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4 春風さんは独り暮らし
春風さんは独り暮らしだった。娘さんが一人いると聞いたたことがあるのだが、若い頃に離婚をしたので親権は元妻に渡り、ほとんど会わないまま、お子さんは大人になったという。今さら気軽に会話を交わせるような関係性でもない。春風さんは、所帯を持っていた頃に買った一軒家に、今でも一人で住んでいた。
疲労でぼんやりとした頭のまま、黒いインターホンを押す。人工的な呼び鈴の音が、二回鳴る。春風さんは普段よりも少し遅れて返事をくれた。
「はい、どなたでしょう」
「……春風さん。大村証券の、遠山です」
「……ちょっと待っていなさい」
暗い僕の声を反映したように、少しだけ硬い声音だった。ぼんやりとしたオレンジ色の玄関照明の奥、居間に通してもらう。広々とした洋室。隣り合わせのキッチンからは、夕食の残り香が漂ってきた。香ばしい匂いだったように思うが、緊張に震えていた僕の鼻には、何の匂いかまでは判別ができなかった。
春風さんはいつも、ヤカンに煮出した麦茶を常備していた。今日もそれを、いつもの琉球グラスに注いでくれる。娘さんが昔、修学旅行か何かで買って来てくれたお土産だった。
「それで、こんな時間にどうしたんだい」
僕は琉球グラスを握り締め、束の間思案した。苦しみ以外の感情を持ち合わせず、半ば朦朧とした意識のままこの家に上がり込んでしまった。一度は断られた顧客を翻意させ、僕の年収の倍ほどの株式を買ってもらうことができるだけのセールストークは、全く用意していなかった。それでも、やるしかない。僕の口は、頭に先だって、勝手に動くようだった。
「この前のIPO、やっぱり買っていただきたいんです」
「それはこの前断ったよね」
「でも、あの株は……とっても良い株だと思うんです」
春風さんは少し首を傾けた。僕の口は、ロボットのように自動で動いた。
「今は原油が高いので、注目度が低くなってしまっているだけだと思うんです。初値は、春風さんがおっしゃるように難しいかもしれません。でも、驚くほどに急成長した企業ですよ。長い目で持っていただければ、きっと儲かります」
「僕が長期投資は好きではないこと、知っているよね」
もちろん知っている。春風さんはいつも、「もう老い先短いから」と言って、短期で利益が出そうな銘柄を好んで買っていた。僕も、それに見合った銘柄を探して春風さんに提案をしていた。それでも僕の言葉は止まらない。
「はい、知っています。ですが、これはIPO。こんな優良銘柄を、販売手数料なしで買えるんですよ」
「長期で考えるのなら、ありかもしれないね。でも僕には合わないな」
「でも!」
僕は言い募った。我ながら、筋の通らない支離滅裂なセールストークだった。
「一つくらい、長い目で成長を楽しめる銘柄を持ってみるのも、面白いと思います。そうでしょう?」
春風さんは僕の顔をじっと見つめた。心の奥底の、泥炭のようにドロドロとした、どす黒い感情を見透かすような視線だった。やがて春風さんは、愛用している茶渋のついたマグカップを傾けて、麦茶を飲み込んだ。それからテーブルに両腕を突いて、少し身を乗り出した。
「僕が生きているうちには、この株は上がらないと思う。君は上がると思うの? 本当にそう思う?」
その瞳は、いつもと何ら変わらない慈愛に満ちた光を放っていたけれど、どこか試すような色を宿している。もう一押しだ。もう一押しで、買ってくれる。僕はもうすぐ家に帰ってご飯を食べて、日付が変わる前に温かい布団を被ることができる。
良心は、どこかへ吹き飛んで行ってしまったようだった。僕は今、大切な恩人を言い包め、意に沿わない物を買わせようとしている。罪悪感を感じるべきなのに、春風さんが頷くのを心待ちにしている。僕は、張り付いたような笑顔で、罪を犯した。僕の心はこんなにも弱い。
「もちろんです。売り切れる前に、買って欲しいんです」
春風さんの瞳が、少し揺れたようだった。やがて前傾を解き、背もたれに若干寄りかかるようにして、やっと頷いた。
「わかった。君がそこまで言うのなら」
ちくり、と胸が痛んだけれど、その疼痛を安堵が覆い隠して、僕は何も感じなかった振りをした。
