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3.
「裕香さんは?」
「布団引いて寝かせたから大丈夫」
和也が居間で待っていると、静香が入ってくるなりがそう言ってくれたので、和也はホッとした。
まさかあの後、いきなり裕香が泣き出すとは思ってもみなかった。一向に泣き止まない裕香の声を聞きつけた静香が、すぐに部屋へと引き連れていってくれなかったら、かなり困ったことになったかとしれないと思うと、和也としては静香に感謝しきりだった。
「ありがとう。助かったよ」
「別に。どうってことないわよ。ただあの人の前で蛇の話は禁物よ。気にしてるんだから」
蛇の話を先にしたのは裕香の方なのだが、和也は頷いた。
「その蛇のことで君に聞きたいことがあるんだ」
裕香のあの様子では、蛇に関する言い伝えについて聞き出すことは不可能だろうということで、和也は静香から聞くことにした。
静香が年齢の割に、論理的に話すことができたのは幸いだった。
静香の話によると、この辺りには、昔から蛇に変身する人間の言い伝えがあるとのことだった。もっとも自在に変身できるという話もあれば、特定の夜にのみ、女だけが変身できるという話もあり、内容は一致していなかった。ただいずれの話でも宝物を見つけたり、相手を殺したりして家を乗っ取っているという金銭絡みの共通点があった。
「でね、うちの祖先にそんな力を持った人がいたんじゃないかって言われてるの」
それはなぜ? と言いかけて、和也はあることに思い当たった。
「もしかして、その力を使って財産を蓄え、この家を持てるようになったということ?」
「そうそう。我が家は代々地主なのよ。この山も。ふもとの農家にもたくさん土地を貸してる、あ、いや、貸してたしね」
GHQの命令により、かつてのような地主制度は解体されることとなった。
いわゆる大地主というものは、今後の日本では減っていくだろう。
もしかしたらそのことで、ふもとの農家と月島家の力関係は微妙に変わってきているのかもしれない。だとしたら夫もおらず、大切な宝物を盗まれ、さらには蛇人間の噂までたてられた裕香が、精神的に追い詰められているのももっともだと和也には思えた。
「君は平気なの?」
「私? 気にしてる暇もないわよ。それに本当に蛇に変身する力を持ってる人がいるなら、手を貸してほしいくらいだわ。最近、お金の管理も手伝ってるんだけど、これが大変なの」
「蛇には手はないよ。まだ猫のほうが使えるだろうね」
和也がそう言うと、静香は畳の上で足をバタバタさせて笑った。
「あの裕香さんがこの家に来たのはいつ頃なの?」
「戦前よ。その前は赤坂で働いていたんですって。父が見初めて嫁に来たはいいけど、わずか三年で父は病死。それからは使用人も辞めていくし、戦争は始まるしで、あの人もこんなはずじゃなかったって後悔してるんじゃないかしら」
静香はこともなげに、そんなことを言った。
「とすると、中矢さんだけは残ってるわけだ」
「あの人はここの生活を気に入ってるみたいよ」
「君はどうなんだ?」
「私? そうね、家がもっと裕福で、戦争の影がなかった女学校時代が楽しかったのは事実よ。でも昔を懐かしむのは年寄りのすることよ。そう思わない?」
「思い出の内容によると思うね。若者だけが懐かしく思う思い出もある」
静香は少しきょとんとした顔をみせたが、すぐにまた話だした。
「あ、そうだ。友樹さんにはまだ会ってないわよね?」
「友樹? ああ、君からみたら叔父さんにあたる人? ドイツ帰りの」
「そうそう」
静香は和也の手を掴むと、引っ張るようにして立ち上がった。
その手が少し湿っぽいことに、和也は一瞬どきりとした。もちろんそれは静香が仕事に忙しくしてかいた汗なのだが、蛇のぬめりを想像させるには十分だった。
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