間の問題だった。この一日で、その整理がついたというのか?
思ったよりも衝撃の少ない心情に、陽希は首を傾げた。
そのとき、不意に机の上に置かれた恵里の指に眼がとまった。ほっそりした指にある淡く光りを放つ赤い糸の存在を見ても、陽希の胸には嫉妬も羨望も浮かんでこなかった。ただそこにある未知の世界への疑問が、漠然と存在していた。
「ねえ……恵里さんて、どうして彼氏さんと結婚しようと思ったの?」
なんとなしに、陽希は訊ねた。
恵里は指輪に眼を落としてから、ふと表情を柔らかくした。
「……彼は同級生でね、大学で出会ったんだあ」
ほおっと恍惚とした息を漏らすように恵里は言った。
その瞳に浮かぶのは、きらきらと小さな星が瞬くような相手への愛情だ。
「私ってさ、声もリアクションも大きいし、おしとやかとはほど遠いでしょ? 周りの人からお嬢様らしくないってガッカリ……というかドン引きされたり、意外と普通なんだね~って期待外れみたいな反応されることがよくあってね。そんな反応されるのも面倒だったから、よく猫被ってたんだ」
こうやってね、困ったように笑うとお嬢様っぽく見えるでしょ?
と、胸を張って姿勢良く腰掛けた恵里が、控えめに口角を上げて見せた。すぐに破顔していつもの笑みに戻ったが、陽希としては見慣れているいつもの恵里のほうが素敵だと思う。
「彼に会ったのは飲み会だったかな……最初は頑張って猫被ってたけど、酔ってきて素が出ちゃってさ。彼、驚いた顔してたから、ああまたやっちゃったなってうんざりしてたんだよね」
でも……と、恵里はちょっぴり頬を赤くして笑んだ。
そして、恵里はくすりと吹き出すように声を上げる。
思わず陽希は首を前に出した。
「……旦那さんは、なんて言ったの?」
すると、恵里もずいと身を乗り出して、自慢するみたいにニヤリと弧を描いた眼で言った。
「大袈裟に胸を撫で下ろして、お嬢様って聞いてたからビクビクしてたけど、怖い人じゃなくて良かった~って……安心して笑ったの! 私のほうがビックリしちゃったよ! そんな反応されるの初めてだったもん!」
彼女は心底おかしいとばかりに言った。
「一人でもね、こんな自分を良かったって認めてくれる人がいる……それってすごく自分の心を強くしてくれるんだよね。それからかなあ……無理に猫被らなくなったのも……多分、好きになっちゃったのもそのとき」
照れくさそうに言う恵里は、まるで初恋をしたばかりの少女のような初々しさだった。
(自分を認めてくれる人、か……)
――俺は、お前の優しさは愛だと思う。
青島の声が、耳の奥に返ってきた。すると、陽希の胸にはぬるま湯のような温かな心地がじわりじわりと広がっていく。
嬉しい。今、素直にそう思えた。
母から愛されていないことを、陽希がどうにか受け入れることが出来たのも、もしかしたら青島が気づいてくれたからかもしれない。
(青島くんが本当はずっと俺のことを知っててくれたのなら……)
そのうえで、彼が陽希の中の愛を認めてくれたから。
陽希の心は空っぽじゃない。両親から与えられる愛がなかったとしても、自分が誰かにあげられる愛はある。
不意にそのとき、陽希は気づいた。
(もしかしたら俺って……青島くんのこと、好きなのかな)
まるで肯定するように、ドキドキと心臓が高鳴った。
両手を結んで、ぎゅっと胸元で抱きしめる。小指の糸が眼に入って、陽希は彼がこの指にキスをしてくれたことを思い出した。
全身の血が沸騰したみたいだ。カッと一瞬で体が熱くなって、陽希の顔がみるみる赤く染まっていく。
彼が離れていく。そう思ってしくしくと心臓が痛んだのは、人との繋がりを求めてじゃない。相手が青島だからこそだ。
「いやあごめんね陽希くん! なんか惚気みたいになっちゃったかなあ……あれ? どうしたの? 顔真っ赤だよ」
「あ、いえ、なんでも……ないです」
ギクリとして、陽希は頬に手を当てた。手のひらがじんわり汗をかきそうに熱かった。
「やだ、本当に大丈夫? もしかして体調悪かった? ごめんね、長々と話しちゃって……そろそろ出よう」
伝票を持って立ち上がった恵里に、陽希も俯きつつ続いた。
カラン、と扉に付けられたベルの音に見送られて二人は店を出た。
半分ほど日の暮れた夕方の風は、生ぬるかったけれど、熱を持った陽希にはちょうどよく冷やしてくれるので心地よかった。
