ジンバ

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それから、金庫の暗証番号を調べる傍ら、たまにルーシーのボール遊びに付き合ってやることにした。 それだけじゃない。父親と一緒にルーシーの散歩に行くこともあったし、母親の裁縫の手伝いをすることもあった。 全ては情報のため。そう思っていたが、次第にこの日常を俺は楽しんでいた。 父親も母親も、愛情深い人たちだった。 ある時、母親が離れで泣いているところを見かけた。 一枚の写真を手に、涙を目に一杯溜めている。 俺に気づいた母親は、「ごめんなさい」と俺に謝って、涙を拭った。 手に持っていた写真は、ジンバの兄貴の写真だった。スーツを着て、屋敷の門に立っている。 「大学に通ってすぐに戦争が始まって、あの子は軍に志願していった。でも、志願と言っても、半ば強制みたいなものでしょうね」 団長の情報では、兄貴は国境線沿いの街で戦死したらしい。俺の仲間もあの戦いで少なからず死んだ。 志願兵上がりが生き残るには困難な戦いだったのは間違いない。 「私が」 母親は写真を抱きしめながら声を震わせた。 「早く家に帰るように言っていれば。是が非でも家に連れ戻していれば、こんなことには」 その時、俺は気づいた。 この国には、こういう母親が溢れている。でも、そういう事実を知っていても、子供や夫を失ったその苦悩を間近で見ることはなかった。 母親が悲しみの果てに苦しむ姿は、とても生々しくて、とても神聖だった。 その聖なる領域に、思わず俺は手を伸ばした。 母親の肩に手を置くと、彼女は顔を上げて、俺のことを抱き寄せた。 石鹸の甘い匂いと、肌から伝わるじんわりとした体温。 なんて心地良いのだろう。そして、不思議と安心する。 こんな気持ちを抱いたことはなかった。人に抱きしめられることが、こんなにも温かで、落ち着くなんて。 気づいたら、俺を抱きしめてむせび泣く母親の頭を撫でていた。 今の俺は、俺自身でないかのようだった。その時の俺は、完全にジンバになっていた。 屋敷に潜入してから1ヶ月が経った頃、団長から接触があった。 夜、屋敷の門に行くと、団長が一人待っていた。 「よお、久しぶりだな。もうすっかりドリガ家の一員じゃねえか」 「いえ、そんなことは」 「そうか?犬を連れて父親と散歩したり、母親と抱き合っているらしいな」 俺は真顔になって言葉を一瞬失った。 「何かあったときの保険だ。使用人の一部を買収しておいた。お前の様子は逐一報告するようにさせている」 そういうことか。少し油断していた。気を引き締めなおし、団長と向き合う。 「目的は忘れてねえよな?」 「もちろんです」 「なら、金庫の暗証番号は?」 「もう少しでわかります」 実際は、まだ何もわかっていない。 それを敏感に悟ったのか、団長は俺の前に詰め寄って言った。 「狂犬ともあろうお前が、こんな家族ごっこに絆されるとはな」 「いいえ」 「どうだろうな?実際、何の成果もなく、1ヶ月無駄に過ごしてたわけじゃねえか」 「・・・・」 「俺がお前を拾ってやったこと、忘れてねえよな?」 「はい」 「傭兵になった時に交わした誓いは?」 「覚えてます」 成功の二文字以外は認めない。負けて生きるなら、勝つために死ににいけ。 それが傭兵団の鉄則だった。 「よし。ならこれをやる」 団長はそう言って、コートの内ポケットからアルミの箱を取り出した。 中身を見せられ、俺は動揺を隠さざるを得なかった。 「ドリガの連中を脅して、暗証番号を聞き出したら殺せ」 中に入っていた注射器2本を、団長は俺に差し出してくる。 「こいつを使えば心臓発作に偽装できる。気を付けて扱えよ」 脅すのはわかる。だが殺す理由は見当たらない。 しかし、それを聞けば確実に疑われる。 「わかりました」 「よし」 俺はおとなしく注射器を受け取った。 「じゃあ、すぐに取り掛かれ。ここで待ってるからな」 団長は満足そうに笑いながら、煙草を吸い始めた。 思えば、団長は最初からドリガの連中を殺すつもりだったのだろう。 盗みを働くわけだし、なるべく俺たちが関わった証拠は消しておくべきだ。 命令を下された以上、狂犬としてやるべきことをやるだけだ。 だが、今の俺に彼らを殺せるだろうか。 ここでの生活は、俺が狂犬ではなく人間なんだと少しずつ気づかせてしまっていた。 傭兵団にいた頃には味わえなかったものが、ここにはあった。 それを、俺はこれから壊そうとしている。 いや、思えば俺は、これまでこんな風に幸せに生きていたかった人々から、多くの大切なものを奪ってきた。 そんな俺が、こんな幸せを享受してしまったがゆえに、こんなにも苦しんでいる。 これは俺の罰なのだろう。だとしたら相応しいくらいに残酷だった。 注射器を隠しつつ、父親の部屋の扉を静かに開けた。 暖炉の前の椅子で、父親は俺に背を向けてブランデーを煽っていた。 「ここの生活はどうだ?ジンバ」 俺が近づくと、父親はブランデーのグラスを置いて、静かにそう言った。 