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02
帰りの車内は、ひどく静かだった。父の運転する車で、都会の高い建物といくつも車線のある広い道路をつきすすむ。
陽希は一人後部座席に座り、なにを見でもなく窓の向こうに眼をやっていた。
申し訳程度に点けられたテレビの中で、芸能人たちが笑っている。
陽希たち三人の静かで居心地の悪い空気と違って、テレビの中は、明るくてたくさんの人が居て、随分楽しそうに見えた。
(年々、空気が重苦しくなってる気がする……)
母の実家に赴くのは基本的に新年の挨拶のときだけだが、そのときの帰り道はいつもこんな感じで、父と母も、もちろん陽希も口を開かないし、テレビから知らない芸能人の声だけがずっと響いてる。
陽希が成長して両親の機微が分かるようになっているからか、それとも本当に関係が悪化しているのか。両親との三人の時間に、陽希はどんどん息苦しさを覚えるようになっていた。
――両親との会話が分からない。
それは普段から陽希を悩ませることの一つである。
なにを話せば良いのか。どういうふうに言葉をかければいいのか。陽希はなにも分からない。
(家族と会話できないなんて、きっとおかしいんだろうな)
父は穏やかな優しい人だけれど、仕事が忙しくてあまり家にはいない。必然的に陽希は、母と二人で過ごす時間が多くなるが、ある程度の年齢になってからは、部屋に籠もってばかりだから実質一人で過ごしていた。
母はあまり表情の変わらない人だ。だが、冷たい、というわけではない。
分かりづらいが、手伝いをしたときや成績が良かったときなど、わずかに顔を緩めて褒めてくれたことはある。
手伝いをした幼い陽希の頭を撫でて、「ありがとう」と言ってくれた。けれど、母は陽希に触れる直前、なぜか迷うように一瞬だけ手を止めるのだ。
言葉と共に向けられる笑みだって、感謝だけじゃなく、どことなく戸惑いを感じるものだ。
(お母さんは、俺のことが好きじゃないの?)
何度、そう問いかけようとしただろうか。気づけばその問いかけは、常に陽希の頭を占めるようになっていた。
だが、頷かれたときのことを想像すると、怖くて身が竦んで一度だって言えた試しはない。
日常生活で道行く仲の良い親子を見る度に、幼稚園で無邪気に母に駆け寄るクラスメイトを見る度に、どうしてと疑問ばかりが陽希の胸に積もっていった。
どうして、自分の母だけ違うのだろうか――と。
きっと、赤い糸を意識し始めたのもその頃だ。気づいたときには視界にあったその「赤」は、運命の相手同士を繋ぐものだと、五歳の時に絵本で知った。
十七歳になった今でも覚えている。ある国のお姫様が、赤い糸で繋がった隣国の王子様と結婚して幸せになるお話。
最後のページは、お姫様と王子様が微笑み合って幸せそうにしている姿だった。二人の手はお互いに重なり合っていて、そこから伸びた赤い糸が、ハートの形を描くように垂れていた。
そのときから陽希の中で赤い糸とは、幸せな恋人や夫婦の愛の証になった。
不意に陽希は、運転席と助手席に座る両親の手元に眼をやる。
二人の糸は、お互いには向いていない。二人とも、ここじゃないどこかに向かって伸びていた。
なにも赤い糸が繋がっていないのは、陽希の両親だけではない。
今日、あの煌びやかな会場で会った祖父母も、叔父夫婦も、赤い糸で繋がっている人はいない。恵里とその相手以外は、みんな運命の相手じゃないのだ。
運命の――本物の愛じゃないから、きっと祖父母は母にあんな態度を取ることが出来る。だって愛のある相手との子どもじゃないのだから。そして、自らの両親から愛をもらえなかった母が、誰かを愛するのは難しいことだと、陽希は思っていた。
愛のない場所から生まれた子どもに、愛を持つことは出来ない。
――母も、そして陽希自身もきっとそうだ。
だから陽希が両親から愛情をもらえないのはしょうがないことなのだ。陽希が誰かを愛せないのも、愛してもらえないのも、全部、どうしようもないことだ。
後部座席で一人淋しく座る陽希は、窓も開いていないのに寒さを覚え、膝の上で両手をすり合わせた。そこから伸びる赤い糸が眼にとまり、我知らずその糸を追いかけてしまう。糸は暗い車内から飛び出し、日の暮れ始めた空の下、まっすぐに伸びていた。
小さい頃から陽希にとって、「しょうがない」は魔法の呪文だった。心がスッと軽くなる、そんなおまじない。
けれど今の陽希は、そんなおまじないを唱えなくても、この赤い糸の先を眼で追うだけで、俯きがちだった顔が上がり、気持ちが上を向いた。
窓の向こう――薄い青空に橙が混ざって、狭間に一瞬だけ夜が見えた。
窓硝子を一枚隔てた夜の風に、頬を撫でられた気がした。
その夜風はこの車内の空気を気まずく思う心も、胸に過った刹那の淋しさも息苦しさも、一緒に流していってくれた。
(仮初めの糸なのに、繋がってるだけで心臓がドキドキする)
陽希の中に、愛は存在しない。だから神さまは、陽希に愛し愛される相手など、用意してはくれなかった。
ほんの一日前まで、左手から数センチ伸びたところでプツンと途切れていた陽希の赤い糸。
どこにも行けず、宙をひらひら舞っていたその赤い糸は、今はビルの向こうに消えていった。
その先には、ある一人の青年がいる。同じ高校で、でも話なんてしたことのない人。女子生徒の注目の的で、教室でひっそり暮らす陽希とは正反対の生徒。
月に一度や二度の告白を受けるのは当たり前。しかし、誰の言葉も受け取ったことはない、そんな孤高の男の子――青島。
友達がいない陽希にだって、噂話が届くほどには有名だった。いや、青島のことに関しては、陽希が自分から聞き耳を立てているということもあるかもしれない。
(だって、青島くんも同じだったから……)
人気者で女子生徒から熱い視線を向けられる青島だけれど、彼の赤い糸も陽希と同じく、昨日まで誰にも繋がっていなくて、迷子のように宙を舞っていた。
それが今は、こうして陽希と繋がっている。
そこまで考え、窓硝子に映った陽希は自嘲するような笑みを浮かべた。
(まあ、青島くんは俺と繋がってるなんて知らないだろうけど……)
だって、本来二人の赤い糸は繋がっていないはずのものなのだ。これは陽希が繋げてしまった、偽物の糸なのだから。
そうして陽希は夕暮れが少しずつ夜に浸食されていく景色に昨日のことを思い返した。遠くで消えかけているような温かな夕焼けの中、自分の犯してしまった罪を。
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