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1 拝啓 新緑の頃
『拝啓
新緑の頃、風薫る季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
初めてお会いしてからもう、三年が経ちましたね。
その節は挨拶もできず、突然のお別れとなってしまい、本当にごめんなさい。
シワ一つないぴかぴかの黒いスーツに袖を通して街を歩く若者の姿を目にすると、君の初々しい顔が今でも鮮明に思い出されます。
あの日、公園で泣いている君を目にした時、僕はとっても驚いたのですよ。泣き落としは君の作戦だったのでしょうか? ともあれ、あの日君に出会い、一緒に相場を駆け回った思い出は、僕の心の中でずっと、美しく煌めいています。
三年が経ち、とても立派な証券マンになったでしょうね。できることならば、その姿を一目見たいものですが、君もご存じの通り、僕はだいぶ遠くに引っ越してしまったので、お会いすることは難しいでしょう。とても残念です。……』
ぽつり、と紙面に雨粒が落ちて、中性的で流麗な文字が滲む。そればかりか、どうしたことか視界がぼやけて、続く文字を追うことができなかった。
文字を打つ雨粒を拭い、それが生暖かいことに気づき、これは空ではなく僕の身体から流れ出た物なのだと気づく。鼻の奥がつんと痛い。頬を流れた温かなものが口の端に流れ込み、軽く舐めてみれば微かな塩気を感じた。
僕は、泣いていた。あの日、春風さんと出会った初夏の公園で。あの時と同じように、迷子の幼子みたいに途方に暮れて、涙を流していた。
僕は今、あの人に報いる生き方ができているのだろうか?
――三年前、五月。
某大手証券会社の新入社員である僕は、約一か月間の研修を終え、営業店に正式配属となった。噂によれば、優秀な新入社員は大きな支店に配属されるのだというが、期待されていないらしい僕が所属することになったのは、とある地方都市の小店であった。
この支店に同期はもう一人。すらりと背が高い女性で、美紀ちゃんと言う。黒目がちな大きな眼が特徴的な、典型的な美人だ。他支店に配属になった同期からは羨ましがられたのだけれど、そんな悠長なことを考えている余裕がないくらい、仕事は過酷であった。
金融知識も社会人としてのマナーも何一つ満足に身に付けていない僕らは、最初からお客様を担当させていただけるわけではない。全てのお客様は、先達が汗を流しながら関係を築き、資産を守り増やした、大切な顧客だ。ほんの二月前までは無邪気な学生だった僕らに、任せられるはずがないのだ。
だから毎年、新入社員の最初の仕事は、新規顧客開拓だった。電話営業をすることもあるけれど、ほとんどの時間を訪問営業に費やした。
ネット社会に慣れた世代である僕らには、会社と取引もない知らない人に電話をすることも、どんな人が住んでいるかわからないお宅のインターホンを押すことも、全てが未知の領域だった。
高齢者から金をだまし取る詐欺が横行し、知人に見せかけた強盗殺人が騒がれる昨今。時代錯誤にも思われる営業活動だったが、僕らにはやらないという選択肢はない。毎日ずたずたに心を切り裂かれて支店に帰り、成果がないことを上司に詰められて、心は紙吹雪よりももっと細かく千切れて飛んでいく。
「結構です」「うちは株はやらないのよ」「ごめんなさいね」「株屋は帰れ」「そんな仕事をしていて恥ずかしくないのか」
受話器やインターホン越しに返って来る言葉は多様だったが、ほとんどが拒絶の言葉だった。気の弱い僕は、怒鳴られるのはもちろん怖かったのだけれど、「頑張っているのにごめんね」と辛そうに言ってもらう方が、胸が痛んだ。
ひと月ほど経った頃、同期の美紀ちゃんに最初のお客様ができた。僕にはまだ有力な案件がなく、焦燥感に押し潰されそうになっている時期のことだった。
支店の雰囲気はいつも殺伐としている。
誰かが怒りに任せて投げた、四季報という分厚い企業情報誌が文字通り宙を飛び交って、時々パソコンを直撃して画面が割れる。怒号は日常茶飯事のことで、配属から一ヶ月もすれば、もはやBGMのように僕の耳を素通りするほどだ。
だけど今日は、美紀ちゃんの晴れの日だ。職場の雰囲気は相変わらず悪かったけれど、終業後、急遽飲み会が催されることになった。支店を一歩出れば先輩たちは皆、人が変わったように陽気になる。
一方の僕は、飲み会が催されている駅前の居酒屋チェーンで、複雑な気持ちで美紀ちゃんのグラスにビールを注ぐ。美紀ちゃんは零れそうなほど大きな目で、グラスに注がれる黄金色の液体をじっと眺め、上部に蓋をした泡から溢れた一筋を、赤い舌でぺろりと舐めた。
「七対三」
「え?」
僕は聞き返す。美紀ちゃんは今日の主役だというのに、どこか浮かない顔をしている。
「綺麗に七対三だよ。ビール注ぐの、上手だよね」
微笑んだ美紀ちゃんの綺麗な顔が、ほんの少し引き攣って見えた。僕は無意識に手を揉んだ。
「……ありがとう」
僕よりずっと優秀な美紀ちゃんは、不出来な同期の優れた点を、どうやってか探そうとしてくれたのかもしれない。だって、ビールの泡を作る事なんて、見ず知らずの人に何百万という金融商品を買ってもらうことに比べれば、本当に何でもないことのように思えたから。その日から、美紀ちゃんとは少し疎遠になった。
それからしばらくしても、いっこうにお客様になってくれる人は現れない。直属の課長が痺れを切らして僕をなじる。課長は、支店長に指導力不足だと叱責されている。たまたま支店長室から漏れ聞こえた会話によれば、新入社員の成績が悪いので、支店全体の評価が下がるらしい。パワハラの権現のように思っていた支店長もまた、さらに偉い人達から、抑圧されていた。
会社と言うものは理不尽だと思った。もう辞めたい、辞めてやる。そう思ってから気づいた。僕が辞めればみんな幸せになるのではなかろうか。
美紀ちゃんも、堂々と顧客獲得を誇れるし、僕の顔色を窺いながら会話をする必要もなくなる。課長は、少なくとも僕のことでは詰められない。僕がいなければ、支店の評価も下がらない。
気づけば僕は、新規顧客開拓エリアの片隅の、小さな公園のベンチで項垂れていた。みじめだ。僕は、疫病神だ。いっそこの世に存在しない方が良いのではないか……。
膝の上に握った拳に、雨粒が落ちる。それは僕の革靴の側にも落ちて、土には黒い水玉模様が描かれた。僕は空を見上げた。雲一つない快晴だった。雨ではない。清々しいまでの青空の下で、僕は、泣いていた。そして、春風さんに出会った。
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