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 中身のない罵詈雑言を除いて要約すれば、先週はそれだけだったように思う。腹が立たなかったという意味ではなく、先方への挨拶などが何もできず薄っぺらかったという意味で。  せっかく婚約者と婚約者が統率することになる企業の躍進を願って新たな振り袖を見繕ってもらったのに、それも無駄になった。あの下着が見えそうなほどの下品なミニドレスのほうが好みの大雅には、どうせ柄に込められた意味などわかっていない。そう思えば改めて、婚約が破棄されて良かった。破棄されて…いや、本当は破棄してやりたかった。こっちから願い下げだと言ってやりたかった。 「夕顔…。聞いていた以上だ…。すまなかった。そんな男と二十五年も…」 「いえ、お父様のせいではありません」  生まれたときから将来の性格を見通すのは無理がある。大雅の性格は、大雅自身の問題だ。むしろ婚前に別れられて良かった。  それに、恐らく罵倒だけで済んだあの日はまだマシなほうだ。体へのダメージはなかったのだから。 「あ…。最近男性方が妙に優しいと思っていたのですが…」  慰められているのだと思っていたが、もしかして大雅に尻軽だと吹聴されたせいで「あわよくば」と思われていたのだろうか。それなら気持ち悪い。誰でもいいわけはなく、大雅を拒否したように他の男も拒否しているのに、何を広めてくれてたんだと言いたくなる。  夕顔が言えば、画面上での冬樹と向かい側の彰とが同時に顔をしかめた。 「こちらで対応しておこう。…それで夕顔は、これからどうしたい?」 「どうしたい、とは?」  眉間を揉む冬樹に、夕顔は首を傾げた。艶やかな髪がひと房、肩から流れ落ちる。今自分は何を問われているのだろう。  冬樹は整えられた顎髭を撫でた。 「いろんなことを含めて。変な男のいる職場でわざわざ働かなくても、うちに帰ってくればいいし。結婚は…焦らなくても…」  そこで不意に彰がタブレットを夕顔の手から抜き取って向きを変えた。 「冬樹さん、ご無沙汰しております。彰です」 「ああ…湖条さんの。久しぶりだな。皆さんお元気ですか?」  いきなりだというのに、冬樹の声は驚いていなかった。誰かが傍にいるのは察していたのだろうか。それともこれが大企業トップの器なのだろうか。 「はい、おかげさまで。僕は今、冬樹さんの会社でお世話になっています。夕顔さんと、部署は違いますが一緒に本社にいます。お付き合いを申し込んでいるところでもあって、お返事は保留中ですが、それでも夕顔さんは何があってもお守りします。幸せにしますから。お約束します」  ただでさえ端正な顔立ちの彰がキラキラと輝いて見えた。陽射しのせいだけではないだろう。大雅にはなかった真摯さと、夕顔の幸せを願う気持ち。心臓が大きく脈打った。 「そうか…。まあ結婚は急がんが、君が近くにいるなら他の男除けにはなるか」  父は自分を手放したくないのだろう、と察してむず痒くなる。箱入り娘に育てられた自覚はある。父は夕顔に甘いから。それでも今回は怖かったが…連絡して良かった。これも彰の図らいのおかげだ。  湖条グループは四天王寺や勅使河原ほどではないもののそれなりの規模を誇る一流のマーケティング企業で、彰はそこの御曹司だ。今は社会勉強として外に出ているが、いずれグループを継ぐことになるだろう。湖条グループとは昔から取引もあるし、偶然にも実家が近かったこともあって家族ぐるみの仲だ。傷ついた娘の傍に置くには適任だと判断されたのがわかった。父親から見ても他の男では並べないくらいのイケメンだと思われていることも知った。やはり彰はかっこいいらしい。道理で社内にファンクラブができるわけだ。 「お父様、私は働きたいです。目立たないようにと考えるあまりに挑戦できなかったことがたくさんあります。まずはそれをやってみたいです」  夕顔が断ったプロジェクトリーダーの話を受けた後輩は順当に出世している。自分は…跡を継ぐのは本家本社にいる兄だから出世はそれほど考えていないが、目立っても良かったのなら、せっかく任せてもらえたものはやってみたかった。今からでも任せてもらえるだろうか。それも含めて、やってみたい。  大雅の婚約者ではなくなったときのために花嫁修業のかたわら働くことを選んだが、保険をかけておいて心底良かったと思う。フラレて引きこもってもらい手のない女、なんて思われたくない。本来の勝ち気な夕顔が戻ってきていた。 「…わかった。くれぐれも無理はしないように。夕顔は無茶をするところがあるから。そのときは彰くん、君が止めてくれるな?」 「はい、もちろんです」 「ありがとうございます、お父様」  渋々夕顔に頷いた冬樹は彰の歯切れのいい返事に首を振り、大事な愛娘の感謝に相好を崩した。 「夕顔。もう縛りつけない。お嬢様らしくあれ、なんて言わないし、家のことも気にするな。好きなようにやってみなさい。応援しているから」  緊張していたはずの電話は、予想以上の激励で無事に幕を下ろした。
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