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13
陽希が家に着いた頃には、もうすっかり日が暮れていた。
玄関の前で鍵を取り出したとき、鞄のポケットに入れていた名刺が眼に入り、陽希はそれを手に取った。
玄関灯で照らされた名刺には、「成山誠」という彼の氏名とともに所属している社名と連絡先が記載されている。
(成山さん……)
陽希や青島と同じように赤い糸が見え、そして糸が途切れている人。
陽希が驚いて茫然としている間に、三人とはそのまま別れることになった。恵里たちはみんな駅に向かうとのことで反対に進んだが、通り過ぎ際に成山にそっと耳打ちされてこの名刺をもらったのだ。
「なにか訊きたいことがあったら、連絡して」
名刺を手に見上げると、「俺に分かることなら教えてあげられるから」と言って、成山は二人のあとに続いた。
(なにか訊きたいこと……)
彼はこの赤い糸について、なにか知っているのだろうか。どうしてみんなは見えないのに、陽希たちだけが見ることが出来るのか……その理由も。
知りたい。けれど、知るのが怖くもあった。
ひとまず名刺は保管して置こう。そう思い、生徒手帳に挟んで通学鞄にしまった。
鍵を差し込んでから扉を開ける直前、ひやりとした恐怖が思い出された。
(お母さんは、俺のことを愛してない)
それを陽希は、今から眼の前で実感しなくてはならない。足が竦みそうだったが、ええいと内心で意気込んで中に入った。
「ただいまあ」
母は待っていたようにすぐに廊下に顔を出す。
「おかえりなさい。恵里と会ってたんでしょう? 夕飯は家で食べるのよね?」
「うん。少しお茶しただけ」
いつも通りの抑揚のない声で出迎えられた。だが、思ったより陽希は平然としていた。むしろスッキリした心地とでも言うのだろうか。
いつもよりも、母の様子がよく見えている気がする。
(ああ、そっか。俺ってばずっとお母さんと顔を合わせるの避けてたんだ……)
こんなに真っ直ぐ母を見返しているのも、いつぶりだろう。
真顔で静かに訪ねてきた母は、視線だけはキョロキョロと陽希の顔色を窺うみたいに忙しなく動いていて、不意に恵里の言葉が思い返される。
――親子の距離感が分からないだけだと思うの。
そんなこと、あるのかなあ。
信じがたくて、到底事実だとは思えない。けれど、思うぐらいなら許されるんじゃないか。
ほんのすこしだけ……夜空で小さい星が一つ瞬くような、そんな小さな希望を自分の胸に潜ませておくぐらいは許されるだろう。
「今日のご飯なに?」
少し上擦りつつ、それでも笑顔で訊いた陽希に、母は眼を瞠った。
「ハンバーグにするつもり、だけど」
「やった。俺、お母さんのハンバーグ大好き」
好き。そう口にすると、心が軽くなったようだった。
いただきます。ごちそうさま。美味しかった。それは当たり前だったけれど、好きと主張するようなことは、なにも言えた試しがない。
(そうだ、俺……お母さんの作る料理好きなんだよな)
思ってても、今まで一度だって言えなかった。陽希はそれが嬉しくて切なくて……そして、母に申し訳ないと思った。
「もう作り終わっちゃった? 俺、なにか手伝おうか?」
考えれば、母は陽希を愛してなくたってこうして毎日料理を作ってくれた。小学校の六年間は、運動会にお弁当を持って欠かさず毎年来てくれていた。
なんだか、それだけで十分に思えた。
ニコニコした陽希に、陽希は眼を白黒させた。
「もうすぐ出来るから……大丈夫よ」
出来たら呼ぶから、と言われ、じゃあ部屋で課題でも済ませてしまおうと思う。
部屋にいると伝えれば、母は困惑顔で小さく頷いた。そのまま茫然とした様子で戻っていく。
その後ろ姿を見て、陽希はふと、自分のほうが背が高いことに気づいてハッとした。
