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 土曜日。喫茶店の窓側の席で彼を待つ。射し込む陽光が眩しい。空気中の埃が埃のくせに一丁前に煌めいた。一般の町カフェとは異なる格式高い店の午前には、夕顔以外に客の姿はない。姿勢を正したまま、手首に巻いた華奢な時計から窓の外へと視線を移した。  これがデートなら年相応に浮かれた予定なのだろうが、そういうわけではない。  月曜日さらりと告白してきた彰は、夕顔の手を握ったまま「なんて、夕ちゃんも今はいろいろあって大変だと思うから、返事は急かさないよ」と補足したうえで「一人じゃ連絡しづらいなら一緒にいるから、まずはお父さんに連絡してみたら?」と、父への報告を最優先に考えてくれた。勅使河原グループとの取引や今後の付き合い方が絡む以上、それが社会人として最優先すべき事柄だろう。ならばすぐさま連絡できれば良かったのだが、そこはやはり夕顔一人では覚悟が足りず、週末になってしまった。 「夕ちゃん、早いね。ごめん、お待たせ」  ドアベルが鳴ったと思えば一直線にこちらへやって来た彰はスマートカジュアルな黒のジャケット姿で、タイはしていない。前髪を下ろしており、やはり会社とは雰囲気が違う。いつものビジネスアタイアでもかっこいいが、プライベートだとまた違ったかっこよさがある。一方のこちらも白いロングワンピースで雰囲気は違うだろうが、飾り気も芸もなくて、せめてネックレスくらい付けたほうが彰につり合っただろうか…と後悔してしまう。 『お前はどうせ地味なんだからアクセなんていらないだろ』  ふと声がして辺りを見回した。声の主であるはずの大雅はいない。ということは、また思い出してしまったのか。  婚約破棄がショックなはずはないが、この一週間、ことあるごとに瑠璃とやらの勝ち誇った笑みとこれまでに大雅から受けてきた仕打ちを思い出して苦い気分に襲われている。今思い出したのは顔合わせしてから間もない頃、おめかししたときに言われた言葉だ。まだ大雅の本性を知る前の話。思えば両親揃っての顔合わせを済ませ、二人で会うようになってから、大雅の態度は横柄になっていった気がする。 「大丈夫? 気分悪いの? やっぱりやめる?」  付き合っていないうちから触れるのは失礼だと思ったらしい。まだ席につかないうちから夕顔の背へと伸びてきた腕は、途中で止まって空を掻いた。大雅がフラッシュバックしただけなのに悪いことをした。  彰は「ホットコーヒーひとつ」と注文してから向かいの椅子に腰かける。正面から夕顔の顔色を窺ったほうがいいと判断したのだろう。初老のマスターが豆を挽く香ばしい匂いがしてきて、徐々に落ち着いてきた。 (手は前にも握っていたのに)  今さらそんなところで遠慮しなくても、と思ってから、これではまるで触れてほしかったみたいじゃないかと恥ずかしくなった。大雅の恋愛と大雅の浮気ならずっと見てきたが、自分が恋愛をしたことはない。しようとも思わなかった。自分の相手はどうせあの男なのだから夢を見たって無駄だ、と諦めていた。 「大丈夫。わざわざ休日にありがとう」 「俺は休みの日にも夕ちゃんに会えて嬉しいから気にしないで。それよりタブレット持ってきたけど、これ使ってビデオ通話する? よく見えるほうがいいでしょ。あとこれイヤホンね」  笑顔とともにさらりと甘い台詞を吐かれた次の瞬間には本題に入っていて、返事を急かさないのは本当なんだなと安堵した。他人を好きになる予定などなかったのに突然付き合ってと言われても、夕顔には「好き」がどういうことなのかからわからない。彰を悪くは思っていないが、そこまでだ。これが「好き」なのかはわからない。わからないまま返事をするのは不誠実だろう。だから今はまだ、わがままだが、それ以上は求めないでいてほしい。  彰がタブレットを準備している間に、渡されたワイヤレスイヤホンを右耳にはめる。左耳は彰が音量調節で使っていた。 「あの、さ。夕ちゃんが良ければ、このまましててもいい? 俺も怒られないか気になるっていうか、何かあったら俺も援護したいから」  彰は気まずそうに左耳を指差して申し出たが、この一週間嫌味に晒され続けた夕顔は、味方がいることが嬉しかった。 「うん、何から何までありがとう。お願いするね」  気づけば話し方も昔のように戻っていた。  今日電話することは父に伝えてある。婚約破棄の話までチャットアプリで言えたら良かったが、アポ取りで精一杯だった。  それほど緊張していたから、タブレットの画面いっぱいに厳めしい父の顔が映ったときには呼吸が止まりそうだった。
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