「楽しんでくれたならいいのだが。その様子だと、私に引導を渡しに来たのだろう?」 俺の方にゆっくりと顔を向けた父親は、優しそうに笑っていた。 「・・・知っていたんですか?」 「ああ」 もはや隠し通しても無駄のようだった。 俺が尋ねると、父親はゆっくり頷いた。 「自分の息子なんだ。どんなに顔が似ているとはいえ、君がジンバではないことはわかっていた。ついでに言えば、妻もな」 「では、なんで俺をジンバだと?」 「なぜだろうな」 再びブランデーを煽り、父親はやけになったように言った。 「戦争で日常を奪われ、さらには子供も亡くした。私たちは、早く元の生活を取り戻したかった。そのために必要なものがあったのだ」 「なんですか?」 「希望だよ」 早くとどめをささなければならない。団長の命令だ。 でも、俺はこの話の続きを聞かずにはいられなかった。 「私たちは失ったものが大きすぎた。だから、希望が必要だったのだ。せめて、ジンバは生きている。生きて、また私たちと一緒に暮らせる。そんな希望を抱いて、私たちは生き延びてきた。そして出会ったのが、君だった」 父親が立ち上がったので、俺は反射的に腰に隠していたナイフに触れてしまった。 「ジンバではないとすぐにわかった。だが、希望を抱いてここまで生きてきた以上、諦められなかった。だから、君をジンバだと思って引き取ったのだ。私たちは弱い人間だ。幻想に縋っていなければ、脆く崩れてしまうほどに」 弱い人間、だと嘯く父親は、堂々と立って、俺を見据えていた。覚悟を決めている人間の目をしている。 でも、確かに弱いのだろう。 弱いからこそ、愛を持って俺を受け入れたのだ。 そんな彼らを哀れに思いつつ、同時に勇敢だとも思った。 「金庫の暗証番号は11260324だ」 父親は微笑みながら答える。 「息子二人の誕生日だよ。秘書から何度も変更しろと言われたんだがね。どうしても変えられなかった」 俺はナイフから手を離してしまった。 代わりに、注射器に手を伸ばす。 俺の鼓動は、確実に早くなっていた。 注射器を掴み、俺は一歩を踏み出した。 「ご苦労さん」 門の前で団長は待っていた。 その後ろには、武装した仲間が数人、車の前で待機している。 俺が敬礼すると、団長も敬礼で返してきた。 「暗証番号を聞き出しました」 「おお、でかした」 メモ用紙を手渡すと、団長はにやついた。 「さすがは狂犬。良い働きをしたな」 そして口元をひくひくと動かしながらにやつく。 まだ、団長は何かを企んでいる。 俺から背を向けた瞬間、拳銃を手にしたのが見えて、俺は一歩退いた。 しかし、左肩に当たってしまう。 「あー、ばれちまったか」 血が吹き出る肩を抑えつつ、俺は臨戦態勢を取った。 「知ってるか?ドリガのやつら、兄貴が死んだ後、ジンバに遺産の相続権を移したんだ。つまり、ジンバが死んだら、遺産は宙に浮いたままになる。ドリガの莫大な遺産だ。かすめ取るにはちょうどいいだろ?」 元からジンバ、つまり彼になりすました俺を殺すつもりだった。 団長の腹積もりをそこまで読めていなかったのは、完全に俺のミスだ。 背後の仲間も俺に一斉に銃を向けてくる。 「お前のことは好きだった。だが、これも団のためだ。てなわけで死んでくれ。命令だ」 団長が銃口を俺に向けてくる。引き金を引こうとしたその時、遠くから唸り声と共に、何かが団長の左腕に噛みついた。 「なんだ!この!」 ルーシーだった。 腕を噛まれた団長はルーシーに向けて銃を撃った。 その隙に、俺は腰のナイフを抜いて、団長の懐に入り、左足と右腕を切り裂いて、銃を奪った。 その銃で、他の仲間を素早く仕留める。 全員、動かなくなった後、俺はルーシーに駆け寄った。 ルーシーの腹から黒い血が溢れだしていた。 俺の方を見て、辛そうに悲しく鳴いている。 「・・・すまない」 急に目が熱くなった。これはそう。涙だ。泣くのは孤児だった頃以来だった。 ルーシーはそんな俺を見て、鼻先で俺の手をツンツンと突いた。 「この野郎・・・」 起き上がってきた団長に、俺は銃を向ける。 「本当はドリガの連中も殺してねえんだろ?」 「ああ」 注射器は父親の目の前で壊した。 やはり、俺には彼らを殺すことはできなかった。 「狂犬の目にも涙か。せいぜい家族ごっこを楽しんどけ。もうすぐ仲間たちが屋敷にやってくる。その時、お前らは皆殺しだ」 団長がそう言い終えた後、引き金を引いて脳天を貫いてやった。 ルーシーはすでに息絶えていた。 俺を守ろうとして、こんなことになって。 お前は良い奴過ぎた。 「ありがとうな」 ルーシーを抱きかかえて、門の隅に亡骸を置いた。 そのまま、俺はかつての仲間たちが来るのを迎え撃つ準備を始める。 これ以上、何も壊させない。 俺は最後に、ドリガの人たちのために、手を汚してやる。 狂犬から、彼らのジンバになるために。
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