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あの日の、空の色と、ハナミズキ。
そこから、タイムマシンに乗ったかのような気持ちになった。
「きっと、復活してくれるよね、、、」と、意識のない父の側で伝えた。
「うるさい」と言われるくらい、沢山、話しかけた、、、。
うるさかったら、目を覚ませばいい!起こすために話をしていた。
最期の瞬間、目を開けて、私だと、はっきり気づいた。
意識もなく、苦しそうに見えたが、なぜだか、パッと目を開けた。
にっこり笑ったように見えた、、、いや、、
笑ったんだと思う。私の方に顔を向けて、「あっ、、、来てくれたんだね、、、大丈夫、、、もう暫くしたら、元気になるから、、、」っと、
言っているような、テレパシーを送られたようだった。
まっすぐ、私の顔を見て、にっこり笑って旅立った、、、。
その日は、奇しくも、〝夏越の大祓“の日だった。
よろしくないものを、ガッサリと持って逝ったんだと、、、この日を選んだかのようだった。
少し、驚いた。
実家は、神道だったが、父は、全くの無宗教を自負していた。
父なりに、思うところが、きっと合ったんだと思っている。だから、詳細は聞いていない。
父は、神社の娘に生まれた母を持ち、巫女だった祖母がいた。
それでも、お正月に、初詣に行くぐらいで、私は、父がお参りする姿をみた事がなかった。
見えない所で、手を合わせていたのかもしれないが、、、。
そして、3年経って、本当のお別れの日が来た。
生前、〝死“と言うことを、一切、話題にしない人だった。話題にすると、話の輪から外れていった。
「俺が、死んだら、、、3年くらいは、家にいたいな、、、」と、唐突に、そう言われたことがあった。
約束通り、3年間、我が家で、家族を見守っていたのだと思う。
そう、あの晴天の日が納骨の日だった。
その日を、まるでわかっていたかのように、その日が来るまで、皆んなが元気か日々の暮らしを静かに見ていたかったんだと思った。
もっと、生きていて欲しかった。
人には、寿命があるが、同じ年に、父のお姉さん、私の伯母も火事で亡くなった。
喧嘩もしていたが、やはり、姉弟だ。
「姉さんの、お陰で、俺は好きな人生を生きてこれたんだ」と、幾度も、伯母に足を向けて寝れないと、にっこり笑って話していた父。
入院生活が、思いの外、長くなって、「きっと、家に帰る!必ず、帰りたい!」と、毎日、思っていたようだ。
若い頃から入院経験があった人だが、早く退院して帰宅したいなどと思う人ではなかった。
医師や看護師の方々と楽しく話をし、自分が、病人だということを、忘れてか、、、クルーズ船で旅行でもしている気分だったようにしか、
私には、見えなかった。
スポーツで大怪我をした学生と、まるで親友にでもなったように、励ましていると、余りにも元気な父を見て、「なぜ入院したのか聞かれた」と、
楽しそうに話をしていた頃もあった。
だが、幾度と入院する度に、ある時から、諦めたのだと感じた。もう、俺は帰れない。もう、無理かもしれないと。人生を諦めたのだと。
そこから、話をしなくなっていった。
父が不在の日々が続いた。
そのせいか、父の不在に慣れていっていたようにも感じた。
「俺が、留守でも、もう大丈夫だよな、、、」と、家族に言うように、、、。
もしかしたら、病で逝ってしまったのではなく、1人、先に亡くなった伯母を心配して、「ちょっと逝ってくるね」と、父は、思っていたのだと、
今は、そう思えるようになった。
ちょっと、逝ってくるね、、、が、長い長い旅になると思っていたのだろうか、、、。
今頃、ハナミズキを歌いながら、「いい歌だね、、、。」と、こちらを見ているんだと思う。
元気ですか?、、、こちらは、元気です。
世の中も、色々、変わってしまいましたが、私達は、元気に暮らしています。
また、いつか、どこかで会えると信じてます。
きっと、会えるように、生まれ変われるように、そちらで修行していることでしょうね。
また、一緒に歌を歌いたい。
ハナミズキ、、、私の歌う『ハナミズキ』を、また、聴いてほしい。そして、また、褒めて下さい。
それまで、どうか、お元気で、、、かしこ。
終
読んで頂いて、有難うございます。いつも、励みを頂いてます。
心から感謝しております。
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