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 多田を引き留めたものの、青島の詳しい様子は訊けずじまいだったと気づいたのは、帰りのホームルームを終えたときだった。  あっと思ったが、すぐに切り替えて陽希は帰り支度を始めた。週が切り替わったので、やっとあのピリピリした清掃時間ともおさらばだ。 (青島くんとは自分で向き合うって決めたし、ちゃんと考えてそれでもう一回話をしよう)  よしと内心で意気込んだところで、教壇から太田が大きな声で飯田を呼び止める声がした。それには明らかな怒気が含まれていて、教室に一気に緊張が走った。  いの一番に教室を飛び出そうとしていた飯山は、一瞬鼻白んだ顔をしたがそれではまずいと思ったのか、すんと表情を消して、けれどどこか苛立ちのこもった低い声で返事をした。  立ち止まった飯山の隣を、他の生徒たちがそそくさと出て行った。みんな巻き込まれるのは嫌なのだろう。 「お前今日の数学のノート出してないだろう?」  肩を怒らせて近づいた太田は、ムッとしかめた顔で腕を組んだ。飯山は「は?」と怪訝そうに言った。 「いや、俺出しましたけど」  とってつけたような敬語で話す飯山に、太田はふっと鼻で嗤った。 「いや、お前のノートはなかったぞ?」  肩を竦め、やれやれとでも言いたげに太田は首を振った。 「まったく……課題だけは真面目にやってるかと思えばやっぱりな……。今までのだって、どうせ誰かから見せてもらっていたんだろう」  否定する飯山の言葉を、太田ははなから聞く気はないらしい。あしらうように嗤っていた。  陽希の席は窓際で、飯山は廊下の壁沿いの席なので距離はあるがよく聞こえていた。明らかに飯山を信じていない様子に、太田への不信感が募った。  あれが教師の態度だろうか。ムカムカした思いが込み上がってくる。  今の太田は、ただ自分の憂さを晴らすために眼を凝らし、獲物を見つけては喜んでいたぶるような卑しい男だ。 「稲葉くん、早く帰ったほうがいいよ」  傍を通った早波がそっと忠告してきた。教室内には、すでに今週の清掃当番の生徒以外の姿はなかった。当番以外でいるのは飯山と陽希ぐらいなものだ。  早波は清掃当番なのだろう。箒を両手で持ち、彼女はうんざりとそしてどこか怯えたように飯山と太田のほうをチラチラと気にしていた。他の生徒たちも似たようなものだった。  他人の怯えている姿というのは可哀想なものだ。それが見慣れたクラスメイトならば尚更に。 「早波さん、少し荷物見ててくれる?」 「え? 稲葉くん?」  返事を聞く前に陽希は席を離れた。 「まったくなあ? 母子家庭で忙しいのは分かるが、母親はお前になにも教えなかったのか? 授業も真面目に受けない。課題も出せないじゃ、俺に最低評価をつけてくれって言ってるもんだぞ?」  母に矛先が向いた侮辱に、それまでうんざりして聞き流していた飯山の顔が怒りで歪んだ。 「は?」  威嚇するように見開いた瞳で飯山が声を荒げようとしたところ、陽希は足早に二人の間に割り込んだ。 「先生、飯山くんはノート提出してますよ。俺が回収係でしたから絶対集めてます」 「……なに?」  ピクリと太田の片眉が苛立つように上がった。その瞳には、優等生で従順な陽希が割り込んだことへの驚きもあった。 「それにもし忘れたのだとしても、飯山くんに注意するのに彼の母を引き合いに出して馬鹿にするのは話が違うと思います」  自分でも不思議なほど恐怖や恐れといったものはなかった。キッパリと言い切る陽希の凜とした立ち姿に、残っていた十数人の生徒の眼が奪われる。  背後で、飯山は気の抜けたような声で陽希を呼んだ。グッとせり上がった感動をこらえたように彼は口を引き結び、陽希の隣に並んだ。 