プロローグ

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プロローグ

前略、田舎のお父様  まさか次期社長のお披露目会で、このような辱めを受けるとは思いもしておりませんでした。  送りもしなければ、そもそもしたためもしない手紙の序文を考えられる程度には、夕顔(ゆうがお)の頭は冷めていた。いや、冷めていたのは心だろうか。この際どちらでもいい。なぜかといえば―― 「見ろ、瑠璃(るり)のこの姿を! お前みたいな地味女よりも瑠璃のほうが何倍も、何千倍も、何億万倍も愛くるしくて俺の許嫁にふさわしいだろう!」  自社の役員のみならず取引先の重鎮たちも列席させている今回のパーティーで次期社長として紹介された勅使河原(てしがわら)大雅(たいが)は、一人で登壇し、抱負を込めたスピーチを粛々と行うはずだったし、そうすべきだった。  しかし彼は期待を見事に裏切り、隣にひらひらしたミニドレスをまとったどこぞの女を連れて登壇したうえ、あまつさえその腰に手を回して、夕顔を指差しながら目一杯のドヤ顔で婚約破棄を叫んだのだ。ドン引きしすぎて静まり返った会場では誰も口を開かなかったが、誰もが思ったはずだ。「今その話題は求めていない」と。  現社長の勅使河原淳史(あつし)すらも予想外の事態に膝の上で握った拳を戦慄かせていたが、夕顔がその姿を見ることはなかった。壇上の婚約者への溜息をこらえるので精一杯だったからである。 (「億万」って単位は存在したかしら)  自身の振る舞いは家の評判に直結する。どれだけ無礼で不躾なことをされようが、夕顔がここで取り乱すわけにはいかない。必死で溜息を飲み込み、飲み下し、そして大雅の侮蔑の稚拙さに、胸中で呆れた。市松模様に桜と蝶のあしらわれた中振袖をまとった凛とした佇まいで、自身へ向けられる罵詈雑言を受け止める。橙の帯に差した扇子すら微動だにしなかった。  元々もち合わせていない恋心は冷めようがない。好感度はもとより氷点下、絶対零度を下回っている。だから大雅に女がいたところで傷つくわけもない。その程度で傷つくならこれまで何度胸を痛めなければならなかったことか。もちろん夕顔はただの一度とて涙を流したことはない。胸にちくりと棘が刺さったこともない。結婚してもこの人は愛人をどこそこに作り続けるのだろうな、と思いながら二十五年間も婚約者として振る舞ってきた。  もちろん大雅の派手な遊びを窘める人間もいたが、そうした良識人は大雅の手によってすぐに解雇されていった。どうせ周りの言うことなど聞きやしないのだから、こんな胃痛と頭痛の種にしかならない主の下で働き続ける苦行を強いられずに済んで良かったのではと夕顔が思っているくらいだ。本人たちもさぞ晴れ晴れした気持ちだったことだろう。  だから夕顔はとても冷静に、日本人形のように美しいと讃えられる顔を微塵も歪めることなく、このバカを後継に据えて勅使河原グループは大丈夫かしら、婚約が破談になってお父様にご迷惑はかからないかしら、と自分以外の将来を案じることができた。  ただ、大雅の隣からこちらを見下ろす女のいやらしい目つきは、常に凪いでいるはずの夕顔の心に細波(さざなみ)を立てた。
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