おじさんと私に夕方の鐘が鳴る

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おじさんと私に夕方の鐘が鳴る

 おじさんの説教は長いのだ。  私はまだ暫く終わらないのを知っているので、馬車の中にあった埃をかぶった膝掛けを持ち出してきて羽織り、橋の石畳に腰を下ろした。  おじさんはライアンの腹の上にどっかりと腰を下ろし、腕を組んでいる。 「お前は覚えていないようだが、俺はお前のことをよく知っている、昔から甘ったれたガキだった。何度か顔を合わせていたはずなのにな。得になること以外、目の向かない所、直らなかったんだな」  おじさんが話しかけるが、もうライアンは口もきけず涙を浮かべるだけだ。 「お前みたいな奴にチャンスなどやるなと爺さんに忠告したのに、甘い御仁だ。それで、無計画にエマを攫って、どうするつもりだった? ヤケになったのか? 頭も悪いのか?」  どうやらおじさんはライアンともコーネル・ハーヴィとも面識があるようだ。 「爺さんに暴力では金は儲からないと教えてもらわなかったのか? 俺はちゃんと話を聞いていたし、そのようにしたら上手くいった。さっき教えてやったことだって爺さんが言っていたことだ。お前だって孤児院に手伝いに来た時に聞いていたはずだ。もっとも、お前は爺さんが真面目に話をしている時だって、面倒くさがって何も聞いていなかったか。孤児院の子どもに汚いから触るなと言って蹴ったりはしていたよな。あの頃からお前は変わらないんだな」  ライアンの鼻を指で弾いて蔑むように笑う。いつもとは違って物騒だ。  おじさんの子どもの頃の思い出は初めて聞く。孤児院にいたと聞いたことがあったが、コーネル翁の所有する孤児院だったとは驚きだ。 「なぁ、爺さんが読み聞かせてくれた絵本があっただろ? お前も聞いていたはずだ。どれだけ腕力があってもそれだけでは暖かい住処(すみか)には住めない熊の話だ。別に腕力で稼ぐなって話じゃない。腕力は金になる。そうだな……俺が爺さんに拾われるまで、何をして生きて来たか知っているか? 俺の見た目につられてやってきた男から強盗をしていたんだ。同性の子どもに悪さをしようとしていた屑だから、教会からの罰を恐れて俺に金を取られてもダンマリだ。まぁまぁ稼いだよ。でも駄目だった。そういう金じゃ幸せにはなれなかった。暖かい所にいても、何を食っても凍える。いくら持っていても誰かの為に使う金じゃなければ自分は温まらない。むしり取った他人の金じゃなくて、一銭でもまっとうな金を稼いで誰かに使ってみろ。誰からも見捨てられる前にな」  ライアンは泣いた。  別に反省したからとか、おじさんの話に心を動かされてというわけではないと思う。  背中も冷えきっただろうし、痛いし、きっともう疲れたのだ。  シンパシーを感じたいわけではないが、おじさんにこってりと説教された時の気持ちはよくわかる。  その後も、いろいろな逸話が出てくる。昔話やら、偉人の伝説やら、あとからあとから勧善懲悪を啓蒙する話が湧いてくる。 「――そんなことも知らないお前なんかに誰が大事なエマをやるか。はっ、お前の尻? 冗談じゃねぇ。金を払ってもお断りだ」  おじさんの説教の長さは、本当に嫌気がさす。  反省してようがしてまいが、最後は絶対に泣いてしまうのだ。  ライアンは相手を見誤った。おじさん相手に何かを仕掛けるべきではなかったのだ。     向こうからトムさんの呼ぶ声が聞こえる。  それと一緒に幌付きの豪奢な馬車がやって来て、中からコーネル翁が顔を出す。馬には金の縫い取りのあるブリンカーがつけられていて、規則正しく足踏みをする青毛の毛艶は最高だ。 「おやおや、穏やかではないのぅ」    笑っているのだろう。白いふさふさの長いひげが大きなおなかの上で揺れている。 「爺さん、自分の孫だろ、もっとちゃんと躾けておけよ」  おじさんは粗野な口調でコーネル翁にライアンの首根っこを掴んで突き出す。 「なんじゃ、ライアン、ちっとも怪我をしておらんな。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ラース相手に軽傷だとはめでたいな。