恵里から話を聞いたからだろうか。母の姿がいつもより小さく見えて、胸にやるせなさが募った。
母の背中にこそこそと隠れていたころの陽希にとって、母は大きくて強い人だった。でも、もしかしたらそうじゃなかったのかもしれない。
(あの頃はちょうどお母さんの手の位置に俺の頭があって……よくぶつかってたっけ)
階段を上りつつ、陽希はそっとおでこを撫でた。
陽希がまだ素直に母に縋っていたころの話だ。祖父母と会うときは、陽希はいつも母の足の後ろで体を小さくしていた。ぎゅっと抱きしめるように母の足を掴んでいると、密着していたせいか、よく母の手が陽希の頭を掠めていったのだ。コツンと額にぶつかって、そして少し髪を撫でるようにして離れていく。
祖父の声にビクビクしていた陽希は、なんだか母に守られているような気になって安心したものだ。
父も父で、神妙な顔で頷いたり、元来の穏やかな愛想の良さでいつだって必要以上に下手に出るようなことなんてなかった。祖父が離れていくと、怯えた様子の陽希に眼をやって、困ったように微笑んでくれた。その瞬間、陽希は体の強張りを解くことが出来たのだ。
――でも、そんなこと随分長く忘れていた。
すり、と陽希はおでこを指の腹で撫でて、感極まるように瞳を細めた。
「そうだよ俺……ずっとお母さんとお父さんのこと好きだったんだ」
例え二人が愛してくれなくたって、陽希は両親のことが好きなのだ。
愛してもらいたい。そんなことばっかり考えてて、自分が二人を――周りのみんなをどう思っているのか考えたことがなかった。
ようやく見つけられた自分の中の愛。陽希は、そっと瞼の裏で涙の冷たさを感じつつ、嬉しいなあと一人ひっそりと笑った。心に浮かぶのは青島への感謝と、そして愛おしいという想いだった。
◆
担任である太田が連絡事項を告げるのを、陽希は聞くともなく聞きながら、緊張して逸る鼓動を落ち着けようと深呼吸をした。
(今日こそは青島くんに話かける……!)
こっそりと机の下で拳を握って内心で意気込む。
逸る気持ちのまま、まだ終わらないかなと時計を見た。そのとき、黒板の隅に書かれた日付と曜日が眼に入って、ふと陽希の心に不安を落とす。
(今日は火曜日だけど、青島くん一緒に帰ってくれるかな……)
あの約束はまだ有効だろうか。遠足の日以来、青島と話をしていないから分からない。
恵里は怒ってるかな? と訝しんでいたし、陽希ももしかしたら怒ってないかも――と思いつつ、本当のところは青島本人しか分からないので、不安と緊張で張り詰めていた。
昨日は、好きだと自覚して初めて見たせいか、遠目に眼にしただけでドキドキして、とてもじゃないが話が出来そうになかった。
しかし、これ以上今の状態を長引かせるのも嫌で、こうして鼓舞して奮い立たせているのだ。
そうしているうちに太田の話も終わって、解散の挨拶をした。いの一番に教室を出たいところだったが、席を立った瞬間に陽希はあることを思い出してギクリと立ち止まった。
(ま、待って……たしか今週って)
急速に頭が冷えていった。ギギッと錆び付いたブリキ人形みたいな動きで、教室後方の掃除当番表に眼をやった。
本当は昨日もやったのだから覚えていたけれど、最後の悪あがきだった。案の定、今週のところには陽希の所属する班名が書かれていて、ああ……と絶望するように陽希は顔を手で覆った。
「どうして今週に限って掃除当番……」
なんてタイミングの悪いことだ。嘆くように沈んだ陽希の肩を、そばに寄ってきた飯山が気にした様子で叩く。
「稲葉? どうかしたのか? 腹でも壊したのか?」
突然のことだが、飯山は昨日からこうして清掃にも参加するようになった。なんでも、今の期間は小学校でも掃除強化週間らしく、家で掃除当番の話が出てサボっているのがバレてしまったらしい。
いけないんだ! と妹に怒られ、母にも学校生活を疎かにするほど家のことを心配しないでも良い、と懇々と諭されたと言っていた。
