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03
五月も半ばに入り、木々たちはいっそう緑を深くして鮮やかになる季節。中間試験も終えて、生徒たちの雰囲気はどこか緩んだものを感じさせた。
先月まではジャケットを着てちょうどいいぐらいの涼しさだったのに、今じゃ長袖シャツ一枚が快適な気温になってしまった。もうあと一、二週間もすれば、それすら暑いと思うようになるのだろう。
放課後の教室から出てゴミ捨てに向かいながら、陽希はぼんやりと夏の気配を感じていた。
試験が終わって最初の土日が控えているからか、生徒たちの足取りはいつも以上に軽く感じた。
だが、陽希からすると明日の土曜日には親戚間でのパーティーが控えていて憂鬱だ。いっそ休日を飛び越えて月曜日になればいいのに……。そんな馬鹿げたことだって考えてしまう。
陽希たち二年生の教室がある東棟の三階から下り、一階の渡り廊下を進んで西棟に移った。そして、廊下の隅にある非常口用のドアから外に出るとゴミ捨て場だ。
目と鼻の先の距離なので、外に出るといっても、わざわざ昇降口で靴に履き替えてくる生徒はほぼいない。真面目だと自他問わず思われている陽希ですら、この数歩のために靴を履き替える気にはならない。
帰りのホームルーム後には、掃除の時間があてがわれているが、掃除箇所は自分たちの教室だけ。共用室などは事務員によって清掃が行われている。
クラス人数を大まかに四つにわけ、一週間ごとの交代制だ。
今週は陽希たちが掃除当番だった。四十人近くの人間が生活しているスペースでは、ゴミもそれなりに出る。購買やコンビニなどでお弁当を買う生徒も多いから、その分ゴミが溜まるのも早い。
一日に一回、必ずゴミ捨てに向かわなければならないので、掃除当番を面倒がる生徒もいる。けれど、陽希たちのグループでは、ゴミ捨ては陽希の役目になっているので、そういう声は聞こえてこない。
押しつけられたわけではない。陽希が自分から名乗り出たことだ。
最初のうちは他の生徒も、いつも任せっぱなしだから、と気をつかって自分が行くと言ってくれていたが、陽希が毎回「大丈夫だよ」と微笑んで返しているうちに、それが当たり前になって今じゃ変わろうとする人はいない。
毎度毎度みんなに声をかけるのも面倒だったので、そうしてくれたほうがありがたさもあった。
両手に持っていたゴミ袋をそれぞれ指定された位置に置き、陽希はふうと軽く息をついた。
体を反転し、陽希が帰ろうとしたときのことだ。
「――ッ!」
背後から声が届き、陽希は咄嗟に声のほうを振り向いた。
(文化部棟のほう……?)
陽希が出てきた西棟の隣には、文化部棟があり、ゴミ捨て場はちょうど二つの建物の間に位置していた。
聞こえた声が必死な様子だったので、陽希はなにかあったのかな、と心配になって足を向けた。トラブルだったら、教師を呼んだほうがいいかもしれないと思ったのだ。
声は建物を通り過ぎた奥からしているようだ。文化部棟の外壁沿いに歩き、角を曲がろうとした瞬間、それは陽希の耳に突き刺さった。
「好きです」
反射的に足が止まる。建物の陰から一歩踏み出す直前のことだ。
好きです? 好きですって……まさか告白?
