狙われた男

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狙われた男

 株式会社アナザーワールドフィルム研究開発センター主任、木下洋二(きのしたようじ)は、次世代の主力商品として期待されている新製品の開発を担っていた。すでに試作品は完成しており、実用面での実験と顧客の反応を探るリサーチが行われ、製品化まであと一歩の段階にあった。木下は現在、協業他社の参入を阻むための特許申請の作業に追われている。この一ヶ月は残業続きで終電での帰宅が常態化していた。今日も最終電車に飛び乗って帰ってきたのだ。  独り身なので家で帰りを待つ者はいない。  夕食は研究所で食べたカップ麺ひとつだけ。腹がもつはずもない。マンションへの帰り道にあるコンビニで、もう少しましなものを買って帰るつもりだった。  時計の針は午前零時を大きく回っている。  深夜を過ぎた町は森閑としていた。まばらに立つ街灯が真っ黒な地面にぽつり、ぽつりと心細い光の輪を落としている。灯が届かぬ先はどろりと闇が蟠っているかのようだ。通いなれた道なのに今夜はいつもと違うように感じられて仕方がなかった。  駅を出てから人の姿を見ていない。  都心に向かう私鉄の、各駅停車しか停まらない駅とはいえ、今日は人の姿がなさすぎた。  木下は誰かにつけられているような気がしていた。足音が聞こえるのだ。  靴音ではない。  ぺたり、とアスファルトの上を裸足で歩いているような音だ。それも真後ろから聞こえる。  何度も振り返ったが人の姿はなかった。  路上に落ちる街灯の灯が周囲の闇を逆に際立たせている。  胸騒ぎを覚えながらコンビニに向かう足を速めた。  明るく輝く看板が見えた時、ほっと溜息を洩らした。ガラス張りの外装から漏れる店内の明かりが心強いものに感じられた。いつもは若者がたむろしている駐車場に、今日は誰もいない。  自動ドアが開くと店内に飛び込んだ。すぐにドアが閉まる。  入口そばにあるカウンターに店員の姿はなかった。商品の陳列でもしているのだろうか。  ぺたり、と背後で足音がした。自動ドアが開いた気配はない。  全身が総毛だった。  振り返った瞬間、店内の照明が落ちた。 「うわっ!」  悲鳴に近い叫び声をあげて左右を見回した。 (停電?)  真っ暗だった。照明も冷蔵設備もディスプレーもすべてが落ちていた。目玉が眼窩にのめり込みそうな闇が木下をつつんでいる。尋常な暗闇ではない。軀の向きをかえただけで見当識を失い、バランスを崩しそうな暗黒の中に木下はいた。 「木下さん?」  不意に背後から声がかけられた。  驚くよりも恐怖が先にたった。 「ひっ」  言葉が出ず、息をのんだ。振り返ろうとして平衡感覚を失って軀がよろけた。右腕をとられてなんとか転ばずにすんだ。 「大丈夫かね」  背後から軀をささえてくれた男に聞かれた。店員かどうか分からない。暗くて男の姿が見えない。コンビニの制服を着ているのかどうかさえ判別できなかった。だが、さっきの足音の主であり、今、自分の名を口にした男であることは間違いない。理性によらず、直観がそうささやいた。裸足でいるはずもないがそれを確かめたくて足元を見たが漆黒の床が広がっているだけだ。 (店員は何をしているんだ!)  怯えを認めたくなくて、停電という非常時に即応しない店員に怒りの矛先を向けることで平常心を取り戻そうとする。  困惑する木下の腕を握る男は、「木下さん?」とさっきと同じ問いを発した。  一向に暗闇に眼がなれないことを訝りながら木下は間近にいるはずの男の方を見た。 (あれ?)  男の周囲に淡い光が生じていた。  軀が燐光に包まれている。フード付きの毛皮のコートを着ていた。真夏の今、コートは夏炉冬扇だ。にもかかわらず男はフードをかぶり、コートの前をしっかりと閉じている。  コートの毛が帯電しているかのように周囲に広がり、細い毛先が鈍く光っている。真っ暗な店内で男の顔がぼんやりと白銀色に浮かび上がった。  肌が白い。  まるで白蝋のように造り物めいて見える。  フードを間深く被っているので目は見えない。だが、見たこともない男なのは間違いない。 「木下洋二さん? アナザーワールドフィルムの」  男の口がにちゃり、と動いた。  口角が切れすぎている口だった。 「え、ええ」  見知らぬ男にどう対応していいかわからず、戸惑う木下に男が話しかける。 「MR流体の開発は進んでいるかね」  MR流体とは鉄などの強磁性金属微粒子をオイルなどの分散媒体(液体)に高濃度で混ぜ合わせたものだ。スラリーとも呼ばれている。工業用語ではスラリーは泥漿(でいしょう)という、泥や粘土、セメントなどに水を混ぜたドロドロのものを意味するが、業界ではMR流体をスラリーと呼びならわしていた。  スラリーは外部から磁場を加えられると粘度が変化する特性がある。技術開発により、直径数μm(マイクロメートル)から五十μmまで、磁性粒子を長期分散安定化することが可能になっていた。MR流体の利用分野は幅広い。ブレーキや、エネルギーを直進移動や回転などに変換する装置(アクチュエータ)の逆可動に利用されたり、パソコンやスマホ、ロボットや、医療機器などにも使われている。開発メーカーは複数あって新製品の開発にしのぎを削っている。それらすべてが口を揃えて言っているのは「MR流体には無限の可能性がある」ということだった。  木下は従来とは違う特殊なスラリーを開発し、その製造に成功した。ただしそれは社外秘だ。見ず知らずの目の前の男が知るはずもない。 「あなたは、どなたですか」  明かりが消えているのに店員が一向に現われないのがおかしいし、真っ暗なのに目の前の男の顔が見えるのもおかしい。木下の軀は震えだした。 「アルギュロスリュコス」  再び、にちゃり、と音を立てた男がフードを頭から外した。  髪の毛が銀色に輝いている。  男が木下を見つめた。目が顔に比して大きすぎる。瞳が銀色で瞳孔が横に平たく伸びている。猫の目と逆だ。  自分の右腕を掴んでいる男の手を見た。  指が七本あった。  蜘蛛の肢のように細く不気味なほど長いその指を見て、それまで喉元でつかえていた悲鳴が迸った。  店内に木下の絶叫が響き渡った。    真夜中に発生したコンビニ火災に消防車や救急車、警察車両など十数台がかけつけ、消火と付近の住民への避難の呼びかけ、野次馬整理にあたった。火は三時間ほどで鎮火し、規制線が張られ現場への立ち入りが制限された。検証作業は翌朝に実施されたが、焼け跡に黒焦げになった立像が発見され、関係者一同は異様なその姿に眉をひそめた。手を前に出し上半身を仰け反らした男の像のように見えるが、素材が何であるかは不明だった。そもそもコンビニの店内に等身大の彫刻がディスプレーされていることが珍しかったし、店のオーナーは、そのようなものを店内に持ち込んだりしてはいないと証言した。  改装工事中で、店が休業だったため、火災による物的被害のほかに人的被害は発生しなかった。消防は工事内容の検証と放火の両面で火事の原因を探るとしていた。  
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