LSD

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 骨が燃えている。じりじりと摩擦に似た音が耳に疎ましい。炎のけぶる匂いが鼻腔を掠めるような錯覚に陥った。  恐怖を感じないといえば嘘になるが、おれは走り続けた。走ること以外、おれにできることはなかった。  競技場が見えた。トラックに入った瞬間、歓声がうねりを上げ、骨の燃える音をかき消した。  背後に感じる他のランナーとの距離はおよそ50メートル前後。ずっしりと重い足で土を蹴り、スパートをかけた。第4コーナーを回って残り30メートル。スピードを落とすことなく、おれは風を裂いて走った。  テープを切った次の瞬間、倒れこんだ。マネージャーが飛んできて、痙攣を起こしかけているおれの体をタオルで包んだ。  過度なまでに興奮したアナウンスが、俊藤大祐の優勝をがなりたてている。マネージャーの手を振り切り、おれは立ち上がった。霞む目をせわしなく動かして、スタッフや記者の群れを見回す。  トレーナーに白衣を羽織った影をトラックの端に見つけ、おれは深く息をついた。強張った頬の筋肉を綻ばせ、渾身の力を込めて立ち上がった。3歩半で、疲れきった足は動きを止めた。  菱井は俯いていた。そしてひとりではなかった。スーツ姿の見知らぬ男が傍らに付き添っていた。エリート然としたその男の唇が動くのに合わせて、菱井は緩慢にうなずいた。スーツの男が白衣の肩に腕を回した。菱井は促されるままにおれに背中を向け、男とともに競技場を出て行った。 「なにしてんだ、俊藤」  興奮しきったマネージャーが駆け寄ってきて、立ちすくんでいるおれの背を押した。気がつくと、表彰台に立っていた。  地上30センチ。おれを見上げ、歓声と拍手を惜しみなく放出する男たちの頭の向こうに、スーツと白衣の後姿が見え、すぐに消えた。  青々とした月桂樹の冠が、呆然としているおれの頭にのっけられた。歓声はやむことがなかった。  400メートル。トラックを一気に駆け抜けて、息をついた。汗が噴き出し、急激に高まった熱がゆっくりと冷やされていく。両脚の太腿に手をついて前傾姿勢で呼吸を整えていると、いきなり頭を殴られた。 「馬鹿野郎。全速力でトラック1周する奴がいるか。おれは軽くアップしろといったんだぞ、軽くアップ」  苦々しげに唾を飛ばすと、菱井は手にしたファイルの角でもう一度おれを殴った。 「聞いてんのか、こら」 「聞いてますよ」 「ロング・スロウ・ディスタンス。トレーニングの基本だろうが」  おれは答えずに、ウォームアップを再開した。黙々と屈伸する傍らで、菱井はファイリングした紙にせっせと書き込んでいる。なにをチェックされているのか気にならないではないが、どうせ尋ねても返ってくるのは上腕二頭筋がどうのアイソメトリックがどうのといったわけのわからない用語のオンパレードだ。 「うん、もうちょっと絞れるな。あとで体脂肪をチェックして……」  いってるそばから、菱井はしきりに頷きながら、ひとりごちている。付き合っていられなかった。手早くジャージを脱ぎ、社名の入ったウェア姿になる。 「流すんで、タイムお願いします」 「ジョック1周な」  ファイルから目を上げることなく、菱井は頷いた。フルマラソンを完走したときよりもはるかに深く、心臓が痛んだ。  顎を引き、今度はやや加減してのジョグ。冷えた体が徐々に熱を持ち、心拍数が上がってくる。内臓のひとつひとつが同じリズムを奏で、全身がひとつの精密機械になったようだ。 「ラップ上げてくぞ」  トラックの向こう側で、菱井が声を張り上げる。おれは無言で、それでもいわれたとおりにピッチを上げた。  体の側面に菱井の視線を感じる。モルモットになった気がした。いや、はじめからそうだった。この榮倉化粧品の実業団に長距離ランナーとして入社して、菱井の指導の元で走るようになってから3年。菱井から人間扱いしてもらったことは一度だってない。  調子が上がってきた。ストライドを大きめにとり、弾むような足取りでトラックを回る。ランナーにしかわからない、無我の境地だ。意識することなく、頭の中で時間が巻き戻される。  