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「奥様とは、まだ話し合われていなかったのですね」
「それはどういう…?」
「まだ」と強調して言えば、田端は首を傾げた。そもそも不倫が絡んでいるのだから妻との話し合いなどできないだろう、と不可解な顔をしている。少しおもしろい。
「私は一度席を外したほうが良いかもしれませんね。失礼いたします」
席を立って扉を開ければ、田端の妻が立っていた。夕顔の突然の行動に驚いていた田端は、今度は聞き耳を立てていた妻へ驚く羽目になった。
「聞いていたのか…?」
顔が真っ青だ。
不倫が自らの口からバレるなんて当然嫌だろう。だから妻のいない時間帯を指定してきたのだろうに。
ただ夕顔は今日も和装。底の厚い草履を履いてきた。以前田端の妻と密談したときと同じものだ。それが玄関にあれば、田端と夕顔がいくら書斎にこもっていても来客が誰かくらい簡単にわかるだろう。
「まったく聞こえてないわよ、聞きたかったけど」
険悪なムードで言い合う夫婦の間から抜け出す。
「では田端様、奥様ときちんとお話し合いをされてから再度ご検討ください。ご決断されましたら湖条のほうへ伝えていただければと存じます。それでは、本日はここで失礼いたします」
後日また来ることになるか、これをきっかけに腹を決めてくれるかは不明だ。証言すらやめたいと言われるかもしれない。
だがそれでもかまわない。夕顔の件については他にも証人がいる。それに、夕顔の身の潔白だけなら日記やボイスレコーダーで証明できる。それなら彰の傷を浅くしてくれる人を増やしたい。彰よりも瑠璃の傷を目立たせてくれる人、瑠璃を傷つけてくれる人を増やしたい。
(さて、これが吉と出るかしら。凶と出るかしら)
田端と同じように選択に迷う人々へ彰の味方につくよう説得しながら、彰の動向にもアンテナを張る日々が続いた。後日彰が田端邸へ出向いたことで、田端が瑠璃について証言してくれるとわかった。
ただし田端夫妻を盗聴していたわけではなかったため、既に離婚が決まっていたという彰の言葉には少なからず衝撃を受けることになった。妻のほうはそれらしいことをほのめかしていたが、踏み切る決心もついていたとは。やはり母親は強いことを知った。
(お母様…の、形見…)
群青から水色へグラデーションのかかった留袖を思い出した。
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