女子生徒のその言葉で、陽希はそこでなにが行われているのか察した。踏み出そうとした足をそろそろと戻し、そのまま校舎の外壁に背中を預けてずるずるとしゃがみこむ。
(ど、どどうしよう……)
焦りつつも、陽希は自分の気配を消そうと努めた。一瞬たりとも音を立ててはいけないと、体を緊張が包んだ。
女子生徒の声はさほど大きいものではなかったが、静かな校舎裏ではよく聞こえた。もし、自分がここで音を立てれば、きっとすぐに気づかれてしまうだろう。
一歩でも動いたら自分の存在がバレる。そんな緊張感に陽希はごくりと息を呑んだ。
しかし、その音さえ向こうに聞こえるんじゃないかとついつい肩が丸まって小さくなった。意味はないと分かっているが、両手で口を覆ってしまう。
静かに。静かに――。
そう心の中で唱えつつ、一方でどこか感嘆とした思いもあった。
(そっか……告白かあ。だから人のいないこの時間に……)
チラリと腕時計を見た。まだ掃除の時間内だ。しかし、そう経たずに部活生がこの校舎にやって来るだろう。むしろ掃除当番じゃない生徒は、すでに来ていたっておかしくはない。
現に陽希は、ゴミ捨てに来てこの現場に出くわしている。そう思うと、誰か来てしまわないかと心配になって、チラリと隣の西棟に眼を向けた。
廊下沿いには大きな窓が並ぶので、ここからでも人影は確認できる。今のところ、こちらに来る生徒はいなさそうだ。
よかったあ。と、陽希は当事者でもないのにほっと肩を落とした。
(……って、なんで俺がこんなにハラハラしてるんだろ)
いつまでここで丸まっていればいいのかな――。不安になるが、まだ女子生徒の声は細々と続いている。
一年生の時に同じクラスで、さりげなく荷物を持ってくれたり、委員会の仕事の時に手を貸してくれたことがきっかけで好きになったらしい。緊張で上擦った声の彼女は、途切れながらも懸命に伝えようとしている。
図らずも聞こえてしまった言葉たちに、陽希は膝を抱え込んで頭をうずめた。
すごいな。きっとすっごく怖い思いをしているんだろうな。
しんみりと、陽希はそう思った。彼女を称える言葉が浮かぶと同時に、切なくもあった。愛のない自分では味わえない感覚だと理解しているけれど、胸がきゅうっと締め付けられるような淡い羨望と尊敬が入り混じる。
それに気づかない振りをして、陽希は内心で呟いた。
(頑張れ。頑張れ……)
届くといいね。顔も知らない彼女に向けて、そう鼓舞した。
静かな校舎裏のそばに植えられた常緑樹が風にそよいで、葉っぱたちがささやく。そこに、女子生徒の想いが載せられて陽希のところまで聞こえてくる。
(聞いたりしちゃ、ダメだよね……)
本当は耳を塞がないといけない。だって、この想いは、彼女が向けているその人に届けるために紡がれているから。それは分かっているけれど、陽希はその声を防ぐことが出来なかった。
……この女子生徒は、両親に愛されて産まれて来たんだろうな。
無意識のうちに陽希の胸に、じわりと嫉妬に近い感情が広がった。
愛されて産まれてきた子には、この世界に誕生したときから両親の愛が小さな体に詰め込まれている。体中に満たされた愛は、やがてその子が大きくなったとき、誰かに分け与える愛になるだろう。愛されることを知っていれば、きっと愛することも知っている。
きっと今の彼女のように――。
愛を伝えることは、自分を剥き出しにして差し出すようなものだ、と陽希は思う。こんなふうにあなたを愛しています――それは、自分の愛し方を伝えるということだから。その人の愛し方は、その人自身が今まで受けてきた愛され方と鏡になっていて、つまり自分自身の根幹に関わる部分をさらけ出していることになる。
愛し方も愛され方も知らない陽希には、遠い世界の話だった。
(だから、他人がどんなふうに人を愛しているのか、知ってみたい……ってこの子にとっては関係ない、俺の勝手な言い分だよね)
夜の空を見上げて、月に手を伸ばしたくなるような感覚に似ている気がした。届かないと分かってるのに、つい腕を伸ばしてしまうような気持ち。
ごめんなさい。心の内で女子生徒に謝罪した。
関係のない俺なんかが、あなたの心の声を聞いてしまって。
辿々しくも、懸命に自分の気持ちを伝える彼女の言葉に、閉じていた瞼の奥が熱くなった。
(ああ、やだな……なんでこんなに苦しいんだろう)
とっくに割りきった思いのはずなのにな……。陽希の心の内で、どんどん羨望と嫉妬が大きくなる気がした。
そうしているうちに彼女の言葉に勢いがのり、彼女は最後だとばかりにヤケのように叫んだ。
「ずっと、青島くんのこと好きで……も、もしよかったら、わたしと付き合ってくれませんか!」
(青島くん……?)