「陽希くん、家まで送ろうか? 本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫です。本当に、なんでもないので」
心配そうにまじまじと見てくる恵里に、陽希はようやく顔色の戻った顔で首を振った。
「あの、恵里さん……」
「んー?」
見返してくる恵里に、陽希は穏やかに口の端を上げた。祝福の気持ちが前面に出た、彼女への親しみが窺える表情だ。
「結婚おめでとうございます。幸せになってくださいね」
あのパーティーの日、言葉に詰まっていえなかった言葉を、陽希はようやく言えた。嫉妬も羨望もない、ただ姉のような恵里の幸せを願う――そんな愛のこもった言葉だ。
恵里は大きな黒い瞳をうるうるさせ、しかしそれを誤魔化すようにニッと白い歯を見せた。
「ありがとう! 陽希くんも若いんだから恋しないとね! いいよお、人を好きになると世界が綺麗に見えるから!」
大きく歯を見せる豪快な笑みは、確かにお嬢様のようなお淑やかさはないけれど、恵里にはよく似合っていた。
「綺麗に、か……」
呟き、陽希はおもむろに顔を上げてみた。吸い寄せられるように、空を見る。
「……きれいだなあ」
夕暮れを飲み込むように、夜の暗闇がじわじわと広がっている。二つの狭間で、橙と黒が溶け合うように混ざり、紫色の空がひどく鮮やかに澄んでいた。
最後だとばかりに目映く存在を主張する夕日と、小さな星の瞬きが融合した空。
(俺の心みたいだなあ……)
と陽希はぼんやり思った。
母から愛されないことを受け入れて落ち込んでいるけれど、同時に青島への愛情で温かくもある。そんな極端な感情が、混ざり合った心境だ。
「……陽希くん、好きな子いるの?」
話の流れで察したのか、そろそろと恵里が問いかけた。陽希は大きく頷いて肯定する。
「はい。さっき気づいたばかりですけど……俺、彼のことが好きです」
むしろ、自分が愛情を向けるというのなら、それは青島以外はあり得ない気さえする。
「うん……そっか。そっか! 恋はいいよねえ、青春だ!」
陽希の言葉で相手のことに勘づいた恵里だったが、彼女は何度も頷き激励するように肩を叩いた。
にこやかに笑い合い、二人は陽が落ちきる前に……とそのまま別れようとしていた。そのとき、不意に駅に向かって歩く男性が二人、恵里の名前を呼びながら、きょとりと眼をしばたたいた。
振り返った恵里も、驚いて声を上げた。
「あれ、良川たちじゃない! なんでこんなところに?」
親しげに呼びかけた先で、彼らも手を上げて答えた。
「ちょうどこっちに仕事で用があったんだよ……それよりお前こそ、こんなとこで学生捕まえてなにしてんだよ」
「失礼ね。甥っ子の陽希くんです~! そういえば、あんたたちは会ったことなかったわね」
恵里が陽希を前に出すように身を引いたので、男性のことが正面からよく見えた。
すっきりした紺のスーツ姿の男性の姿に、陽希は眼を丸くする。
「ハンカチの人……」
呟くと、相手も気づいたようだ。
「あれ、君は昨日の」
柔らかそうな茶髪に、清潔感漂う顔立ちの良さ。つい昨日、駅でハンカチを拾ったあの人だ。
「え、陽希くん良川と知り合いなの?」
「昨日、駅で落とし物を拾ったときに少し……」
勢いよく詰め寄る恵里に、陽希が後じさりながら言うと、苦笑した良川が詳しくつけ加えた。
「俺が落としたハンカチを拾ってくれたんだよ」
「へ~そうだったんだ。意外と世間て狭いわねえ。まさか成山とも知り合いだったリする?」
そこで恵里は、もう一人の男性を指さした。黒い髪を後ろに撫でつけた、涼しげな印象の綺麗な人だ。
「いや、俺は知らないな」
「だよね~、さすがにそこまで上手く回ってないかあ」
垂れ目のせいか、穏やかな雰囲気の良川と違って、成山は少し近寄りがたい印象だ。冷たい――というほどではないが、スッと流れる切れ長の瞳は感情が薄く、母を彷彿とさせた。
じっと観察されているような居心地の悪さがある。
「甥っ子ってことは、恵子さんの息子さんかあ……」
「確かによく似てるな」
良川たちは母を知っているのか、まじまじと陽希を見下ろしてくる。
似ていると言われて嬉しい気もするが、年頃の男子としては少し複雑な心境でもあった。
(お母さんや恵里さんの知り合いだし、実家の会社関係の人かな……?)
