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おじさんは豆のシチューが好き
――というのが、五年前の話。
私はその後おじさんちに住み込み、燃やしてしまった馬屋の償いをしようとしている。
屋敷の主人であるおじさんは商人だった。手広く商売をしているようで、いつも忙しそうにしている。
馬屋だけが新しくなったおじさんの屋敷には、おじさんの他には住み込みと通いの使用人がいるばかりで、他に家族はいない。
忙しいおじさんは家の事はほとんど執事と使用人に任せて、たまに休みがあれば納屋で趣味の木工をしている。
親兄弟も親戚もいないと言うから、私のような者も珍しくは思わないのだろう。
ボヤですっかり焦げ縮れた髭を剃り落としたおじさんは、その実、「おじさん」ともいえないような歳だった。
出会った時は二十五歳くらいだと自称していたから、今年誕生日が来れば、三十になるはずだ。生まれた日などわからないと言うから、本当にその年齢なのかどうかあやしいものだ。やけに若く見える。
もじゃもじゃと髭をのばしていたのは、商売をするにあたって、貫録を付ける為なのだそうだ。
――なるほど納得がいく。
髭を剃り落として、長かったブロンドの髪を整えて、緩くうねる前髪を垂らせば、学生かと見間違うほどの童顔だ。
上背があるから女々しくは見えないが、上品な鼻も青い瞳も巷で流行の男色小説の挿絵のような配置だ。
舐められるどころか、この見た目ならおじさんの貞操が危ない。
「おじさんてすごく綺麗な顔よね」と言ったら嫌そうな顔をしていた。
その日も男性に言い寄られて、難しい立場に立たされていたのだと後から聞いた。
おじさんと呼ばれるのが気に入らないのか、ラースと呼ぶようにと正される。
なんとなく呼びづらくて「旦那様」と呼んだら「雇ってない。お前は償いの為ここにいるのだから使用人の真似をするな」と叱られた。
雇ってくれる気はないのだろうか。
償いが終わったら追い出されるかと思うと、心許無い。
それならばと、家の中の仕事を覚える為に使用人について回るようになったのは、ここで暮らすようになってすぐだった。おじさんはそれにいい顔をしない。
屋敷にはもう既に使用人が充分な人数いるから、何も出来ない私は肩身が狭い思いをしなければならなかった。
私が何か手伝おうとすれば、仕事より勉強をしろと皆が口を揃えて私を書斎に追いやる。
仕方がないから勉強を出来るだけ早く片付けるようにして、あれこれ言い訳をしながら使用人に仕事を教えてもらっていた。
おじさんはそれ以上何も言わないが、ちょこまかと家の中を走り回る私に眉をひそめる。
私がおじさんに言いつけられたことをさっさと終わらせてから、家の中の事をしているから文句のつけようがないのだ。
ちゃんと正式な場面ではラース様と呼ぶが、反抗心から心のなかではいつもおじさんと呼びつづけている。
そういえば、ここ半年ばかり、綺麗な服を着た女性がおじさんを訪ねてくるようになった。時々は着飾った男性だ。
恋人かそうではないのか、もしかしたら娼婦か男娼か何かかもしれないが、二度同じ者に会ったことがない。
執事のトムさんに尋ねても、旦那様の仕事の事は知らなくていいからと煙たがられて、別の部屋に追いやられてしまう。
トムさんは以前は大きな商社で帳簿を付ける仕事をしていた。社長だか会長だかの不正を内部告発して仕事を辞めたのだと聞いた。
トムさんは、内緒で屋敷の修繕の手配や貴重品の管理の仕方、来客の対応などを教えてくれる。帳簿のつけ方や事業の起こし方なども教えてくれるのだから太っ腹だ。
ここの使用人は皆、子どもに優しい。
善良なトムさんは、子どもが破廉恥な場面に出くわさないように守ってくれているのだ。
そういう気遣いがあまりにも無垢な子どもに対するものなので笑ってしまうのだけれど。
私だって娼婦になる一歩手前にいたのだ。周りの少女が春を売るところはたくさん見てきたし、しもやけだらけの娘でもいいという奇特な人がいたら、私だって小金欲しさに身を売っていたに違いない。
成人男性が女性にお金を払って何をするのかくらい知っているし、それを潔癖に蔑むつもりもない。こそこそとせずに堂々としていればいいのにとすら思う。