ふと、聞き覚えのある名前に陽希は自然と顔を上げていた。
青島くん……て、あの青島くん?
そろりと身を乗り出してしまう。それまで必死に隠れていたのに、思わず体が動いてしまうほど、その名前は陽希の中で大きなものだった。
校舎の角から顔を覗かせた先には、向かい合った男女の姿が見え、告白を受けている男子生徒の姿に陽希は息を呑んだ。
(やっぱり、青島くんだ)
特徴的な薄い色素の茶髪。彼は緩んだネクタイと何個かボタンの開けたシャツの胸元――という、第一ボタンまでぴっちりとしめた優等生然な陽希とは正反対な装いだ。
しかし、青島は着崩した制服でもだらけた印象はなく、どこか綺麗にまとまって見えるのは、彼の相貌が涼しげな印象を持たせ、ひどく整っているからだろう。
なにもせずとも穏やかに見える陽希とは対照的に、彼は周囲が近寄りがたく思うような冷ややかな美しさがあった。
男臭さのない綺麗な顔立ちだが、身長は陽希よりも高い。多分、百八十は越えているだろう。運動部に入っているという話は聞いたことがないが、ほどよく厚みのある体をしていて、そういったギャップも女子にウケる要因の一つなのかもしれない。
こうしてまじまじと見返してみると、入学時から女子の間でよく話題に上がるのも納得だ。
陽に透けて輝く薄茶の髪を眺めているうちに、陽希は不意に彼のことを「ミルクティーみたいで可愛い」と言っていた、同じクラスの女子生徒の言葉を思い出した。
上級生、下級生問わず人気者で、誰々が青島に告白した――なんて噂話は結構な頻度で駆け巡る。だが、青島がその申し出を受けたことはなかった。
入学から一年も経てば、それは女子生徒の間に随分と広まっており、思い出作りにと望み薄で想いを告げる子もいるらしい。
陽希は、くるりと内側を向いたボブヘアの可愛らしい印象の女の子を見た。全て言い切った、と口を引き結び、どこか期待をにじませた瞳で青島を見上げている女子生徒だ。
(でも、彼女は違うんだろうな)
緊張と不安と、でもどこかで受け入れてもらえると思ってるような期待が見えた。それだけ自分に自信があるのだろうか。
もしかしたら青島と仲が良くて、いわゆる脈アリだと思っているのかもしれない。
残念ながら陽希は、この二年間はクラスが違うし、これといった接点もなかった。それでも彼のことを知っているのは、有名人で色々と噂が聞こえてくるというのもあったが、一番は別の理由があった。
陽希は青島がなんて答えるのかと息を殺して耳をすませた。
熱心な女子生徒の視線など歯牙にもかけない様子で、青島の瞳は俯き、ある一点を注視している。
あれだけ熱のある視線を送られているのに、青島の周囲にだけ、冷気が発せられているようなそんな空気を感じてしまう。彼はいつだって感情を表に大きくは出さない。
緊張のせいか、胸の前で両手を結んだ女子生徒。青島は彼女の手元に眼を向けていた。そうしてゆっくりと両手から瞳が逸れて横に流れる。それは女子生徒から眼を背ける――というよりは、なにかを追うような意味のある動きに見えた。
その意味を、陽希だけは理解出来た。
女子生徒の左手の小指からはうっすらと光を纏った赤い糸が伸びていた。
その糸は誰にでも見えるわけでもない。陽希と青島だけが見える、その人の運命を示した糸だ。
女子生徒の赤い糸は地面の上を真っ直ぐに伸びていき、植込みの向こうに見えなくなる。
それを追いかけた青島の肩から、力が抜けたように見えた。
(……やっぱり、安心してる?)