野良犬の餌に手を出したら、もう少し手酷く報復されると思っておったのにのぅ」 「知っててけしかけたくせに、よく言うぜ」 「愚かなことをしたな、ライアン。儂はお前の幸せを願ってエマを選んだというのに。ちゃんと手順を踏んでエマを手に入れたら、お前は間違いなく幸せになれただろうにな。エマはそういう幸せを運ぶ子じゃ」 「迷惑だ」  おじさんが吐き捨てるように言う。 「ああ、こやつをどうしたものかな。大人一人を鍛えなおすほど、儂は余生が長くないのだがなぁ」  一緒に来ていた黒服の男たちにライアンを連れて行かせてコーネル翁は私の方に向き直る。  真っ白な長い眉毛は狡猾な視線を隠し柔和な印象を与えるが、私はコーネル翁の姿は物語に出てくる悪い悪戯をする妖精にそっくりだと思っている。妖精は祝福もするが呪ったりもするのだ。 「エマや、怖い思いをさせてすまなかったの。怪我はないかな?」  食えない笑みで悪戯(いたずら)が成功したみたいに笑う。 「私、おじいちゃんの孫とは結婚しないって言ったのに!」 「もちろん聞いておったよ。今の場所が好きだから、どうにかそこに残りたいと言っていただろう」 「……結局駄目だったけど。それはもういいの」  ちらりとおじさんを見ると、ばつの悪そうな顔をしている。  そうだった、私、おじさんと喧嘩をして飛び出してきたのだった。  コーネル翁の馬車は私たち二人を残して帰って行った。  ライアンはどうやらコーネル翁が育った農場で父親と一緒に一からやり直すことになるらしい。 「おいで」  粗野なおじさんを引っ込めて、いつもの調子で私に手を差し伸べる。 「もうハグはおしまいなんでしょ?」 「ハグじゃ無い」  おじさんは私を立たせると、頬に手を添えて口付けた。  唇は甘い感触を伝えるのに、苦いざわめきが胸を締め付ける。 「何? これから嫁に出す娘に手を出したら問題になるんじゃない?」  冷えた鼻先におじさんの温かい唇が触れる。 「あの後、ハーヴィ家に行って、ライアンがうちに来た件を報告したんだ。コーネル翁から詫びられてな。何かできることはないかと申し出られて、俺は、エマをハーヴィ家の養子にして欲しいと願い出た」 「なによ、この家から嫁に出すなんて言って――おじさんの養子だった跡も残さないつもり?」 「まぁ、待て。最後まで話を聞け」  なだめるようにまた鼻にキスをする。嬉しくなるからキスなんてしないで欲しいのに。 「コーネル翁は、お前のことが気に入っている。エマを孫として迎えたいとまで本気で言っていた。だから、ハーヴィ家から嫁に出すことは喜ばしいことだと言っていたよ」 「ハーヴィ家から? はっ、それって相当大きな縁談が決まっているってわけ?!」  ハーヴィの家名が必要だということは、もしかしたらそれ以上の身分の人との結婚が決まったのかもしれない。そうなったら本当にもうこちらから断ることなどできない。 「それを確かめている。誓ってお前の希望が無ければ無理なことはしない。除外して考えていたが、お前をネルセン家の妻に据えるのは悪い考えじゃないと思い直したんだ」 「え? 今、何て?」  自分の耳を疑う。おじさんは、今、()()()()と言った? いや、空耳かも。 「考えたこともなかったんだ。手放さなければならないものだと……それがお前の幸せだと思っていた」 「ネルセン家……?」 「そうだ。うちにいてもいい。だが、使用人として雇う予定はない。うちは今いる使用人だけで十分なんだ。空いてる職があるとすれば――俺の妻だけだ」 「でも、嫁ぎ先が決まったって……」  おじさんは私の冷え切った耳を両手で覆って温めながら、話をする。 「見ず知らずの女を屋敷に入れるのは骨が折れる。うちの使用人たちが肩身が狭い思いをするような女ならなおさら駄目だ。だから俺は結婚するつもりがなかった」  そうだった。おじさんはいつも屋敷で働く者達を優先して考えていて、皆が楽しく仕事をしているのを眺めているのが好きだった。 「お前はネルセン家を知っているな」  この屋敷の使用人達は寄せ木細工のようだ。  この屋敷の他に行くところがない者ばかりがここにいる。女中頭のニーナは元娼婦だし、庭師のワグナーなど、しばらく刑務所に入れられていたらしい。 