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「夕顔、元気か?」  父の背後の掛け軸まで見えた。『謹厳実直』桔梗の花が生けてあるのも見えた。父の冬樹が身近な人との応接や晩酌に愛用している桔梗の間だ。懐かしい実家。なのに今は緊張して懐古していられない。 「はいお父様。お父様はお元気でしょうか」 「うむ」  冬樹の険しい顔が怖い。年で毛先の白くなった眉がいかっている。これほど険しい顔をさせてしまったのは自分だと思うと、何も言われる前から自責の念に駆られてしまう。 「して夕顔。婚約破棄との噂を耳にしたのだが、今回の電話はそれについてか?」 「…はい」  父は知っていた。ならどこまで知っているのだろう。どこまで話せばいいのだろう…。  迷って口を閉ざした夕顔を見て、冬樹はふうっと溜息をついた。画面を通じてでも息がかかってきそうなほど大きな溜息だった。やはりそれほど失望させてしまったのかと怖くなる。全身が竦んだ。 「とりあえず怖いパパモード終わりね。夕顔、淳史の取引先から聞いたけど、酷いこといっぱい言われたんだって?」 「え?」  思わず素頓狂な声を出しながら俯きがちになっていた顔を上げると、父はにこやかに笑っていた。「怖いパパモード終わり」なるほど。怖いはずだ。子どものときやんちゃして説教を受けたときと同じ顔だった。そしてそれが終わった。今は夕顔の心配をしてくれている。頭がついていかない。  あまりの冬樹の変貌ぶりにか夕顔のきょとんとした顔にか、向かいで音声だけ聞いていた彰が小さく噴き出していた。 「ごめんな、婚約なんてもっと昔に破棄してやれば良かったな」 「お父様…怒っていないのですか?」 「怒っているとも」  やはりそうなのか。いつもの穏やかで気さくな父に戻ったと思ったが、内心は怒っているのか。それはそうだ。だってせっかくの事業拡大計画が無駄になったのだから。そういえば笑顔が怖い。笑いながら怒るなんて怖い。  だが向かいの彰はただただ声を殺して笑うばかりで、声は聞こえているはずなのに怖がってはいなかった。それとも音だけだから怖くないのだろうか。 「淳史との約束だと思って今まで黙っていたが…あの男のことは好きじゃなかった。だから夕顔をあいつのところへ嫁がせなくて済むと思うと、正直嬉しいくらいだ。そのためにうちの大事な夕顔を傷つけられたのは気に食わないが」 「お父様…」  初めて聞いた父の大雅への評価。婚約を撤回する気配もなければ二人の仲に対して一度も口出ししたこともなかっただけに、てっきり父はこの婚約に乗り気なのだと思っていた。 「ですが、事業提携のお話が――」 「婚約ひとつ破談したところでだめになる会社経営はしていないよ。それよりも夕顔の幸せが大事だ。親なんだから当然だろう」  冬樹は夕顔の心配こそ不思議だと言わんばかりの顔だった。どうやらこの一週間のすべての悩みは杞憂だったらしい。  うっかり涙を流しそうになって、なんとかこらえた。これまで培ってきた感情管理能力がここ一週間で崩れた気がしてならない。向かいでは彰が変わらず微笑んでいる。画面に視線を戻すと、やはり父は笑っていた。ということは、「怒っている」とは夕顔に対してではなく大雅に対して―― 「夕顔。つらいとは思うが、あいつに言われたことを教えてほしい。俺も淳史に…勅使河原に抗議するのはもちろん、他にもできる限り手を打とう。あいつだけ好き放題言って幸せになるなんて、夕顔もムカつくだろう? 築山は心配性だからあえて時代錯誤な思想で夕顔を抑え込んだんだろうけど、夕顔の性根を考えればこのまま穏便に済ませるわけがない」  自分はどんな人間だと思われているのだろう。苦笑しかけて、もしや最近の胸の靄は苛立ちかもしれないと思った。これまで好き勝手に扱われて、最後は一方的に捨てられたような形をとられて、それだけでは飽き足らず、大勢の前で事実無根な悪口を言われて広められて恥をかかされて…腹が立たないわけがなかった。今まで気がつかなかった。大雅からの扱いに慣れてしまっていたからだろう。そして冬樹の言う通り、築山の教育の成果でもある。すべては淑女であるために。それは間違っていないのだろうが、今回ばかりは相手が悪かった。大雅はおとなしく従うべき人間ではなかった。  気づけば急激に、苛立ちと雪辱を果たしたい気持ちが湧き上がってきた。自分は目立たず三歩後ろを歩く淑女などではなかったことを思い出した。 「お父様。先週末のお披露目会でのことをご報告いたします」  目に魂が宿った。闘志がこもった。このままあの男たちの思うままになどさせてやるものかと決意した。  口ごもることなく話し始めた夕顔を、彰は穏やかな微笑で見つめていた。
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