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家に帰って、電気をつける。しんと静まり返ったわが家がそこにあった。テーブルの席に座り、ふうっと息を吐く。
頭の中に、今日一日の出来事が巡る。辞表を抱えて会社に向かったはずが、後輩たちにまるでヒーローみたいな扱いをされ、部長に呼ばれてこれからも会社で頑張れと言われる。何だか、狐につままれたような気分だ。しかし、後輩たちの表情は、みんな明るかった。少なくとも、自分を頼りにしてくれる後輩たちの姿は、嬉しかった。
壁にかかった時計を見ると、八時前だった。こんな時間に帰ってきたのはいつ以来だろうか。
『今日は娘さんの相手をいっぱいしてあげてください』
後輩たちにそう言われて、会社を出てきた。まだ、仕事はたくさん残っていて、申し訳ない気持ちはあったが、その好意に素直に答えることにしたのだ。
部屋には、冷蔵庫のうなりだけが響いていた。せっかく早く家に帰らせてもらえたのに、肝心の娘はいない。
俺はポケットから、携帯電話を取り出す。電話帳のアイコンをタッチし、妻の名前を探す。数日間、妻と話していない。
いや、違うな。
俺は首を振る。まともな会話を、何年もしていなかった。上辺だけの会話をして、家事や、子育てのこと、全く話していなかった。聞こうともしなかった。
画面をタッチすると、“calling”の文字が表示される。着信音が何度も鳴る。出ないだろうかと思ったその時、「もしもし」と、妻の声が聞こえる。
「ああ、俺だけど。今、電話、大丈夫かな」
「うん」
消え入りそうな声だった。
「話が、したくてさ」
しばらくしてから、「なんで」と、妻が言う。
「なんで、やっと今になって、連絡したの」
俺は、しばらく言うべき言葉を考える。つばをごくりと飲み込んだ。
「連絡するのが、怖かったから」
そこから、言葉が続かなかった。
「じゃあなんで、今になって、連絡しようと思ったの」
妻が、変わらぬ口調で言う。
「それは」
心臓の音が、大きくなってくる。俺は一つ深呼吸をして、口を開く。
「怖くても、一歩踏み出さないといけないと、思ったから」
ごめん。
自然と口に出た、その言葉、俺は妻に、何年間も言うことすらできなかったことに気づいた。
「私の方こそごめん」
妻が言う。俺は、携帯電話をぐっと耳に押し付ける。
「私は、あなたから、逃げた。私も、あなたと話がしたい。良いかな」
俺の頭に、ここ最近まともに突き合わすこともなかった、彼女の優しい表情が浮かんだ。
「うん。もちろん」
妻は、明日には家に帰ることを告げた。俺は「待ってる」と、それだけ返した。
また部屋には、静けさが戻ってきた。しかし、今朝までずしりと重かった体は、ふわりと今にも浮きそうだった。お腹がぐうっと鳴り、晩御飯を食べていないことに気づいた。そして、やっぱりどんな時でも腹はすくんだなと、一人で笑ってしまった。
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