以前にも一度、青島の告白現場に遭遇したことがある。そのときは遠目にだったが、相手の女子生徒の赤い糸が自分じゃない誰かに繋がっていることを確認すると、どこか安心していたように見えたのだ。
今回のことで、それは確信に近くなった。
でも、なぜなのかまでは分からない。
(告白してくれてる子に、運命の相手が別にいて喜ぶってどういうことだろう……)
陽希と同じように、見える範囲まで糸を追った末、青島はもう一度眼の前の女子生徒に視線を戻し、感情の読めない表情で口を開いた。
「……誰とも付き合うつもりないんだ。ごめん」
静かな声でたった一言、そう告げた。女子生徒の双眸に、一瞬だけ傷ついたような動揺が見えたが、彼女はすぐに「そっか」と笑った。無理をしていると分かる笑顔だ。
「ごめんね。時間取ってもらったのに……」
「いや。別に」
素っ気ない言葉に、さすがにあれだけ一心に青島を見ていた女子生徒も、悲しみを堪えるように大きな丸い瞳を彷徨わせ、そうして声を上擦らせながら、
「それじゃあ、私戻るね。話、聞いてくれてありがとう……!」
と、少しでも早くここから逃げたいとばかりに駆け足で去って行った。
彼女の動きと共に、あの赤い糸も一緒に揺れて遠ざかる。陽希は頭を引っ込めて再びを外壁にもたれかかった。
青島が答えるまでの間、ずっとバクバクと激しく鼓動していた心臓を鎮めるために、細く長く息を吐いた。
コツリと硬い校舎の外壁に後頭部を押し当て、陽希は青空を見上げた。左手を頭上にかざすと、その小指には彼女のように赤い糸が存在している――が、陽希の糸は指一本分ほどの長さのところでプツンと途切れてしまっていた。
宙を揺蕩う自分の赤い糸に、落胆と諦念の入り交じったため息をついた。
何度も思い知って散々諦めてきたくせに、咄嗟に落ち込んでしまう自分のしぶとさに、陽希の口角がいびつに上がる。
「……帰ろう」
小さく独りごちるように言い、陽希が腰を浮かしかけた。その瞬間――。
「おい、のぞき魔」
ふいに低い声が降ってきた。
ドキリとして身を固くした陽希は、反射的に振り仰いで唖然とした。そこには、さっきまで女子生徒から愛を差し出されていた青島が、校舎に寄りかかるようにして陽希を見下ろしていたのだ。
うんざりしたような表情も気だるげな仕草も、彼にはその魅力を引き出す要素にしかないらないらしい。
「あ、青島くん……」
真っ青になって陽希は喘ぐように名前を呼んだ。二人の視線がかち合い、青島は陽希を認めてゆっくりと瞬きをすると、驚くようにわずかに眼を瞠った。
「お前は……」
と、小さく口をついた彼の言葉を陽希は聞き逃した。
いや、青島がすぐに皮肉るように嗤って言うから、白昼夢でもみたと思って気にしなかったのだ。
「なんだ六組の委員長じゃないか。真面目な顔してこそこそと覗きなんていい趣味してるな」
「ち、ちがっ!」
ひどい誤解だ。陽希はあたふたと弁明の声を上げた。
「これはわざとじゃなくて……動いたら気づかれちゃうと思って!」
せっかく女子生徒が勇気を振り絞っているところに、水を差したくなかっただけなのだ。
でも、青島が気づいたということは、あの女子生徒も陽希の存在に気づいていたのだろうか。
その考えに行き着き、陽希の頭から血の気が引いた。
(どうしよう。あの子の気持ちに泥をつけるようなことを……)
きらきらと輝く宝物を、汚い素手で無遠慮に触れてしまったような罪悪感に打ちのめされる。
やっぱりリスクを冒してでも、すぐに立ち去るべきだっただろうか、と陽希は顔を青白くさせて悔やんだ。
「……あっちは気づいてねえよ。気づいてたのはおれだけ」
女子生徒の立ち去った方角に親指を向け、青島はそう言った。
まるでこちらの心でも読んだようなタイミングだったから、陽希は狼狽える自分に憐れんで教えてくれたように思えた。もしかしたら、本当のことは青島だって知らなくて、慰めるために言ってくれたのかも――。