他の生徒は飯山の外見からのイメージで怖がって近づいて来ず、掃除の手順などはすべて陽希から説明をしていた。
それもあって、掃除の時間になったのでこうして話しかけに来てくれたのだろう。
ゆるゆると首を振って否定しつつ、陽希は「ちょっとね……」と言葉を濁した。
まさか優等生で通っている陽希が、掃除をサボりたくて仕方がない、とは言えない。そんなこと言おうものなら、ぎょっとされるのが分かっている。
青島はもう帰ってしまっただろうか。陽希は不安でたまらなかった。
あんなことがあったあとだ、きっと帰ってしまっている。いや、青島はなにも言わずに約束を反故にしたりはしないはず。
諦めるような気持ちと、希望を持っていたい気持ちとが相反し、陽希はやきもきしながら掃除を終えた。
最後にゴミ捨てに行った帰り道で、一緒に来てくれた飯山が片眉を上げて訊ねた。
「なんか稲葉今日ずっとソワソワしてたなあ」
「え、そうかな……ごめん、このあと用事があって」
ぼかしつつ正直に言えば、お前でもそんなことあんだな! と飯山が面白いものでも見たように言う。
ちょうど階段を上って教室に着いたところで清掃終了のチャイムが鳴った。あとは最後に終了の挨拶をして終わりだ。
ほっと息をついて戻った教室には、すでに綺麗に並べられた机と教壇前に並ぶ班員の姿が見えた。
もう並んでる。珍しく早いなあ。
待たせてしまったかと、二人は小走りで列の端に加わった。どことなく空気がピリピリしている気がして、陽希は首を捻りながらもいつもの調子で挨拶を済ませた。
そのまま鞄を持ってすぐにでも飛び出ようとしたのだが――。
「飯山あ、お前昨日から急に参加し出してどういうつもりだあ?」
苛立ちをふんだんに含んだ太田は、ヒクヒクと眉間の皺を痙攣させて飯山を見た。
「言っとくが、今さら参加したところで一学期の内申は上がらないからなあ?」
嫌味たらしく語尾を上げながら言う太田は、ニヤリと嫌らしく嗤った。
――あれは、人を傷つけようとしている笑みだ。
反射的に陽希は分かった。祖父が嫌味を言う相手を見つけたときのような、そんないやらしさがのった瞳だ。
どうやら太田は、飯山の困ったり怯えた顔が見たいらしい。あれはそういう反応を期待している者の顔だ。
今まで怖がって触れなかった癖に珍しいと思ったが、もしかしたら掃除に出て意外と従順に仕事をこなしていたから、飯山は思っていたような問題児ではないと分かったのかもしれない。
だが、飯山だとて噂のような問題行動はしないが、高圧的な態度で縮こまってしまうような気弱な生徒とは違う。
変なのに絡まれたなあ、とうんざりした様子を隠さない眼差しで、しかし今までサボってきたのは事実だからか口調はしおらしかった。
「はい分かってます。今までサボっててすんません」
どこまでも冷めた声に、もしかしたら刺激すると面倒だからかな? とチラリと思いもした。
思った反応がもらえなかった太田は、悔しそうに歯を食いしばった。
そんな太田の様子に、陽希は珍しいなあと気になった。
太田はたしかに横柄な面もあったが、ここまで露骨に出すようなことはなかった。
一体なにがあったのだろう。
と、自分の席で鞄を手にした陽希が、そっと太田と飯山を気にかけているうちに、他の生徒は関わりたくないとばかりに足早に教室をあとにした。
女子生徒たちがこそこそと身を固めて出て行くとき、彼女たちの小さな声が届いた。
「太田、今奥さんと喧嘩してるらしいよ」
「娘さんとも話してもらえないんでしょ? 友達が悩んでて~なんて言ってたけどさ、あれ絶対自分のことだよね」
「娘さん、私らと同年代だもんね。たしかにあんな父親最悪だもん。絶望する」
「だからといって私らに当たんないで欲しいわ。ただでさえうざいのに、最近はピリピリしてて最悪」