「俺ちゃんとノート出しました。もう一回確認してください」  真っ直ぐ眼を見て嘆願され、太田は怯んだように一瞬だけ言葉を呑んだ。しかし、すぐにカッと痩せた頬に赤を差して鼻頭に皺を寄せた。 「な、なんだその態度は……俺が間違えてるって言うのか?」  戦慄く口で言い、太田は陽希を指でさした。その手は動揺か怒りのせいか震えていた。 「稲葉、お前飯山を掃除に参加させたからって調子に乗ってるだろう? え? なんだ急に、いつもは俺の言うことを何でも聞いていたのに反抗して……!」 「先生? べつに飯山くんが参加し始めたのは俺のおかげとかではなく、彼自身が」  戸惑いつつ、誤解があるようだとそろそろと口を出すと、太田の細い瞳が眼鏡の分厚いレンズの向こうでカッと見開かれた。 「うるさいなあ! お前たちも俺が悪いって言うのか!?」  怒りと恐怖がない交ぜになったような白い顔で、太田はまるで遠ざけようとするように陽希の体を衝動的に押しのけた。  急なことだったので陽希は避けることも出来ずに後ろによろけた。思い切り突き飛ばされたので、近くの机に手をつこうとしたが間に合わず(くう)を切った。  教室に残っていた女子生徒から、息を飲むような悲鳴が漏れた。  そのままの勢いで足をもつれさせ、陽希は壁にぶつかってから床に崩れた。衝突の際、ピリッとした痛みがこめかみを掠め、陽希はそこを手で押さえながらよろよろと上体を起こした。 「いたた……」 「おい、稲葉大丈夫か!?」 「稲葉くん、血出てるよ!?」  座り込む陽希に駆け寄った飯山と早波が真っ青な顔で稲葉を見た。早波の悲鳴に、陽希は自分の手をおもむろにみやる。  そこには確かに赤い色がついていて、抑えていた手をどけたからか、痛みのあるこめかみからもタラリと一筋血が垂れた。 (あ、掲示物の画鋲で切ったんだ……)  冷静にそう思う一方で、貧血みたいに頭の中がぐるぐる回った。  陽希は子どもの頃から怪我とは無縁の生活だった。ヤンチャして走り回ることもなく、血を見る機会なんてほぼなく生活してきた。  くらりとして倒れそうになった陽希を、飯山が慌てて肩を抱いて防いだ。  生徒の何人かは蒼白した顔で廊下に飛び出ていった。「誰かー! 太田先生が!」と叫ぶ声がだんだんと遠ざかっていく。  太田は状況を理解できないように眼を白黒させていたが、不意に陽希に眼をとめると、怯えた顔に媚びるような笑みを貼り付けて近づいてきた。 「い、稲葉……ちょっと切っただけだろ? な? 大丈夫だよな?」  震える手が陽希に伸ばされる。さっき突き飛ばされたことが思い出され、反射的に陽希の身が竦んだ。  けれど体が思うように動かず、硬直したように怯えていると、気づいた飯山が口を出そうと顔を上げた一瞬――。  大きな影が振りかぶったと思えば、太田の姿が消えた。いや、正確には太田が吹き飛ばされたのだ。  整列していた机たちは、けたたましい音を立てて倒れていき、その中心では太田の痩身が床に伏せっている。茫然とした様子で、太田はおもむろに自分の頬に手を当てて首をあげた。片頬が痛々しく赤く腫れていた。  突然の出来事に唖然として言葉を無くしていた陽希たちだったが、突如現れた人影に視線を向けると驚きで震える声で彼を呼んだ。 「……青島くん?」  どうしてここに――と、そこまでは声にならなかった。  振り下ろした姿勢のまま腕をだらりと垂らして荒く息をしていた青島は、陽希に呼ばれるとゆっくりと顔を上げた。  ミルクティーのような淡い髪の隙間から見えた彼の顔色は、陽希なんかよりもよっぽど白い。そして、恐怖と安堵を混ぜたような眼で陽希を見つめていた。
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