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 週が明けてからも、陽希の鬱屈とした気分は晴れていなかった。  昼休みに入ってからクラスメイトたちが続々と教室を後にする中で、陽希は未だにぼんやり窓の外を眺めていた。  陽希の心情とは裏腹に、外は雲一つない快晴だ。それがなんとなく、鼻についたような気持ちになった。 (結局今日も言えなかったな……)  ようやく動き出した陽希は、のそのそと弁当の包みを取り出してそう思った。  ――出来ないことを人に言うなよ。  校舎裏で青島の背中を見送ったあの日から、その言葉が心に突き刺さったままだ。彼の言い分には納得できるので、陽希はまず自分が行動しなくてはと父や母に話しかけるタイミングを見計らっていた。  けれど、結局絶好の機会だった土日を素通りしてしまったわけなのだ。  なにもしなかった訳じゃない。何度も機を見計らっては話しかけようとしたが、喉が塞がれたように急に声が出なくなるのだ。  その瞬間、陽希は息すら忘れたようになってしまう。  もし自分の問いかけがきっかけとなり、この改善し始めた三人での生活すら危うくなったら?  そう思うと陽希は途端に足が竦んでしまうのだ。 (これでよく、青島くんに話をしてみようなんて言えたよね……)  自分の迂闊さが恥ずかしくてたまらない。  弁当の包みは胸に抱え、陽希は机に額を押し当てた。 (しかもあの日、青島くんとキッ、キキ、キスしちゃったんだよね……)  押さえつけられたときの力強さや、頭が息苦しさと悦楽でぼやけていく感覚を思い出し、ぼっと陽希の顔に熱が上った。 (学校で思い出すなっ! だめだめ!)  どうにか思考から振り払って熱くなった頬を冷やそうと手で仰いでいると、ちょうど通りがかった早波が心配そうに眉をひそめた。 「稲葉くん、さっきから青くなったり赤くなったりしてるけど、体調でも悪いの?」 「い、いや、大丈夫。なんでもないよ」  ギクリとして、咄嗟に思い浮かんだ青島とのキスを瞬時に頭から追い出した。  まさかキスされたのを思い出して照れてるなんて、誰にも言えるわけがない。どうにか笑顔を取り繕って答えたが、早波の顔色は晴れない。むしろ、余計に無理してないかとじっと見られた。 「最近、太田先生から仕事任されすぎじゃない? あの人、機嫌最悪だし……大丈夫?」  太田に任される仕事といれば、担当教科である数学の提出物の回収ぐらいだったが、最近じゃなにかと理由をつけては細々した雑用を押しつけられていた。  そして、雑用ついでに揚々とした太田の愚痴を聞き流すのが常だ。多分、話を出来る人間がいないので、文句も言わず、反抗もしない陽希を体の良い聞き役にしているのだろう。 「大丈夫だよ。先生もテスト近いし、きっと忙しいんだよ」  そうじゃないことなんてクラスのみんなが知っていたが、嘘も方便だ。真面目で優等生な稲葉陽希はぼやいたりはしない。  なにより、仕事自体は細々した大した手間のないものなので、本当にそこまで大変な思いはしていない……というのもあるだろう。 「太田先生、最近あんまりに横暴だから他の先生からも注意されてるみたいだよ。三組の子が言ってた」  そこで区切ると、早波は不意に身を屈めてそっと耳打ちした。 「それに奥さんと離婚するんじゃないかって噂がたってるらしい」 「そうなの……?」  思わずきょとりと瞬いた。 「本当かは分かんないけどね。でも、あんな人と家で一緒って絶対無理だよね……周囲の先生にそれとなく言われたって逆効果みたいだし……」  あくまで噂だと念押ししつつも、早波は真実味を感じているらしい。かくいう陽希も、そこまで驚かなかった。 「あっ早波さん、お昼の時間の終わっちゃうから席戻って良いよ? 気にしてくれてありがとね」  礼を言うと、早波は難しい顔で口を噤んだ。どうしたのかと見ていたら、じわじわとその頬が染まって彼女はやや早口で言った。 「あ、あのさ……! もし良かったら、一緒に食べない?」 「えっ?」 「あ、いや、いつも一緒に食べてる友達が委員会の仕事でいなくてさ……淋しいなあって思ってたところで」 「そうなんだ……でも、ごめんね。