大学2年の夏だった。関東インターカレッジ、通称関カレのレースを終えたとき、菱井が声をかけてきた。了解も得ずにおれの体をベタベタ触りまくったあげく、唐突にいった。  おまえの心臓をおれにくれ。  ふざけやがって。機械的に手足を動かしながら、おれは腹立たしくなってきた。なにが心臓をくれだ。だいたい、おれはもともと中距離志望だったんだ。それを無理矢理フルに転向させられたうえ、毎日毎日心拍数やら酸素摂取量やらを測られ、地獄のような減量と烈しいトレーニングを課せられている。我慢の限界だった。  確かに、医師の資格を持つ菱井の、最先端スポーツ医学の知識を駆使したコーチングは的確で、たった3年でおれはオリンピック候補に選ばれるほどのランナーに成長した。感謝しては、もちろんいる。しかし……  ペースが落ちた。菱井の訝しげな視線をこめかみに感じながら、おれは足を止めた。 「なにしてる。だれが止まっていいといった」  怒気を隠そうともせずに、菱井がトラックを横切って近づいてくる。体を反転させた。にらみつけると、菱井は気圧されたように体を引いた。 「なんかいうことないんすか」 「いうこと?」 「おれ、頑張ってるつもりですよ。実際、結果も出してる。よくやったとか偉いぞとか、そういう労いの言葉のひとつもくれたって、バチはあたんねえんじゃないっすか」 「なにが結果だ。福岡獲ったぐらいで、調子に乗るんじゃねえ」  愕然とするおれを一瞥したかと思うと、菱井は再びファイルを広げた。 「褒めてほしけりゃ、2時間5分を切ることだ。おれの前に日本新を持ってこい。わかったな」  にべもない言葉。おれの自己最高は2時間11分28秒だ。日本新記録など馬鹿げている。滴り落ちる汗もそのままに、おれは立ちすくんだ。 「筋肉が冷えてるな。途中でやめると凝固するんだよ、この馬鹿」  菱井の手が太腿を圧迫する。ひんやりと冷えた感触に、おれはうろたえた。咄嗟に体を引いて避けた。  菱井が怪訝そうな顔を向けてくる。おれは赤くなった。自分が狼狽していることにさえも苛立ちを感じ、おれは舌打ちした。 「わかったよ」  社名の刺繍が入ったノースリーブのトレーニングウェア。無造作に脱ぎ捨てた。 「やめてやるよ。やめてやる。あんたには付き合ってられねえ」  まくし立て、背中を向ける。怒りに体が小刻みに震えていた。 「しゅんどー、どこ行くんだ、こら。ヒルトレとダウンがまだ残ってんだぞ!」  背中に降ってくる菱井の怒鳴り声を無視して、おれは大股にトラックを後にした。  空っぽだ。菱井はそういった。医大を卒業しておきながら、医師として病院に勤めることなく、実業団のメディカルトレーナーなどをしている理由について、なにげなく尋ねたときだ。少し考えてから、菱井はいった。 「フルマラソンは人間の体を空っぽにする」 「おれも空っぽになってるんですか」 「それがフルマラソンだからな」  釈然としない顔をしていると、菱井はマラソンが人体に引き起こす作用についての講釈を始めた。 「35キロを過ぎるあたりになると、筋肉などに蓄えたグリコーゲンがなくなる。そのあと、血液中のグルコースや肝臓のグリコーゲンもエネルギーとして消費するが、それもすぐになくなる」 「そしたら、どうなるんですか」 「どうなると思う?」  分厚い資料の束から目を上げて、菱井は子供じみた笑みを浮かべた。おれが肩を竦めると、身を乗り出して歌うように説明を続けた。 「脂肪、それにたんぱく質。肉体を燃やすんだ。そして、ビタミン、カリウム、カルシウム……つまり骨を燃やす」 「げええ」 「まさに人体機能の極致だよ。それを越えると心不全で死ぬ場合もある」 「なんか怖くなってきた」 「おまえはだいじょうぶだよ」 「なんでそんなことがわかるんですか」 「おまえの心臓は普通の心臓じゃない」 「どうせ図太いですよ」 「そうじゃないよ。強靭で持久力に優れている。心臓以外にも、筋肉、肺活量、すべてにおいておまえの体はずば抜けている。まさに長距離のために生まれてきたような体だよ」  賛辞を呈したつもりだったのかもしれない。だが、淡々とした口調はまるで高級外車について語っているかのようで、おれはなんともいえない陰鬱な気分になった。 