最後の言葉に、それぞれが同調するように「ね~」と呟き、彼女たちは教室を出て行った。
悔しそうに歪んだ顔のまま怒り肩で出て行く太田の背中に、なるほどと陽希は内心で呟いた。
どうやらイライラしている原因はべつにあったらしい。
飯山くんも災難だったな、と彼に眼を向けたが、一瞬離した隙に彼はもう忽然と姿を消していた。
多分、バイト先に向かったのだろう。
全く堪えた様子もなくて、不憫に思う気持ちも吹き飛んだ。
そこで陽希は我に返り、慌てて自分も教室を飛び出たのだった。
早足で階段を下りつつ、陽希は心の中で今日一日何度も繰り返したことを反芻した。
まず、遊園地で手を振り払っちゃったことを謝って……それでお礼を言おう。
本当はこれからも一緒にいたいけれど、二人の関係はあくまで恋人ごっこ。心が伴わないから遊びでいられたが、陽希が青島に想いを向けている以上、黙ってそばにいることは出来ないだろう。
大丈夫。拒否されたって、関係が終わったって、陽希の心は空っぽじゃない。今は、家族や青島へと向ける愛情があるのだ。
誰かを好きだと思える気持ちは、確実に陽希の大きなエネルギーになっていた。
階段の踊り場で折り返したところ、いつもの待ち合わせ場所である廊下に人影が見え、ドキリと胸が跳ねる。
(……青島くん、待っててくれたんだ)
階段の中ほどでつい足が止まり、陽希は身のうちに押し寄せた喜びに胸を熱くさせた。同時に、緊張が体に走った。
青島の涼しげな横顔は、静かで……どことなく不安そうに見えた。迷子の子どもを見つけたときの顔に重なった。
足音で顔を上げた青島は、陽希を認めると一瞬安堵するように微笑して迎えてくれた。
「ごめんね、待たせて……掃除当番だったから」
「大して待ってないから気にしなくて良い」
淡々と、しかしそのなかには陽希への親しみの柔らかさがあって、先日のことを怒っているようにも、気にした素振りもなかった。そのことに、一先ず陽希は胸を撫で下ろした。
立ち上がった彼に行こうと促されたが、陽希は裾を掴んで引き留めた。困惑した顔で、青島は振り返った。
ここに来るまで、誰ともすれ違わなかったし、今だって人の気配はない。ここで言ってもいいだろう。
それにこのまま帰路についてしまうと、一緒にいる時間が楽しくて、切り出せなくなりそうだ。
「あのね、聞いてほしいことがあるの」
一瞬戸惑いを見せた青島は、くるりと反転して陽希と向き合ってくれたので、それを了承と受け取った。
「この前、遠足のときは青島くんの手を払ったりしてごめんね。せっかく青島くんがあんあふうに言葉をかけてくれたのに、俺が弱かったから受け入れられなくて……ごめんなさい」
深々と頭を下げると、慌てた青島に顔を上げさせられる。
「べつに俺は本当のこと言っただけだし……それをお前がどう思うかは別の問題だろ」
気にしてねえよ、と青島は困った顔で少し乱暴に言った。
「でも、俺が謝りたくてさ。……あのまま別れちゃったから」
気にしていない。その言葉にほっとして笑ってしまうと、青島は大袈裟だなと低く呟き、陽希の手を取った。
「ほら、帰ろうぜ」
手を引かれて、思わず心臓がドキンドキンと大きく鳴る。彼の体温に胸をバクバクさせながら、放心して後ろを着いていってしまった。
クラスが違うので、下駄箱までの短い距離で手が離れた。体温の名残にほうっとぼんやりしていた陽希は、ハッとして靴を履き替えると慌てて彼を追いかける。
校舎を出たところで待っていた青島に追いつき、陽希は浅く呼吸をしながらドキドキと緊張と甘やかな気持ちで支配される体を懸命に奮い立たせる。
今日言えなかったら、きっとこのあとも言えない。
今、言わなくちゃダメだ。
(告白って、こんなに緊張するんだ……こんなに怖いんだ……)
眼に入った赤い糸を、そっと指で握りこんでくいと引っ張った。すると、歩き出そうとした青島が訝しく振り返った。