そんなありえない考えをしてしまうほど、陽希はその言葉で安堵した。
ああ、よかった。あの子は気づいてないんだ。
ほっと胸を撫で下ろす陽希を、青島はやはり感情の読めない凪いだ眼で見ろしていた。ただ、どことなく彼も安心したように眼の奥が温かくなった気もする。
「とにかく、俺は別にお前がのぞき魔だろうがなんだろうがどうでもいい。でも、言いふらすようなことはすんなよ」
「そんなことするわけないじゃないか! あの子の気持ちを踏みにじるようなことはしないよ!」
盗み聞きした手前偉そうに言えることではないが、あの感情の吐露は、当事者間でのみ交わすことを許された神聖なものだ。他者がそれを面白半分で語っていいわけがない。
そんな愉快犯に見えていたことに憤りを感じもしたが、青島と陽希は同じクラスになったこともなければ、話をしたことだってない。全く知らない相手だ。そう見えても不思議じゃない……と思い直し、そこでようやく陽希は、さきほど青島に自身が認識されていたことに気づいた。
そうだ。六組の委員長だって俺のこと言った。
「俺のこと知ってたんだ……」
「まあ、集会の時とか学級委員は前に集まってたりすんだろ。さすがに顔ぐらい見たことある」
なんだ、とわずかに膨らんでいた期待がしぼんでいく。
人気者の青島が陽希のことなんて知るはずがないよな。まさか、自分みたいに前から気になっていたんじゃないか、なんて、烏滸がましいにもほどがある。
自分たちには共通点があるから、なおさらに勘違いしてしまった。
青島だって気味悪く思ったのか、随分と早口だったじゃないか。
落ち込んだ陽希が黙っている間に、青島は緩慢な動作で寄りかかった外壁から身を起こして背中を向けた。
「じゃあそういうことだから。また話が漏れてあれこれ訊かれるのも面倒だから、頼むぞ」
「……言わないよ。あれはきみとあの子だけが知っていていいものだもの」
自分のことを棚に上げてそう呟く陽希だが、青島は肩越しに振り向いて一瞥しただけだ。
「あっそ。別に理由なんて興味ない」
どうでもいい。そう言わんばかりに手が振られた。そうして今度こそ去って行ってしまう。
遠くなる彼の姿に赤い糸が揺れているのが見え、陽希はついじっと眺めてしまう。
そのうち青島は校舎の角を曲がって見えなくなった。すると、ちょうどよく清掃時間の終了のチャイムが鳴る。
ハッと我に返った陽希は、慌てて早歩きで教室へと戻った。掃除を終えた生徒たちが続々と廊下に出てくるなか、隙間を縫うように進みつつも、陽希の頭からは青島のことが離れなかった。
女子生徒の赤い糸を追う静かな瞳。陽希と同じ、赤い糸が見える存在。そして――。
陽希と同じように、赤い糸が誰にも繋がっていない――そんな一人ぼっちな人間。
(きみも、愛を持てない人なの……?)
だから、誰の想いも受け取らないの?
意識の中に残る遠ざかる背中に向けて問いかけそうになり、いけないと陽希はぶんぶんと首を振って頭から追い出した。そんなことをしても、彼の姿を見る度に同じことを思ってしまうと分かっているくせに。
去年、不意に気づいた自分と同じ存在に、陽希は何度も同じ問いを投げかけたくなったが、言えた試しはない。
だって、そんなことを真正面から問いかけられるわけがない。
(でも、一人ぼっちだなんて言っても、青島くんは俺と違って友達もいるし、全然同じじゃないよな……)
しかも、何人もの女子生徒から好意を寄せられるような、魅力のある人なんだし……。
廊下を歩きながら、陽希はそんなことを思って人知れず落ち込んだ。ふと眼についた五組の教室札に、陽希は行き過ぎながら横目に中を見渡した。昨年――一年生のときも、青島は五組で、陽希は隣の六組だった。
室内には掃除当番と見られる数人だけで、その中に青島はいなかった。
当然か。掃除の時間に抜け出してあそこにいたんだし、教室に戻ってきてるわけがない。
あのまま帰ったのだろうか?