そんなわけで、今日もおじさんの部屋から怒号が聞こえる。女性がおじさんを罵る声だ。
決まって女性たちは媚態をまとってやって来て、おじさんの部屋に行くが、すぐに足音荒く出て来て、私を睨みつけて帰って行く。男性の時は少し落ち着いて話をしているようだが、泣きながら男がでてきたのを見たことがある。
今日の女性は私とすれ違いざまに「あんな変態、こっちが願い下げよ!」と毒づきながら出て行った。
「やっぱり、そうだったのか……」
そうなのだろうとはうすうす気がついていた。
心配して書物で調べてみたこともある。
どうやらおじさんは性的に難があるらしいのだ。
娼婦にも相手にされないとは相当なものだ。
(――だからずっと独り身なのよね)
「早く支度をしろ、勉強の時間だろ?」
おじさんを憐れみながら、女が去っていく方をぼんやり眺めていた私に声をかける。
「私は支度してたわよ。おじさんがいやらしいことしていて遅くなったんじゃない?」
私はおじさんの書斎で勉強をする。それはここに来てからずっと続いていた。
勉強して独立する事が私に課せられた贖罪方法だった。
行儀見習いもさせられているから、普段は上品に振る舞わないと屋敷の皆から小言を言われるが、勉強の間はどんな喋り方をしても咎められない約束だ。
「おじさんじゃない。ラースと呼べと言っている」
「ラース様の恋人達に睨まれるから嫌よ」
「恋人じゃない」
そんなのわかりきっている。
ちゃんとした恋人がいるのなら、こんなしょっちゅう知らぬ男女が出入りするわけがない。
「はいはい、一夜の夢を買ってるのよね。ちゃぁんと、わかってるわよ」
「お前、俺をなんだと思っているんだ? あれをそんなふうに見ていたのか?」
「変わった遊びを要求するから、いつも帰られちゃうんでしょ? お姐さん達、変な客に当たってお気の毒だわ。男の人たちはよくわからないけど」
「違う! 下衆な勘ぐりをするな。全然違うからなっ!」
おじさんはむきになって否定する。
性的欲求が解消されなくて苛々しているのかもしれない。
「マッチ売りの仲間が、変な行為を要求されたら、二番街の『青い蛍亭』を紹介すればいいって言ってたわ。今もあるかどうか分からないけど、おじさんも行ってみたら? おじさんならもっと高級なところ行けるかしらね」
おじさんは倹約家だから商売以外ではあまり自分に金をかけない。
仕事のスーツなどはパリッとした素晴らしい仕立てのものを着るけれど、家で寛ぐときは同じような綿の服を数着だけ着まわしている。
あまり贅沢には興味がなさそうだから、使える金はたくさんあるはずだ。それでおじさんの好みの事をしてくれる娼婦と遊べばいい。
「だから、そんなんじゃないと言っている!」
「はいはい。別におじさんを恥ずかしがらせたい訳じゃないのよ。この話はおしまい――ねえ、おじさん、今日はハグは無し?」
私は子どもの頃と同じように両手を広げて待つ。
「エマ、おまえ、もう十八になっただろ? いつまで続けるつもりだ?」
おじさんは、まだ艶のある若々しい頬をバツが悪そうに掻く。
私が年頃になってからはあまり私を寝室には入れたがらなくなった。お休みのキスも寝る時のお話もしなくなってからだいぶ経つ。
だからこうやって強請るほかないのだ。
「だって、お利口にしていたらご褒美に頭を撫でてくれるって言ってたじゃない? 今日は教会に行っておじさんの名前で奉仕活動をしてきたの。貿易をしているコーネルって言うおじいちゃんと仲良くなってね。お金持ちみたいだったわよ。人脈作りが大切だっておじさんいつもいうじゃない? この出会いは、何か商売の足しになるかな?」
「コーネル? コーネル・ハーヴィと知り合ったのか? お前、何か余計なことをしなかっただろうな」
「余計なことってなによ、偉そうなおじいちゃんに、うちのおじさんは親切で商売も上手だから気が向いたら声をかけてって売り込んでおいただけよ」
もちろん、その人がコーネル・ハーヴィだと知っていて声をかけたのだ。
コーネル・ハーヴィは大きな貿易会社の創始者だ。
コネを作るためにすり寄ってくる者たちをたいそう毛嫌いしているが、私の身の上を語ったらたいそう同情的に話を聞いてくれた。