「あのさ、青島くん。青島くんは、俺の中に愛があるって言ってくれたでしょ? でも、俺、すぐにそれを受け入れられなくて、あんなことしちゃって」
「稲葉、べつに俺は気にしてないって」
「お、お願い。出来れば……聞いてほしい、です」
くるくると指に赤い糸を巻いていき、最後にそっと縋るように青島の指先を包む。彼はゆっくり握り返して「うん」と真面目な顔で頷いてくれた。
「俺は、ずっと知るのが怖かったんだよね。お母さんの中に愛はあって、ただ俺が愛されてないだけなんだって。お母さんの中に愛情はないから、だから俺に興味がなくてもしょうがない。そう思い込んで、認めたくなかった」
俯いていた顔を上げ、そっと微笑む。きっと、淋しさが漏れた笑みになってしまった。だって、青島が自分のことみたいに痛ましげな顔をしてる。
まるで陽希のことを愛しているみたいだ。大事なものが傷ついて、それを悲しんでいるよう。
きゅんと切ない喜びが湧いて、慌てて奥にしまい込んで続けた。
「だから、きみに俺の中にも愛情があるって言われて怖くなっちゃった。俺が愛を持ってるってことは、お母さんの中にも愛があるってことだから。それを俺に向けてもらえてないだけなんだって、認めるのが怖かった……愛されてないって思いたくなかった。しょうがないことであって欲しかった。俺は、本当は子どもの頃からずっと、お母さんたちに愛して欲しかったから」
情けなく、言葉尻は震えて裏返ってしまった。一音一音、言葉にする度に胸が鷲掴みされたように痛む。ぎゅっと絞られて今すぐ息を止めてしまいたくなる。
受け入れた。でも、やっぱり言葉にするのは辛い。きっとこの痛みは、なくなることはないだろう。陽希が両親を愛している間は、絶対に。
喉の震えは、そのうち瞳にまで伝わって、視界がゆらゆら揺れ始めた。はらりと涙が零れ、それを見た青島が息をのんだ。
それでもと、陽希は息を吸った。生きるために――母に、父に、誰にも愛してもらえない世界で、生きるために。
だって、たとえ愛がもらえなくても、陽希の胸はからっぽではないから。
愛されなくたって、陽希は誰かを愛することが出来るのだ。
繋がって指先から青島の鼓動が聞こえてくるようだった。トクトクと少し早い鼓動は、多分自分のものだろうけど。
薄い茶の瞳と眼が合う。
――好き。咄嗟に頭に浮かぶ感情。
この人のことが愛おしいと体が、心が言っていた。
鼓動と一緒に全身に広がっていく心地よい温かさは、きっとこれからも陽希を生かし続けてくれるはずだ。
(これがあれば、俺は生きていける……)
愛されなくても、愛することは出来るから。愛する喜びを知った陽希は、今までよりもうんと強く、胸を張っていけるから。
「ありがとう。青島くんが、俺にも愛があるって教えてくれたから、俺はこれからも生きていける」
涙で濡れた頬が乾いて、微笑むとぎこちない動きになった。
あんまりに不格好だったのか、青島はその眼に焼き付けるような熱心さで陽希をじっと見ていた。どこか、放心した様子で。
「おれ、青島くんのことが好きです」
言って、そこで陽希はひと息つくように涙の跡を拭った。
心の中は言い切ったと、開放感と安堵で満たされていた。
驚愕していた青島に、そうなるのも無理はないよなと思う。
そっと握り合った手に眼を落とし、振り払われないってことはさほど嫌われてもいないのかもとちょっぴり嬉しくもなった。
「……あっ……」
ようやく頭が追いついたのか、青島が喉を震わせた。それは怯えたように息を飲む音で、その動揺っぷりに陽希のほうが驚いてしまう。
「青島くん?」
左右に小さく揺れていた瞳が陽希を見て、そしてそのまま下りて二人を繋ぐ赤い糸を見た。
糸を眼にした途端に、彼はサッと青ざめて恐怖したようによろよろと後じさった。するりと、二人の手が離れた。