ちょっと行くところがあって……」  申し訳なく眉を落として言うと、早波のほうがぎょっとして恐縮したように手を振ってわたわたした。 「いいのいいの! 急に誘われても困るよね……こっちこそごめんね」  笑っているけれど、どこか気落ちしている。 (一人でご飯は淋しいもんね……)  いつも一人で食べている陽希でも、家での食卓を思い出しては淋しくなることがある。いつも誰かと一緒にいる早波なら尚更だろう。 「別のクラスの友達のところ行ってみるよ。稲葉くんも気にしないでね」  早波は小走りで自分の鞄を手に教室を出て行った。それが逃げているように思えて、悪いことをしたな……と陽希は申し訳なく思った。 (って、俺ものんびりしてる場合じゃない!)  ハッとして弁当の包みを手に教室を出た。  歩きながらスラックスのポケットに手を忍ばせた。手元で携帯と名刺の質感を確認し、よしと内心で意気込む。  成山はいつでも頼ってくれと言っていたから、こんなにすぐ電話をかけたって怒られはしないだろう。  ちょっぴり不安になりつつも階段を上って屋上へ向かおうとしたところで、ふと陽希は足を止めた。 (……よく考えたら俺、青島くんに成山さんからの受け売りをそのまま言っただけなんだな)  青島がやっとの思いで吐き出してくれた彼の過去。陽希は驚愕して信じられなくて、それで彼が離れていこうとすることに焦って真っ白な頭でただ言葉を並べたのだ。  あのとき、陽希は青島へきちんと向き合って言葉を述べただろうか。  もちろん成山が言ってくれたことは正しいと思う。どんなに大事な人だって、近しい人間だって、話をしなくては本当の気持ちなど分かりはしない。  だが、それをそのまま青島に伝えたって意味がないのだ。先日の陽希の言葉には、青島への気持ちが――誠意がなかった。 (あの時の俺は、青島くんを引き留めたかっただけなんだ……)  本当にただ引き留められるならなんでも良かったのだ。今さら気づいてしまった自分の浅はかさに胸が痛くなった。  カフェであった日、成山は陽希たちの仲のことを思うからこそ、行動してくれたのだろう。だからこそ、帰り際の「ごめん」だったはずだ。  きっと陽希よりもうんと大人な成山は、青島にだってかける言葉を持っているかもしれない。  ――でも。 (俺はその受け売りを、また青島くんに言うのかな……)  それじゃあこの前と同じじゃないか。  弁当の包みを抱えていた手に力が入った。  こんな状態で成山に頼って、それで今の状況が良くなるだろうか。 (頼るのはいつでも出来るし……今はもう少しだけ自分の中で考えてみよう)  こんなに全面的に寄りかかってはいけない。せめて自分の意見を一緒に伝えられるほどに、青島と向き合ってから。頼るのはそれからだ。  青島が自分の言葉で陽希に伝えて愛を見つけてくれたように、陽希も青島への言葉は自分なりの答えで返したい。  鬱屈した気分が、不意に前を向いた。くるりと体を反転し、陽希は教室に戻ることにした。  こんなことなら早波の誘いを断わらなければ良かったな、と思いながら人通りの少ない廊下を戻っていく。 (青島くんも俺と同じなのかなあ)  青島だって他人の赤い糸が見えているのだから、赤い糸がつながっていなくても幸せそうにしている人たちがいることを知っているはずだ。  赤い糸が絶対じゃないってどこかで分かってる。それでも、両親の離婚をああも自分のせいだと思い込んでいるのは、きっと見えなくなってるからじゃないかと陽希は思った。  多分陽希が自分や母の中に愛はないのだと決めつけ、恵里の存在から眼をそらしていたように――。 (俺だって、青島くんからの言葉を一度ははねつけちゃったもんな……)  自分の中で当たり前となっていた世界が崩れるのは、居場所をなくすような喪失感を覚える。自分がどうしたらいいのかも分からなくなり、今までのことはなんだったのかと無力感が襲う。  それをいっぺんに受け入れるのは、辛くて苦しい。陽希はそれをよく知っていた。陽希が母から愛されていないのだと受け入れるときに思い知った。  