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 週明けの出社は地獄だった。 「ほら、あの四天王寺さん。婚約だめになったって」 「っていうか婚約ってほんとだったんだ」 「相手の人、勅使河原グループの次期社長なんでしょ? すっごいイケメンの!」 「パーティーに別の女の人連れてきたらしいよ」 「それがまたかわいい人だったらしくてさ」 「確かに、四天王寺さんってさ…。美人なんだろうけど、純和風っていうか、日本人形みたいな」 「わかる! 男ウケするタイプじゃないよね! あのイケメンとはつり合わないっていうか」 「この間も独りでさ……」  行き交う人に廊下で延々と噂話をされていて、思わず陰に隠れた。表に戻るタイミングが見つからない。聞いているうちに、どうやら世論は「盗られて当たり前」に傾いているらしいと知った。  ただでさえコネ入社と噂されることが多く肩身の狭い思いをしてきたのに、どこから漏れたのか同僚にまで婚約破棄の話が断片的に知られているようだ。全部知られていないだけに、尾ひれ背びれ胸びれまで伴って噂ばかりが先行する。昨日の今日なのに、ゴシップは早い。  直接話しかけられるわけでもないから否定もできない。直接話しかけられたところで否定できる要素は今のところコネ入社ではないことくらいしかないが、特に夕顔は一人で行動することが多いだけにひそひそと一方的に言われるばかりで、噂をやわらげるよう庇ってくれる味方はいない。かといって「お一人様」と開き直れる度胸は、今の夕顔にはない。 (日本人形、ね…)  ようやくデスクへ辿り着けたのに、頭の中は来るまでに聞いてしまった悪口ばかりだった。  派手な外見でないのは仕方がない。腰まであるストレートな艶髪と、髪に負けないほど伸びた背筋が美しいとは言われるものの、メイクも控えめで服装も流行に乗れているとはお世辞でも言い難い。職場ではパンツスーツばかり着ている。先日大雅の隣にいた瑠璃とかいう女性とは真逆だ。フリフリヒラヒラで透けそうなミニ丈のスカートなど絶対に履かない。  一応良家の出である夕顔は、身だしなみから作法まできちんと叩き込まれている。あんなふわふわ可憐な女子ではなく、常に清廉な淑女たれと育てられた。自分への評価は家の評価へ直結するのだからと。 (あんな大胆なことはできないわね…)  昨日の大雅を思い出す。女連れで登壇、会とは無縁のスピーチ…と呼ぶにもお粗末な、夕顔を侮辱する言葉の数々。  決して軽率なことをしないよう、と思慮深さを求められるうち、目立つことができなくなった。大雅の言った「地味女」とはある意味正鵠を射ている。いずれは勅使河原家に入るのだからと家庭的な女性になるよう指導され、それゆえ婚約者の大雅に対しては一層淑女らしく接してきた。いくら外野からは「盗られて仕方ない」と思われようが、大雅から「俺の好みに合わせないのが悪い」と罵られようが、夕顔は良き妻になるべく教育され、努力してきた。  その努力を、踏みにじられた。 (あ…。少しだけ、ほんの少しだけど泣きそう…)  大勢の前で罵倒された昨日を思い出し、大雅への恋心など一切抱いていないのに涙が出そうになった。胸ポケットのボールペンを正し、スプレッドシートへ打ち込みを続けるフリをして少しうつむいた。 「四天王寺さん」 「はい、部長。なんでしょうか」  涙をこらえ、颯爽と見えるらしい体さばきで立ち上がって年配の部長のもとへ行く。夕顔の所属するエンジニアリング部の長崎部長は昨日のお披露目会にも招かれていたはずだ。  長崎は白髪の混じった後頭部をポリポリと搔きながら、別の手でファイルを差し出してきた。 「まあ、生きていればいろいろあると思うけど、気にしないで頑張りなよ」 「…はい。ありがとうございます」  新たな仕様書を受け取りながら、口先だけの礼を口先だけに見えぬよう丁寧に伝える。 (あなたがそういうことを堂々と言うから、噂が加速するのだけど)  パーティーにも出席していた上司から慰められるとは、噂話の真実味を増すことに他ならないと気づかないのだろうか。言ってやりたい気持ちを押し殺して自席へと戻る。その際にもこちらをちらちらと見遣って話している同僚が目に入って憂鬱になった。
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