小さなきっかけでもおじさんは商売に活かすはずだ。
「お前、ついにハーヴィ家と接触したのか……」
「私、役に立つかな?」
「まぁ……たたなくは、ないが、なんだかなぁ。他には何か聞かれなかったか?」
「別に」
これは嘘だ。コーネル翁に少し気に入られ過ぎてしまったようなのだが、この話には、関係ない。私はおじさんに褒められたいだけなのだ。話をややこしくしたくないので黙っていよう。
おじさんはニコニコと抱擁を待つ私に気難しい表情を向けるくせに、わしゃわしゃと大きな手で何度も私の頭を撫でた。
おじさんは私になかなか家の中の雑用をさせてくれないから、おじさんに恩を返すにはこういうやり方でおじさんが儲ける手助けをする他ない。
「ハグくらいしてくれてもいいじゃない?」
「いつまで子どもみたいなことを言っているんだ。飴をねだるのとは違うんだからな」
「だって、『お前が受け取るはずだった愛情は俺がいくらか補ってやる』って言ったのはおじさんよ」
「お前を拾った時に、医者に少年少女の健全な育成にはスキンシップが不可欠だと助言されたからだ。十八の娘と抱擁するとなると、色々と意味が違ってくるだろうが……」
私が屋敷に住むとなって、みんな大騒ぎだった。
医者が来たり、家庭教師が来たり、おじさんがいない間は専用の子守りが来たり。
みんな子どもに優しかった。
手当ての甲斐があって、硬くひび割れた私の頬はシミ一つ残らずきれいに治り、細く切れて蜘蛛の巣のようだった髪も今では結い上げられるほどに豊かだ。
おじさんは、それを思い出すかのように私の栗毛を撫でる。
色々足りない私に、いろんな人が手をかけてくれた。誰も彼も、エマを育てたのは自分だと言い争いをしかねないほどに。
私は、絵にかいた幻のような、この家の温かさが好きだった。
「ほら、さっさとして。台所の手伝いをして、クッキーも焼いたわ」
「また、おまえは――皆の邪魔をするなと言っているだろ」
「料理長の邪魔はしてないわ。ちゃんと夕飯の仕込みも手伝ったんだから」
「まったく、これで最後だからな。お前はもう独り立ちの時だ」
色々ブツブツ言いながらおじさんは腕を広げる。不機嫌そうに見えるが、おじさんの不機嫌は照れ隠しのようなものだと、ここにいる誰もが知っている。
(そうか、これが最後か)
先週、誕生日を祝われた。
十八になれば大人だ。酒も結婚も許される年になってしまった。
これまで与えられてきた幸福の数を数えながら、おじさんの腕に飛び込む。
なんて幸せな時間だったんだろう。
私はここに来て五年、まるで普通の子どものように過ごすことができた。
欲しくてたまらなかったものを全部貰って、幸せで、たまらなく怖くなった。
この幸せは長くは続かない。
ついにそれが終わる時が来たのだ。
マッチを灯した時のような束の間の温もりだと最初から分かっていたけれど、その炎を消さない魔法はなかったようだ。
髪を撫でられ、背を撫でられ、うっとりとおじさんに体重をあずける。
人の温もり、それはおじさんちに来るまで誰からも与えられなかったものだった。
「少し痩せたか?」
深みのあるおじさんの声が頭蓋から伝わる。
「月のものが重かったの」
「馬鹿、そういう時はちゃんと休め」
「休んでいたわ。眠りすぎてしまって、ご飯を食べ損ねただけよ」
「仕方ない。夕食は肉料理だな」
「やめてよ! 今からメニューを変更したら皆に心配されるわ」
おじさんは主人が食べるものと同じものを、使用人に賄いでも食べさせる。おじさん自身は舌が肥えているわけでもないのに、使用人に贅沢なものを食べさせる為に珍しい料理を厨房に注文するのだ。
「今日はチキンのシチューよ。パイにしようかって言ったけど、料理長がおじさんは手間のかかった料理より豆の入った煮込みが好きだからって」
「オーニールの料理はなんでも美味いからな」
おじさんはぶっきらぼうだけど、使用人から慕われている。
料理長も、おじさんには返しきれない恩があると常々言っている。
私がこの家に来てから、辞めていった使用人は一人もいないし、新しく雇われた者もいない。
だからこそ、私が雇ってもらえる隙間がないのだ。
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