きっと青島も同じような恐怖と戦っているのではないかと思う。  その結果、陽希はしっかり受け入れて前に進んだ。だが、青島が現状を変えようと思うかどうかは彼次第だ。青島にはどの道を選択する権利がある。 (でも、青島くんの傍には幸基くんたちだって俺だって……たくさんの人がいるんだもん。一人になって欲しくない)  一人にならなきゃと言い聞かせる彼に、どうか周囲を受け入れて欲しい。なにより、今のままでは青島自身が母と向き合っていて辛いんじゃないのか、と心配になってしまった。  愛せることの喜びは、陽希だって知っている。  青島が母のために尽くすのは単なる贖罪からではなく、母への愛情が故だろう。しかし、彼はそれと周囲の――陽希へ向けてくれる気持ちの間で苦しんでいた。 これから先、大人になって世界が広がって人と交流を持ちたいと思ったとき、毎回のように母のためにと諦めていれば、いつか彼を苛む苦しみや悲しみは大好きな母に怒りや憎しみとして向けられてしまうのでないか。そう思うと、陽希は胸が詰まった。  無理をして一人の生活を押し通した先で、母への愛情を欠くようなことがあれば、青島はきっとそんな自分を責めるのではないだろうか。 (でも、どうしたらいいんだろう)  弁当を抱えた手に眼を落とし、陽希は内心で独りごちた。  左手の小指から伸びた赤い糸は、わずかに弛みながら廊下を真っ直ぐ進んでいる。この行き先は、多分五組の教室だろう。 (この糸を切って俺が好きだって言えば、赤い糸なんて関係ないって分かってくれるかな……)  そうすれば陽希の気持ちも認めてくれて、青島の両親の離婚だって彼が糸を切ったせいじゃないって分かってくれないだろうか。  ふと考え、しかしすぐに首を振った。  そんなやり方じゃダメだ、と陽希は思った。  目の前で彼に受け入れ難い事実を突きつけ、受け入れろと責めているみたいじゃないか。  青島が、自分の意思で気持ちを切り替えるしかない。結局はそこに行き着くのだ。  せめてその足がかりのようなものでも作れないかな、と陽希は思った。 (きみは本当になんなんだろうね……)  おもむろに左手を上げ、小指に問いかけた。  運命を示すわけではないのなら――切れることも結ばれることもあるのなら、この赤い糸はなにを示すのだろう。  ぼんやりと内心で問いかけ、けれど陽希はすぐに苦笑して手を下ろした。答えが返ってくるはずもない。  階段を降りて二年生の教室が階に降りてきたところで、正面から歩いてくる多田が見えた。  いつも一緒にいる青島たち三人の姿はない。  陽希はひっそりと近づくと、多田と腕をとって廊下の隅に招き寄せた。 「うわあ、ってなんだ稲葉か……」  驚く彼を尻目に、陽希はこそこそと彼に耳打ちした。 「あのさ、青島くん変わった様子なかった……?」  訊ねると、「あっ!」と多田が弾かれるように顔を上げて陽希の両肩を掴んだ。 「お前ら先週一緒に帰ったんだよな? なんで俊也のヤツ悪化してんだ!?」  ぐらぐらと揺さぶられながら、陽希はなんとか「一緒には帰れなかったんだ」と答えた。  それに多田は手を止めてきょとりとした。 「え? でも約束の日だったんだろ?」 「うん。そうなんだけど……ちょっといろいろあって」  さすがに赤い糸云々を言うことは出来ず、陽希は濁して曖昧に笑った。 「そういえば、幸基くん俺たちが一緒に帰ってるって知ってたんだね」  多田たちはサッカー部なので、青島と一緒に帰ることはない。だからそこまで知っているとは思わなかった。青島が自分からいうようにも思えないから尚更に。 「ああ、だって急に歩いて登校しだしたら何事だって思うだろ?」  登校中に会うことがあるのだと、笑う多田に、陽希は違和感を覚えた。急に、とはどういうことだろう。 「青島くん、バイトがない日は歩いてきてるって言ってたけど……」  あれ? と首を傾げれば、多田は固まった笑顔のままじわじわと眼を見開いていった。そして、ふいとそっぽを向いて「あいつ……」と呆れたような苦い顔で呟いた。 「それ、あいつの嘘だよ」 「嘘?」  おう、と多田は真面目な顔で、しかしどこかにやけるのを抑えたように頷いた。  