僕は営業鞄から事前交付書類一式を取り出して、春風さんから受領の署名をもらった。ちらりと視線を上げれば、大きな柱時計の短針は、すでに「10」の位置を越えていた。
「あー、やっぱ跳ねないな。それどころか結構下がりそう」
春風さんに買ってもらった株式の上場日。この日、あの株に初めて値段が付く。買値よりも高ければ万々歳だが、低ければ短期で利益を出したいタイプの投資家にとっては、この投資は失敗も同然だ。
朝会の後、同じ営業五課の先輩が呻いていた。この支店では、「五課の五はゴミの五」と公然と呼ばれている。失礼ながらこの先輩からも、あまりやる気が感じられない。仕事に不向きである度合いで言えば、気弱すぎる僕と、いい勝負だろう。
「遠山あ。あの人、春風さんだっけ? 5,000株も持ってるんだろ。朝一でフォローの電話入れとけよお」
欠伸をかみ殺したような間延びした声で言って、先輩は猫背でキーボードを打ち始めた。僕はパソコンの画面上に表示された春風さんの見なれた電話番号を見つめた。
これから僕は春風さんに、あの株が上がらなかったことを伝えなくてはいけない。心臓が破裂しそうなほどに脈打っている。時計の秒針が、刻々と時を刻む。やがて針は「12」を指して、支店内に株式取引の始まりを告げる「寄り付き!」という野太い叫びが響いた。
打たれたように、営業員が電話のボタンを打つ硬質な音が響く。
「あ、麻生さん。ええ、今日が上場日で」「はい。申し訳ございません。もっと跳ねると思ったんですが」「この状況では値上がりは厳しいです。全株売却して、別の株に」「指値⁉ いえいえ、売り損ねる方が大変ですよ」「申し訳ございません。次こそは」「すみません」「私の見込み違いでした」「申し訳ございません」「申し訳ございませんでした」……。
支店内に飛び交う言葉が僕の耳に突き刺さり、胸を抉った。一体何人の顧客の大切な資産が、目減りしてしまったのだろうか。僕は、春風さんの電話番号を睨んだまま、動けない。気づいた課長が、僕の電話を叩いた。
「おい、遠山。何してんだよ。早く電話しろ」
その言葉で我に返り、僕は震える指でボタンを押す。何度も何度もかけた番号だ。指は自然に動く。受話器を耳に当てる。プルルルル、とコール音が鳴る。三コール目で、春風さんの声がした。
「はい、春風です」
僕は、言葉が出なかった。この株は、上場日には上がらないと知っていた。新入社員の僕でもわかるくらい、それは明確だった。確かに、長期で見ればいい会社だと思う。配当利回りもいいし、株主優待も奮発してる。何より、健全な経営をしている優良企業だ。でも、その長所のいずれもが、春風さんの意向には合わなかった。
「もしもし」
電話をかけておきながら無言の僕を訝しんだ春風さんの声。僕は、恐る恐る口を開いた。
「春風さん、この前の株式ですが」
「ああ、下がっているね」
「……申し訳ございません」
そのまま僕は、黙り込む。電話の向こうで、微かな嘆息の気配がした。
「仕方ない。株価の動きは、誰にもわからないんだ。ダイヤの原石は、そう簡単には見つからない」
それは、僕が勧めた銘柄が暴落した時に、いつも春風さんがかけてくれる言葉だったけれど、その声音はいつもよりも他人行儀な気がした。
「じゃあ、遠山君。ごめんね、今日は少し体調が優れないから」
春風さんは言い訳のように言ってから、電話を切った。僕は、受話器越しに繰り返される単調な切電音を、ただ聞き続けた。
ぼんやりしていたら再び課長から叱責を受け、僕は機械のように他のお客様への電話を繰り返す。全てかけ終わりパソコン画面で時間を確認したが、まだ一時間ほどしか経っていなかった。僕は半ば飛び出すように支店を出て、春風さんの家に向かった。
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※1 新規上場株式の購入時には、通常の売買と異なり、販売手数料がかからない。
※2 株式売買方法の一種 文中のケースの場合、「この値段以上なら売る」と最低売却金額を指定すること。想定よりも株価が低ければ、売買は成立しない。
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