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おじさんは水をかける。火はつかない。
まだ仕事が残っているようで、説教が済むとおじさんは仕事に戻っていった。
明日、帰ってきたら縁談の話をすると言い残されて私はうつむくことしかできなかった。
本当に私の縁談が決まってしまったんだと、がっくりと肩を落とす。
私は別に富豪と結婚して幸せになりたいわけではない。
今のように、ここの使用人に混じって働いていけたらそれだけでいい。
それが無理なら、家を出されたってかまわない。おじさんを訪ねられる場所で細々と暮らしていけたら、それだけでいい。
私はべそべそと泣いていた。
泣きながらマッチを擦っている。
納屋に置きっぱなしになっていた古いマッチは湿気ている。私の涙でもっと湿気ただろう。
やっと一本火がついたとおもったら、今度は藁が湿っている。数日前に降った雨がまだ濃度のある霧となって地表近くにとどまり、ベタベタと敷き藁を湿らせているのだ。
何もかもが私の行く手を阻んでいるように感じて、もっともっと悲しくなる。
『消えないマッチ』を持ってくればよかった。いや、だめだ。人気商品だから、あれは一本も無駄にはできない。
それでもなんとか白い煙を大量に出して藁が燃えかけていたところで、横からザバリと水をかけられる。振り返ると、仕事から帰ってきたのか、すっかり気の抜けた部屋着のおじさんがバケツをもって仁王立ちをしていた。
「お前は何をしているんだ。どうして馬が外に出ている?」
「馬が火事で怪我をしないようにでございます、ラース様。馬屋に入っていた物も外に出しておきましたから、心配無用です」
私は目を伏せてつっけんどんに答える。
この人とはもう今までのように親しくできないのだと思うと、悲しくて顔も見れない。
「なんだ、何を怒っているんだ。いいから普通に話せ。なぜこんなところで火を焚く必要がある?」
「馬屋を燃やそうとしていたのですが、あの時のように火事にならないのでございます」
「……それで、馬屋を火事にしてどうするつもりだ」
おじさんは呆れたような声を出した。
「ラース様の家でまた働いてお返しします」
「い、意味が分からん!」
次の言葉が続かず、おじさんは頭を掻きむしった。
「ねぇ、おじさん……悪い娘だったらここにいられるの? いい子になるならここにいていいって言ったから、頑張ったのに」
私は再びべそべそと泣き出した。
「あー、悪い娘どころか、頭のおかしい娘を拾ってしまったな。お前、その歳でボヤなんか出して許されると思うなよ。馬屋を焼いて許されたのは子どもだったからだ」
そんなのは分かってる。本当は馬屋を焼くつもりもなかった。
見苦しい悪あがきでおじさんを困らせている。
でも、何か奇跡が起こって、おじさんを困らせるようなことが起きて、私を嫁にやるのを踏みとどまってくれるのではないかと、そんなことを考えていた。
「わたし、どこかにお嫁に行くより、使用人としてずっとここで働いていたほうがいい。メイドの仕事だってできる様になったわ。どうしたら正式に雇ってくれる?」
「わざわざ下働きをするより、おまえの高い社交能力を使って商売を始めたらいいだろう。そのためにそういうことを許すような奴ばかりを結婚相手の候補にしていたんだ」
おじさんの語る私の幸せには、私の望みは何も含まれていない。
私はほんの些細な、この家との繋がりが欲しいだけなのに。
「余計なお世話なのよ! 張形で処女を捨てたような女よ。そんな女を妻に欲しいなんて人、いないわ!」
「そんなわけないだろ。俺がどれだけお前をくれという縁談の話を断っていると……」
でも、そんな耳触りのいいことを言っても、おじさんは私の縁談を決めてしまったのだ。
私の幸せを願ってのことだとは分かるのに、今はおじさんがどうしても私を追い出したいと思っているように思えて、泣けて泣けて仕方ない。
「おじさんの妻になるだなんて無理な事を言って困らせてごめん。私、明日にはこの家を出ます。それから、年末にどこかで子種をもらって、どこかで子どもを産んで、そしたら出戻っておじさんに泣きついてやるわ!」
「はぁ?!」
「おじさん、子どもには甘いから、哀れな私と子どもを追い出したりしないわよね」
「おかしなことばかりいうな。ちょっと待て、そんな自暴自棄なことをしなくても……」