「妻の条件は、屋敷の者たちを世話できる器量があるか、それだけだった。だから誰にでもチャンスはやったが、家の者に不満そうな顔をした奴は皆、断った」 「私の嫁ぎ先って……」 「相手はラース・ネルセン。手広く商売をしている。お前の商売も今まで通りに続けられるし、お前を粗末に扱うことは決してない。屋敷の使用人からも望まれているし、他の候補者よりは歳はいっているが、奴らよりは稼ぐ。面倒な小姑もいない。縁を作ってしまったから、うるさい金持ちの爺さんが訪ねてくることになるかもしれないが、俺が用意できる縁談の中では一番上等だ」  どこかで鐘が鳴っている。  森の中からなのか、街の中から聞こえるのか方角がつかめない。  天に召される時に鳴る鐘の音もきっとこんな風に聞こえるのだろう。  私はぼーっとその音に耳を傾ける。   「あとは、そうだな、お前がそいつを好いているのなら、の話か……」  おじさんは、鐘の音にかき消されそうなくらい自信のなさそうな声で言う。  私はおじさんに対する恋心を自覚してからは、ちっとも好意を隠せなくなった。おじさんは私の気持ちなんか、とっくにお見通しだと思っていたのに。 「ずいぶん自信のなさそうなことを言うのね」 「正直、ここ最近の猛烈な誘惑には参っていた。うちの者たちもやり過ぎだ」 「ごめんなさい。でも、私、出ていくのが嫌で……」 「いや、俺が、お前の話を真剣に聞かなかったからだ。お前が大人になっていたことにもう少し早く気がつけばよかった」  口は動くし受け答えもできるが、全く現実感が無い。  夢だろうか? 都合のいい夢を見ていて、実はさっきライアンに殺されて道端で死んでいるのではないだろうか。 「本当にうちに残る方がいいのか? 好条件な相手を選んだと思ったんだが……本当に気にいる奴はいなかったのか? どんな相手ならよかったんだ、好みがあるなら今からだって探してやるが」 「まだ言うの? 私の好きな人は、バターのソースが苦手で、気難しくて、木工が好きな割にへたくそな人でね」  沈みゆく西日が差して、おじさんの金髪がキラキラと光る。少し頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。 「だが、そいつはだいぶ年上じゃないのか?」 「社交界でこのくらいの歳の差、いくらだっているわ。おじさんにも聞かせてあげる。私の好きな人ね、ブロンドで変に綺麗な顔でね、お金持ちのくせに、分厚い綿の、だいぶ年齢を感じさせないシャツを着ているの」 「柄シャツを着ていて悪かったな」 「よく似合ってるわよ」 「それは気の迷いではないのか?」 「気の迷いで、なりふり構わない誘惑をしてしまう娘に育ててしまったなら、おじさんの教育が悪かったのだと思うけど?」 「生憎、俺はエマの仕上がりには相当の自信を持っている。どこに出しても困らない出来だ」 「娘ではなくて女性としては?」 「この間のアレは酷かった。おかげでずっと劣情に苛まれている。大人ぶって手放すのが正解なのに、お前をどこかの若造にやるのが惜しくなって……あんな強烈なことをされて、今更大人として見るなと言われても遅いからな」 「抱けそうだってこと?」 「……試してみないとわからない」  あそこまでしておいて、分からないとはこれ如何に。  私は跳び上がっておじさんに抱きついた。  勢いをつけすぎて、おじさんの顎に頭をぶつける。 「いたっ……痛い! 痛いってことは夢じゃないわよね」 「……つっ、痛い。お前はもう少し丁寧に動けないのか!」 「今は無理! 頭がおかしくなりそう。お願い! お願いだから試してみて!」  ぴょんぴょんと飛び跳ねる私の後ろから咳払いが聞こえる。  いつからそこにいたのか、絶妙のタイミングでトムさんが声をかけて来た。 「何を試すのかは存じ上げませんが、とりあえず屋敷の者たちを安心させてください。ほら、お二人とも、夕食の準備をしてオーニールが待っておりますよ」    背中から鐘の音がする。  赤い夕焼けに、並んで家路をたどる黒くて長い影。  絵本だったら、これがきっと最後のページの絵になるはずだ。
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