そう思ったのは正しかったようで、すぐに恵里から、良川は祖父の会社とも付き合いのある会社の時期社長で、成山はその同僚だと伝えられた。
恵里と二人は年が近いらしく、子どもの頃からの付き合いのようだ。
あまりにじっと陽希を見つめる良川を、恵里が肘につつくようにしてからかった。
「ちょっと、初恋相手に似てるからってちょっかい出さないでよ」
「ばっ! ばか! 高校生に手を出すわけないだろ!」
落ち着いた大人びた雰囲気から一転、良川は顔を真っ赤にして狼狽える。そんな彼に、ニヤニヤと嗤った恵里が追撃した。
「どうだかね~……未だに長続きしてる彼女もいないし、実はまだ姉さんのこと好きだったりして……?」
「違う! あれは子どもの頃の憧れでだな! てゆーか、息子さんの前で変なこと言わせるな!」
怒った様子で言う良川だが、これはいつものことなのか恵里は平然とした様子で「はいはい」と話を終わらせた。成山も二人のやり取りに一切動じた様子もないので、普段からこうなのだろう。
陽希は驚きと、少しの意外さを混ぜた眼差しを良川に向けた。
(この人、お母さんのこと好きだったんだ……)
あからさまに狼狽えていたので、初恋というのは事実なのだろう。恵里と年が近いと言っていたので、母とは一回りほど離れているはず。初恋と言うからには子どもの時のことだろうが、一体どうして母に恋なんてしたのだろう。
陽希の知る母は表情の乏しい人だから、子どもに好かれるようには思えなかった。
(そういえば、駅で会ったときも知り合いに似てるってじっと見られたっけ)
あれは母のこと言っていたのだろう。
わいわいと姉弟のように話す良川と恵里のことを見ていると、不意に成山が横に並んだ。
「ごめんね、あいつらいつもああだからさ」
「いえ……みなさん仲が良いんですね」
そう言うと、成山は困り眉で微笑んだ。どうやら陽希が気を遣って言ったと思ったみたいだ。けれど、その表情は嬉しそうにも見えた。
「小さい頃から一緒だったからね……でも子どもの前でもああじゃ困っちゃうよなあ」
と、成山は自身の首に手を回した。そのとき、彼の左手から伸びた赤い糸が、陽希の視界を舞った。
つい癖で、陽希はその糸を追いかけてしまう。
(え……?)
けれど、すぐに衝撃が襲って、眼を見開いた陽希は顔を上げて成山を見上げた。
首を傾げた彼に、陽希は「なんでもないです……」と眼を落とす。だが、バクバクと焦燥のような鼓動に背中を押され、ついつい眼だけで成山とその糸を交互に見やった。
(どうして、糸が……?)
陽希の視線の先で――成山の左手から伸びた赤い糸は、彼の長い足の半ばほど落ちたところで、ぷつんと途絶えていた。
隠そうと必死だったが、どうやらその動揺は丸わかりだったみたいだ。俯いたところ、覗き込むようにして見られ、眼が合った陽希はドキリとして咄嗟に彼の途切れた赤い糸の先を見た。
「きみ、これが見えてるの?」
「え――?」
少し屈んで顔を近づけた成山が、まるで二人には隠すように潜めた声で言った。思わず驚愕で声が出そうになったところを、彼は自分の口許に指を立てて制した。
だが、存在を主張するように左手の小指を折り曲げて糸を見せるので、陽希の耳が聞き間違えたわけではないらしい。
(俺と青島くん意外に見える人が……)
そんなこと、あり得るのだろうか。今まで、青島以外に赤い糸が見える人に出会ったことがない。
突然のことに、陽希は世界がひっくり返ったような衝撃を受け、しばらく茫然と立ち尽くしていた。
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