そんな疑問を浮かべながら、陽希は自分の所属する六組にドアを抜けた。
すでに机などは綺麗に整列されていて、手持ち無沙汰な生徒たちは、女子と男子に分かれて各々雑談を繰り広げていた。
「あ、委員長ゴミ捨てお疲れ~!」
一人の女子生徒が陽希に気がつき、手を上げて笑う。それによって周りの生徒も軽い調子でお礼を述べた。
「遅くなっちゃってごめんね」
掃除は、班員が集まり最後に担当教員と共に終了の号令をかけなければ帰宅できない。告白に気を取られて、そんなことをすっかり忘れていた陽希は、焦ってみんなのいる教室前方に駆け寄った。
「そんなに待ってないし全然大丈夫だよ」
「それじゃあ、稲葉も帰ってきたし、これで終わるか」
担任の言葉に、自然と班員たちは一列に並ぶ。陽希の掃除班は、男子は陽希を含めた五名と女子四名で編成されているが、ここに並ぶのは男女ともに四名ずつ。いない一人は、いつも掃除の時間だけ欠席だった。
号令、と担任が声をあげると、係の者が「気をつけ、礼」とお決まりの言葉を言う。
それを終えれば、バラバラと生徒たちは部活や帰路についた。陽希は部活には所属していないので、放課後はある程度、図書室で時間を潰してから帰宅するのが習慣だ。
「あ、稲葉~」
スクールバッグ片手に帰ろうとしたところで、背後から担任の太田に呼び止められた。返事をして振り返れば、太田は教卓の上に積まれたノートの山をポンと片手で叩いてみせる。
「ちょっと準備室に寄ってから帰らなくちゃいけないんだ。これ、職員室の俺の机に運んどいてくれ」
クラスメイト四十人分のノートの山は、それなりに高さがある。重さだってほどほどにあるだろう。
それでも陽希は嫌な顔一つせずに「わかりました」とにこやかに請け負った。断わられることなど想定しなかったのか、太田は「よろしくな」と当然のようにへらりと笑って教室を出て行った。
痩身の太田にはいささか合っていない大きなサイズのジャケットが、開けっぱなしの窓から入る風を受けてパタパタと揺れた。
太田は四十近い男性教諭だが、名前とは裏腹に、頬は痩け、ひょろりとした体型の小柄な人物だった。フレームの厚い黒縁眼鏡をかけているのも、そのイメージを助長させている。
見た目のように気が小さく、目立ったグループにいる生徒にはおどおどした態度で接するし、明らかに問題児と分かる生徒には、出来るだけ関わらないように過ごしている。
いつも掃除をサボって帰ってしまう陽希の班員の男子生徒にだって、太田は一度も声をかけたことがない。彼は授業もよく寝こけているし、制服だってシャツは全開で、その下からはいつも派手な柄のTシャツが見えている明らかな違反生徒であっても、だ。
その反面、物静かで大人しい生徒には横柄な態度を取るので、生徒たちにはあまり好かれていない。
他のクラスメイトも帰ってしまった教室で、陽希は自席に鞄を置いてため息をついた。さすがにあのノートを持って、バランスを保ちながら鞄を抱えていくのは、難しく思えたのだ。
(一回職員室に行って……そのあと鞄を取りに戻ろう)
幸い職員室は一つ下の階なので、大した距離ではない。
ノートがばらけないよう、十分に注意をはらって腕に抱え、陽希はよたとたした足取りで廊下に出た。
青島やクラスの生徒が呼ぶように、陽希は六組の学級委員を務めている。そのためか、担任の太田はクラス内の細々した雑用もそうだが、わざわざ自分の担当する数学の授業時も、数学係ではなく陽希に頼むことが多い。多分、クラスのことと授業のこととで、人を分けて頼むのが面倒なのだろう。
