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「ただいまぁ」
後にリピート再生したなら気恥しくなるほどの朗らかな声色で、憂姫は玄関ドアを開けた。いつもなら焼酎を片手に「おかえりぃ」と呼応するはずの母が、見当たらない。
「母さん、お風呂……じゃないよね」
二間にキッチンとバストイレだけの手狭なアパートなのだ、水を使っていないことは玄関先でも分かる。
━━まさか、飲んだくれて倒れてる?
明かりは点っているものの、室内からは不穏な空気が漂っている。恐る恐る足を踏み入れるも、人の気配はない。救急や警察に届けるような事態でなかったことに、ひとまず憂姫は安堵のため息をついた。
「呼び出しでも、くらったかな」
昼間はパートタイムでスーパーの総菜作りを担っていた母は、時折スナックに駆り出され、ホステスの助っ人らしきこともしている。
「金曜日の夜だし。同い年のママから『人手が足りない』とかなんとか泣きつかれて、急きょ出動して━━」
勝手に想像したストーリーを声に出しながら、乾いた喉に水を流しこもうと憂姫はキッチンへ向かう。そこで初めて、焦げ茶色の食卓に一枚の紙切れが載せられていることに気づいた。
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憂姫へ
とっても好きな人ができました。
これからは、彼と共に生きます。
健作叔父さんのところで暮らしてください。
話はつけてあります。
美優希
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「まっ……」
バイトの挨拶でも出さないような、本日一番の大声が憂姫の唇から漏れる。白い紙切れは、置き手紙だった。
「またやられた……美優希ぃ!」
━━六年ぶり、二回目の裏切り!
自分とよく似た母の名を、唸り声を交えて憂姫は叫ぶ。上下左右、近隣の部屋から苦情が来ない程度に音量を抑えながら。
満月と昇給。思えば、これが凶事の前兆だったのだ。
心躍る出来事のあとには、奈落の底へと突き落とされる惨事が待ち受けている。
そういうカラクリなのだ、人生は。
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