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次の日、誰もいない家を出て、会社へと向かう。満員電車に乗り、会社の最寄り駅の改札を抜けると、ビルとビルの間から朝日がのぞいていた。強い日差しに思わず目を細める。寝不足の頭がくらくらとする。昨日の夜は、ほとんど寝ることができなかった。朝早い娘の叫び声もなくていつもよりも寝ることができるはずなのに、むしろ今日は朝日が昇る前には目が覚めてしまった。
オフィスに入り、パソコンを開く。机に貼られた付箋には、いくつもの仕事が殴り書きされている。それを見れば、自然と頭の中に、午前にすべき仕事が順序立てられていく。こんな状況でもデスクに座れば頭がさえてくるのは、サラリーマンの悲しい性だ。
「主任、この書類、見ていただけますか」
すぐ横に、後輩の女性社員が立っていた。
「ああ、うん。いいよ」
俺は書類を受け取り、それを読んでいく。
「あのお、主任、目の下のクマ、すごいですよ」
「えっ、本当に?」
「はい。パンダみたいです」
「はは。昨日は夜遅くまでアニメを見ていてさ。ほどほどにしなきゃな」
彼女の刺さるような視線を感じたが、俺はただ書類の文字を追っていった。
「足立くうん。ちょっと良いかなあ」
にたにたと歪んだ笑みを見せながら、課長が俺の方に近づいていく。薄くなっている生え際を手の甲で何度も撫でている。
「はい。何でしょうか」
「この資料のここの部分さあ、僕はグラフを入れてって言ったよね」
「あっ」
課長が見せた資料のページ、確かに昨日、課長に図を入れるように指示を受けていた。
「申し訳ございません。失念しておりました」
「こういうミスをさあ、何回もやられると困るんだよね」
はああ、と課長がわざとらしく、ため息をつく。
「もちろんさ、上司はさ、ポンコツな部下でもお、フォローしてあげるのが仕事だよ。でもさ、こんな細かいところまでさ、全部僕がチェックしないといけないの。ねえ、どう思う?」
「すみません。私が悪いです」
「ねえ、謝ったらすむと思ってんじゃない。先月もさあ、こういうことあったよね。あれも確か資料を君に任せたのに……」
課長は延々と話を続けていた。こうなったら二十分は時間を取られることを覚悟しなければいけない。一つの小さなミスで、ねちねちと部下をいじめる、これが課長のやり口だ。これで何人もの後輩が辞めていった。
俺はスーツの内ポケットに右手をそっと忍ばせる。そこには、何年も前に買った、ボイスレコーダーがある。スイッチの場所を探して、慎重に押した。ピッ、と電子音が鳴ったが、課長はそんな音に気付く様子もなく、まるで演説のように説教を続けている。
俺は相槌を打つように、謝罪の言葉を言う。十五分もすれば、満足したのか、課長は自分の席に帰っていった。
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