人一倍仕事を押しつけられていても、陽希に不満はなかった。
この状況は、陽希自身が望んでいることでもあるからだ。
人と言うのは倣うもので、太田が陽希に頼み事をすれば、他の生徒も話を持ちかけやすくなる。宿題を忘れたという生徒にノートを見せたこともあれば、日直や掃除の当番を変わったこともある。
一つ一つは小さなことで、クラスメイトも過度に陽希に要求をしてくることもないため、負担だと思ったことはない。むしろ、頼み事を承れば、「ありがとう」とほっと安心したような顔で笑ってくれるので、むしろ楽しさすらあった。
――ありがとう。助かったよ。
その言葉は、陽希の心に木漏れ日をさすように染みわたってくれる。
困った顔で請われ、陽希がそれを受ければ、相手は笑顔で感謝を告げてくれる。ほんの少しのやりとりだが、その刹那、陽希の心はぽっと火が灯ったように温かくなるのだ。
自分の存在を許してもらえたような気持ちになって、肩の荷が下りたように軽やかになれる。
(頼ってもらえると、その一瞬だけ、そこに愛が生まれてるように思えるんだよね……)
刹那的な愛のやり取りは、陽希の中に愛がないという現実から、その時だけは解放してくれた。
ありがとうのたった一言。その一瞬だけ、相手が心を陽希に向けてくれている気がする。
そんなささやかすぎるやり取りが、陽希の息を繋いでくれている。逆に、それさえなくなってしまえば、陽希はきっと寂しくて生きていけないだろう。
ふと窓から外を眺めれば、ちょうど真下にある昇降口から、続々と生徒たちが出てくる。
部活に向かうだろう集団と、帰宅するために校門のほうに向かう者たちなど――それぞれだ。
ガラス越しにも分かるほどの賑やかな喧噪に、ふいに陽希の胸に切ない淋しさがこみ上げた。
振り切るように外から眼をそらし、見知ったクラスメイトの名の書かれたノートの表紙を見つめてなにも考えないようにして歩き出す。
職員室の扉を開けるのに少し手間取ったが、なんとか無事に太田の机まで行き着き、ノートの山を置いて一息。
周囲の先生に頭を下げつつ退室すると、その頃にはもう校舎内に残っている生徒なんてほとんどいなかった。
すっかり静かになった校舎の中はどこか別の世界のように感じた。
自分の上履きのゴムが擦れる音が、かすかに聞こえる。階段を上り終えて俯いていた視界をあげれば、通りがかった五組の教室に、人影が残っていることに気づく。
(誰だろう……寝てる、のかな?)
机に突っ伏すように顔をうずめている男子生徒が一人、教室にいた。差し込む夕日が強く照っていて、彼は影になっていて詳しい様子は分からない。
けれど、もしかして寝過ごしてしまったのだろうか、と心配になった陽希は、そろりとその教室に足を向けた。
普段、他クラスに足を踏み入れることはないので、最初の一歩は少し躊躇ってしまった。
誰も見ていないと分かってるのに、体を小さくしてそろそろと近づき、その男子生徒の肩を叩こうとしたところで、ふいに陽希は気づいた。
(青島くん……!)
ほんの少し前、校舎裏で初めて言葉を交わした彼がいた。
腕に隠れているが、微かに覗ける顔つきは寝ているせいかさっきよりも柔らかく見える。感情の薄い瞳は、今はしっかりと閉じられて寝息を立てていた。
(あのあと、教室に戻ってきたんだ……)
だとしたら、なにか用があってここにいるのだろうか……?
