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 昼休み、社食や休憩室には行きづらく、会社の前に停まっていた移動販売キッチンカーのサンドイッチで昼食を済ませようとしていた。 「夕ちゃん、今日はお弁当じゃないんだ。めずらしい」  萌え断と呼ばれるらしい綺麗な切り口の玉子サンドを手にベンチへ腰かけていると、現れたのは営業部の湖条(こじょう)(あきら)だった。やわらかく微笑まれる。この笑顔だけで随分と空気が明るくなった気がする。心も、少しだけ晴れたような。  彰とは幼馴染で、昔は夕顔の兄も交えて三人でよく遊んでいた。しかし今では挨拶を交わすだけの仲だ。別部署にいていつでも会えるというのに昔よりも疎遠気味になっているのは、すべて大雅のためだった。婚約者がいるのに他の男と親しくしてはいけない、という教育係の教えを忠実に守った結果でもある。  でも、もうそれも必要ないのか。 「彰くん、久しぶりね。今日は…。ここのサンドイッチ、おいしいから」  「作る気が起きなかった」と素直に言いそうになった。しかしそんなことを言えば、この心配性な幼馴染を無意味に心配させるだけだ。できるだけ自然なように繕った。  そんな夕顔の隣に、夕顔と同じ玉子サンドを持った彰が腰を下ろす。 「ここのサンドイッチは確かにおいしいけど、夕ちゃんの好みじゃないよね。どうしたの? っていうか、ごめん。さすがに噂で知ってる。破談になったって?」  申し訳なさそうに尋ねてきた幼馴染は、イケメンと名高い顔を悔しそうに歪めている。  そうか、男性の間でも噂になっているのか。それとも彼の取り巻きから聞いたのか。わからないが、どちらでもかまわない。なんにせよ食欲は失せた。口を付けていないサンドイッチを風呂敷でくるむ。 「そう。ご丁寧に、勅使河原グループの次期社長お披露目会でスピーチ代わりに喋ってくれたわ」 「え…。それ、関係各所に一瞬で知れ渡るやつでしょ。何言われたの? 大丈夫? じゃないよね。あの男、昔から夕ちゃんの扱い酷いもんね」  そう言われて思い出した。昔から大雅には遊び相手を捨てる言い訳に使われてばかりだった。修羅場に突然呼びつけられては「こいつが婚約者だからお前とは別れる」と盾にされ、怒ったその時々の彼女の呪詛や、ときに投げつけられた物まで代わりに浴びていた。  そうか、もうそんなこともしなくていいのか。 (捨ててくれてありがとう、とでも言いたい気分ね)  熨斗を付けて渡してやれなかったことは残念かもしれないが、悪縁が切れてくれて良かったと思っている。  なのに、この胸のモヤモヤはなんだろう。家のことが心配なのはそうだが、それとはまた違った理由な気がする。 「お父さんにはもう伝えた?」 「いいえ。…でも、近々書面で改めて連絡をくれるそうだから、伝わるのは時間の問題ね」  夕顔が籍を置いている四天王寺化学工業は、父の冬樹が代表取締役社長を務める四天王寺グループの末端、半導体生産に特化した部門だ。つまり父が社長を務める会社の子会社で働いていることになる。だからコネ入社を疑われてきた。実際は採用試験をクリアしているが、家族での勤務を優遇する制度もあるだけになんとも言えない。  また冬樹は地元の大地主でもある。だから家の評判を落とすとは、地元での評判を下げ、企業としての株を下げることだ。それゆえ夕顔は必要以上に家の評判を気にし、自身への評価を気にしてきた。  それがどうして、淑女として過ごしてきたにも関わらず婚約者――正確には元婚約者の軽率な行動で、これほど家に迷惑をかけてしまっている。 (お父様はどう思ったかしら?)  昨日は大雅の婚約者として招かれていたから、父は列席していなかった。しかしじきに郵送でも届くらしい婚約破棄の書面で知ることになるだろう。  父の反応が気になる。今は実家近くにある工場を監督しているから、いくら夕顔が本社勤務だとはいえ社内で会うことはない。夕顔が連絡せねば、父が書面より先に知ることはない。  しかし大雅との婚約は父が決めたものだ。勅使河原グループの現社長である淳史と懇意にしていた父が、二人が生まれたときに交わした約束だと聞いている。 (だからあんな人でも頑張ってきたのに…。親友との約束を娘が守れなかったと知ったら、お父様は怒るかしら?)  普段は温厚な父だが、経営に関しては厳しいところもある。それは経営者として普通だ。わかっている。そして今回の婚約には政略的な意味もあった。四天王寺グループも勅使河原グループも主に電子機器会社だが、四天王寺グループはメーカー寄りで、勅使河原グループはマーケティング寄りだ。それに勅使河原グループのほうが電子機器以外にも幅広い分野を手がけている。  だからこそ、連絡するのが怖い。普段温厚な父に事業拡大のチャンスを踏みにじったと責められたら…と思えばこそ、夕顔は連絡するのを躊躇っていた。
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