普段とはあまりに様子が違う。いつだって青島は、告白されても冷静に相手を傷つけないように、そして期待を持たせないように言葉少なに断ってきたはず。
陽希は、自分もそうやって断られるのだと思っていた。それなのに、彼のこのうろたえようはなんだろう。
「……青島くん? どうしたの?」
心配になった陽希が手を伸ばした。だが彼は、それを避けるように後ろに下がった。
拒絶された。そう思うと、咄嗟に胸がズキンと痛む。
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
「え……?」
小さくて聞き取れず、訊き返せば勢いよく顔を上げた青島が大きく声を上げた。
「なんで、好きだなんて言うんだよ!」
その叫びに、陽希の体がビクリと震えた。彼は全身で陽希の思いを拒絶していた。
雷が落ちたような衝撃とともに、悲しみが押しあがってきた。さっきまで触れ合っていた指先から、スッと体温が抜けて冷たくなっていく。
「俺のことが好きなんて……赤い糸が繋がったから、そう思ってるだけだろ?」
気の迷いだよな? 青島は面白い冗談を聞いたというように笑ったけれど、内心ではちゃんと陽希の本心だと分かっているのか、笑みは歪だった。
彼の瞳の奥には、必死に縋るような色を見た。頷いてくれ。そう言っているのが分かる。
陽希だって出来ることなら彼の望むことをしてあげたい。だが、この気持ちだけは偽ることは出来ないのだ。
正直に答えれば悲しませてしまう。胸が押しつぶされそうな思いを抱えて唇を噛みしめた陽希は、それでもしっかりと首を振って否定した。
この気持ちは気の迷いでも何でもない。そういうように、確固とした眼差しで彼を見据えた。
「なんで……」
青島は喘ぐようにショックを受けていた。裏切られたと、その瞳には痛みを伴う冷たい色が走った。
「そんなこと言われたら! 俺はお前を振らなきゃいけないだろ!」
青白い顔で叫ぶ彼は、切実すぎて陽希が圧倒されてしまうほどだった。
悲痛な叫びの後、青島はやるせなさを含んだ顔をくしゃくしゃにして俯いた。
「……俺のことが好きだなんて……お前は、赤い糸のせいでそう思ってるだけだ」
自分自身に言い聞かせるような声だ。
「違うよ。俺は糸のせいでそう思ってるんじゃない。糸があってもなくても、きみを好きになるよ」
拒絶されても、受け入れられなくてもいい。だが、陽希のこの感情を植え付けられたまやかしのようには語ってほしくなかった。青島には特に――。
力強い陽希の声に、薄い瞳が一瞬だけ喜びのような明るい色が浮かべ、しかしすぐにもっと大きな感情に覆い隠されてしまった。
「……糸のせいじゃなきゃ困るんだよ」
「え?」
「俺は、幸せになっちゃいけないんだ……!」
罪人なんだ――。
噛みしめるような絞る声に、陽希が気を取られているうちに、青島は走り出してあっという間に見えなくなってしまった。
その背中に伸ばしてはなにも掴めず、陽希は虚しさを握りしめて下ろした。
陽希は自分のせいで彼を苦しめたことに鼻の奥がツンと痛くなった。同時に、なにが彼をあそこまで追いつめているのかが気にかかる。
伝えることで、この想いが叶うなんて思っていなかった。けれど、彼なら受け止めて答えをくれるとも思っていた。そして許されるなら、たまに話が出来るぐらいの距離を保てたなら……。
そんな夢想すらしていた。それなのに、結末はこれだ。
「青島くん……」
焦がれるように彼の名前を呼んだ。
夕日に染まった陽希の体は、夏の気候で汗ばむほどに温かい。けれど、体の奥は淋しさと悲しみ……そして彼への心配や不安で冷え切っていた。
(罪人っていったいどういうことなの……)
問いかけても、その答えをくれる人はいなかった。
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