嘘をつかれていたことへのショックよりも、なんでそんな嘘をついたのかが気になった。だって歩きで来るなんて、青島からした余計な負担が増えるだけだ。 「なんでそんなこと……」  よく理解できずに眼を白黒させて困る陽希に、多田は肩を組んで「決まってるだろお?」と今度こそ大きく口の端をあげたにやけ顔で言った。 「稲葉と一緒に帰りたいからだよ。歩きのほうが長く一緒にいられるだろ? あいつも意外と可愛いとこあんだなあ」  囁かれた声に、じわりと陽希の耳が赤くなる。  ドクドクと鼓動とともに体に広がるのは、自分からは見えない青島の愛に気づいたことへの喜びや愛おしさだ。  青島は確かに陽希のことを想ってくれている。それがたまらない気持ちにさせた。  さすがにあれだけ言葉を並び立てられても気づかないほど陽希は鈍くはない。だが、確かな言葉として示されたことの愛情はあまりに淡くおぼろげ、陽希は気づけば疑心暗鬼になって本当なのかと疑ってしまうのだ。 (大丈夫……勘違いでも、夢でもない)  好きな人が、自分を好きになってくれた。それはなんて幸福感をもたらしてくれるのだろう。  胸に抱える幸せでいっぱいな愛おしさがあれば、もうなにも怖くないと思える。陽希のことが好きだというのなら、陽希が好きだと告げたとき、青島にも同じ幸せは訪れたのだろうか。  考え、そしてすぐにそのはずだ、と思った。  嬉しかったからこそ、だからこそ青島はあれだけ苦しんでいたのだ。  赤い糸のせいにして、仕方のないことだと誤魔化してまで今までの自分の信念を曲げて陽希と一緒にいようとしてくれた。  あれはきっと、あの時の青島に出来る最大の愛情表現だったはずだ。  そう気づいてしまうと、なぜあのときに彼の話に乗ってあげなかったのだろうと後悔に近い苦い思いがこみ上げた。  お互いがお互いの気持ちを察していて、そしてそばにいられる。それでも十分に幸せなはずだ。 (でも、俺はそれだけは出来ないんだ)  陽希は切ない後悔を押し殺した。  自分の中にある愛情を、赤い糸のせいにすることだけは、陽希には出来ない。この愛は陽希のもので、糸なんて関係なく芽生えているものだからだ。  自分の中に愛はないと苦しんでいた陽希自身が、やっと見つけた大事な大事な宝物。それを偽物だと断じることはなにがあっても出来ない。  だから陽希たちは、結局はこうしてすれ違うようになっていたのだろうか。  お互いに愛しているのに、交わることはないというのだろうか。  多田とはそのまま廊下で別れ、陽希は教室に戻った。  クラス内に早波の姿はなく、ほっとした。断わってしまった手前、こんなに早く教室に戻ってきているところなんて見せられない。 (青島くんは、いつから俺のこと好きだったんだろ……)  席について弁当を開けながら、不意にそう思った。  青島が一体陽希のどこに惹かれたというのかは分からない。だが、きっかけは断定できる。陽希の赤い糸が途切れていたからだ。  もし、二人の赤い糸が途切れていなくて他の人と同じようにどこかに繋がっていたら。もし、この糸を見ることが出来なかったならば、きっと彼は陽希になんて見向きもしなかったはずだ。  陽希だって、もしかしたら青島のことを知らずに高校生活を終えていた。なんてこともあり得たかもしれない。 (そう思うと、まるで運命みたいだね……)  この赤い糸が決して運命を表すわけではないと知りながら、そんな夢想をしてしまった。  ふと、子どものころにみた絵本を思い出した。  赤い糸で繋がったお姫様と王子様が結ばれて幸せになるお話だ。あれは定められた愛する人と出会い、恋に落ちるものだった。  産まれたときから決められた運命の相手との恋。それはとてもロマンチックで、幼い陽希の心に夢見るような淡い憧憬を宿した。 (でも……)  と、小指を立て、陽希は赤い糸を見下ろした。  定められた人と恋をするよりも、こうして自分自身の心で感じて選び取った恋のほうが好きだなあ、と陽希は思った。
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