「わたし、本当に誰かと結婚するのは嫌なの」
「それはわかった。お前の意志を軽んじていた、悪かった――だからって、どうしたらどこの馬の骨ともわからない奴に子種を貰うなんて話になるんだ。お前はいつもやることが突飛すぎるんだ」
「私、ここに居残る方法をいろいろ考えてみたのよ。確実に一つ成功しそうなのがあってね。哀れな女が乳飲み子を抱いてここに転がり込むの。おじさんはそういう可哀想な身の上の者に助けを求められたら誰にだって手を差し伸べてしまうじゃない? 私を拾ったのだって、私がとびきり可哀想に見えたからだわ」
「そんなわけあるか。俺はお前を施設にやることだってできた。俺がお前をここに置いたのはお前が……」
「私が特別なわけじゃない。おじさんが孤児に物凄く弱いのを知ってるのよ。孤児院を建てたり寄付をしたりするのだって、何かの埋め合わせをしているみたい」
「それは、そうだ。だからって、これ以上俺やお前の様な境遇の子を増やすな」
「また説教? おじさんこそ、子どもの世話をしたいなら、普通に結婚したらよかったじゃない。孤児院の子や私を当てにしないで、自分で早めに結婚して、自分の子どもを育てていればこんなことにはならなかったのよ! それじゃなくても、養子をとればよかったんじゃない? おじさんの子どもになりたい子は私じゃなくてもたくさんいるわ」
「そうじゃない……」
おじさんは悲しい顔をした。
「おじさんに家族がいれば、こんな私に離れがたくなるほどの幸福を与えて、それを取り上げるなんて残酷な事をしなかった」
「エマ……」
「消えてしまう幻なら、あの時、本当に川に身を投げてしまえばよかった!」
私の思い以上に私の口はよく回る。こんなことを言いたいのではないのに。
おじさんを困らせることばかりが口を衝いて出る。
「お前は勘違いしている。まず、お前がどこに嫁に行ったとしても、俺との繋がりは切れるわけじゃない。俺は、嫁いだ家に頻繁に顔を出して、お前の行く末を見守るつもりだった。なんだったら、いずれお前の子を孫の様に猫可愛がりするのが夢だった。お前の産んだ子ならさぞや愛らしいことだろうと思ってな」
「だから、そうしてやるって言ってるのよ」
「はぁ、思いなおせ。今までの事は俺が一方的過ぎた。もう一度お前がどうしたいのかちゃんと聞くから」
おじさんは私を抱き寄せて、背を撫でる。
「機嫌を取ろうとしないで! 捨てる前に優しくされたって、こっちが辛くなるだけなんだから。もういいわよ、お望み通りどんな奴にだって嫁いでやるわよ。おじさんの馬鹿っ!!」
私はおじさんの手を払いのけて家を飛び出した。
途中、庭師のワグナーが庭の落ち葉を掃いていた。
「エマ、どこへ行くんだ? なんだ、またべそかいて」
「おじさんと喧嘩したから散歩してくる! 肥料屋の横も通るから堆肥の注文をしておくわ。料理長には夕飯までには帰るっていっておいて。今日はデザートにキャロットケーキがあるんですって」
おじさんとはこうやって何度も喧嘩をした。だいたいいつも悪いのは私だ。
叱られて、へそを曲げて、飛び出して、それでも夕食までには帰って来る。
幸福なことに、今までそんな我儘が許されていたのだ。
「わかった。旦那様には思い詰めた顔をして橋の方へ行ったって伝えておくよ」
「……別に追いかけて欲しいわけじゃないからいいの。ちょっとカッとしたから頭を冷やしてくるだけよ」
「わかっているよ。エマは本当に昔から旦那様が大好きなんだな。心配ないさ。旦那様の様子を見るところ、もう一押しってところさ」
それには答えずに手を振って川の方へ向かう。今回も聞き分けが無いのは私の方だ。
あれだけごね倒してもだめだったのだ。いっそあきらめがついた。
「追いかけてきてもらっても……もう手遅れなのよ」
決まってしまったものは仕方がない。これ以上おじさんの顔を潰すわけにはいかない。
本当は最初からわかっていた。
私は嫁いでもおじさんの力になれる。いつも一緒にいなくても、私が嫁ぎ先の妻として社交界で華やかに振る舞って、仕事でもっと成功して、おじさんの立派な娘だと世間に知らしめることこそがおじさんの支えになると。
ただ、もっと側にいたかった。
――帰ったら縁談を受け入れるとおじさんに告げよう。
鼻の奥が痛い。
嵐のような初恋は終わる。
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