ただ寝転けているわけじゃなくて、誰かと待ち合わせでもしているのかも。
色々と推測がつくが、万が一寝過ごしたときのことも考えて、声をかけるべきだろうか。だってこのまま寝過ごしたら彼だって困るだろう。
どうしたらいいか迷ってしまい、伸ばした手を中途半端な位置で止めて陽希は眼をうろつかせた。
そのとき、ちょうど机から投げ出された青島の左手が眼に入る。傾き始めた陽差しは色を濃くし始めていて、その赤い糸の淡い輝きを、より鮮やかに見せていた。
どうしてだろうか。心臓が緊張したときのようにバクバクと音を速くしていった。
「ありがとう」というたった一言のささやかな一瞬の愛情。陽希はそれを求め、それに縋って生活しているし、その現状を受け入れている。
だが一方で、諦めきれない心が思ってしまうのだ。
もしそんな儚いつながりじゃなくて、眼に見えるはっきりとした形で、自分とつながる愛が見えたなら――。
けれど、愛のない陽希が返せもしないのに相手から向けられることを望むなんて、ひどく傲慢なことだ。
どうしたって自分の糸の先に誰かが存在することはない。そうやって途切れた糸を見下ろしては諦めてきた。
(……しょうがない、しょうがない)
心が軽くなる、陽希にとっての魔法の呪文。きっと今の逸る鼓動も鎮めてくれる。そのはずなのに今日の陽希はおかしい。
いくら心の中で唱えたって、青島の赤い糸から眼が逸らせない。頭に浮かんだ一つの考えが、消えないどころかどんどん頭の中を侵食していく。
諦めることには慣れているのに、眼の前にある一つの可能性から意識が外せなかった。
ここには途切れた糸が二つある。もし、この糸を一本にすることが出来たなら――。
自分の中で答えが出る前に、我知らず手が伸びていた。指先で撫でるように青島の糸の先端に触れ、そっと指先で摘まんでみた。そろりと怯えつつも手前に引いてみれば、赤い糸はまるで生き物のようにひゅるりと伸びて、陽希の手元までやってくる。
バクバクと心臓がさらに大きく鼓動し始めた。止めろと警告しているのか、それともこの先のことを想像して高揚しているのか。それは陽希自身でも分からない。
交差するように互いの糸を触れ合わせ、そのまま蝶々結びの要領で結んでみせる。赤い糸で完成したリボンを前に、そこでようやく陽希は我に返った。
(俺ってばなにしてんだよ……!)
慌てて糸を解こうと血相変えて指で触れた瞬間。
さっきは陽希の手で素直に従っていた糸が、なぜか逃げるように糸が揺れた。そうして瞬きを一つした束の間、なんと赤い糸は結び目もなにもかもが綺麗に消えて、一本の糸になってしまった。
「え、うっ、うそ……」
陽希から、一気に血の気が引いていく。咄嗟に左手を顔の前にかざす。そこから流れる赤い糸は、投げ出された青島の左手に繋がっていて、最初からそうであったようにまっさらな一本の糸として存在していた。
「ど、どうしよう」
大変なことをしてしまった。事の重大さに目眩がして、泣きそうな細い声が漏れた。
すると、陽希の声で青島がわずかに顔を歪めて身じろぎしたものだから、陽希は気づくと駆け出していた。
起きた青島の瞳が繋がった糸を捉えてどんな反応をするか。それがひどく恐ろしかったのだ。
急いで隣の自分のクラスに入り、席に置いたままだった鞄をひったくるように肩にかけて廊下に飛び出る。走りながら横目に五組を見たが、青島は寝返りをうつように顔の向きを変えてはいたが、はっきりと覚醒したわけではないようだった。
微かに安堵したものの、足は止められなかった。一刻も早く、学校から――青島の目の届く範囲から遠ざかりたかった。
人のいない放課後でよかった、と人知れず思う。
そうじゃなければ、陽希はきっと周囲の眼を気にして、廊下を走るなんてことは出来なかっただろうから。いや、そもそも人がいれば陽希が五組に入っていくこともなかっただろう。
学校から自宅まで徒歩で二十分はかかる。帰宅部で普段から引きこもって勉強か読書に費やしている陽希には、走って帰るには少しばかり長い距離だ。
そう経たないうちに荒く息が上がり、足が重たくなって体の感覚が鈍くなっていく。
それでも、不思議と気分は高揚としていた。振り乱れる左手からは、赤い糸が後方に向かって伸びている。腕の動きに合わせて激しく揺れるその赤を見ているだけで、自分はどこまでも駆けていけそうな気がしていた。
夢でだって見たことがない景色が、今の自分の手元にある。胸が震えるほど嬉しくて、陽希は家に帰って冷静になった頭で激しく後悔するまで、束の間の重祚感に酔いしれていた。
そうして陽希と青島の赤い糸は、陽希の軽率な行動によってつながってしまったのだ。
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