「なんだ、嬉しくないのか」 「走るのは好きっすけど……」 「けど、なんだ」  菱井が目を上げる。眼鏡の奥の目は充血していたが濡れ、輝いていて、自慢の心臓を無様に跳ねさせた。曖昧に唇をひん曲げた。 「おれと会うより前からトレーナーをやってたんでしょ?」 「うん、そうだ。話が脱線したな」  菱井は頭をかいて照れたように笑った。 「おれは人間の体がどこまでできるか知りたいんだ。肉を燃やし、骨を燃やして、どこまでいけるかを知りたい」  おれは菱井を凝視した。わずかに細められた眼鏡の奥の目は、なにかを達観しているかのようだった。菱井は嘘をついている。直感した。でまかせではないにしろ、他になにか理由があるはずだ。そう思った。だが、追求するよりも先に、休憩時間が終わり、また地獄のトレーニングが始まった。  結局、菱井がこれほどまでにマラソンに熱意を傾ける理由は聞けずじまいだ。社内の菱井の部屋の前に立ったこの夜、おれはそんなことを考えていた。  ブルゾンのポケットに突っ込んだ手が、固いものに触れる。使い古したストップウォッチ。決意が揺らぐ。無造作にポケットにしまって、足を踏み出した。  ノック。ほどなくして、返事が返ってきた。部屋の奥に設置されたデスクで膨大な紙の束に半ば埋もれながら、菱井が目を擦っている。 「このところ、徹夜続きでな」  聞きもしないのに、菱井は苦笑いでいった。 「もし明日の東京国際にうちの俊藤が現れなかったら? 考えただけで頭が痛いよ。ろくに調整もできず、スポンサーからもどやされる。タイムを落としでもしたら即クビだな」  皮肉が終わらないうちに、おれはジャージのポケットから取り出した茶封筒をデスクに置いた。 「大会が終わって、契約が切れたら、辞めさせてください」  菱井は眉ひとつ動かさなかった。無感動にいった。 「本気なのか」 「はい」  菱井は眼鏡の間に指を差し入れて目頭を揉んだ。縁のない眼鏡のレンズは指紋にまみれ、曇っていた。普段は潔癖に近い菱井が見せるだらしなく疲弊した表情におれは思わず狼狽したが、かろうじて平静を装っていた。無実を訴える囚人のように、些か大仰に胸を逸らし、直立不動だ。 「どこだ」  ため息とともに菱井は吐き出した。 「なにがですか」 「移籍すんだろ。どこに行く気だよ」 「そんなことしませんよ」  おれは憮然としていった。 「マラソンはもうやめるつもりです」  菱井は無言だった。予想していたのかもしれない。さらにくたびれた顔で首を振った。沈黙はおれの神経を逆撫でした。 「おれはもう走りません」  念を押すようにもう一度いった。それでも菱井は目を伏せたまま表情を変えなかった。長いため息のあと、搾り出すようにいった。 「なにが気に入らない」  にらまれた。一瞬たじろぐほどの鋭い視線だった。 「褒めてほしいんならいくらでも褒めてやるよ。それでタイムが伸びるならな」  菱井の言葉は弱々しかった。デスクの照明の下に浮かび上がった顔はやつれきっていて、おれは不安になった。 「だいじょうぶですか?」 「疲れてるだけだ」  歩み寄ろうとするおれを掌で制して、菱井は顔をしかめた。 「おれはおまえのためにベストを尽くしたつもりだ。だから今のおまえがある。そうだろ。大事に育ててやったってのに、なんの不満があるんだよ」  菱井が身を乗り出す。おれは徒労感に首を振り、目を逸らした。菱井は頓着しなかった。デスクに両手をついて立ち上がると、おれを燃やそうとするかのような視線で詰め寄ってきた。 「おまえの心臓は特別なんだっていっただろう。いっとくがな、恵まれた才能を生かさないなんてのは犯罪だ。マラソンをやめるなんて絶対に許さない」 「あんたの許可を請うつもりはありませんよ」  菱井の傲慢な口調に些かむっとして、おれも声を荒げた。 「引退します。もう決めたんですよ」 「明日の東京国際で結果を出せば、オリンピックだって夢じゃないんだぞ。ここまで一緒に頑張ってきたのはなんのためだ」 「やめてください」  げんなりしているのを隠そうともせずにいった。疲弊しているのは菱井だけではない。おれのほうだって、この数日間、悩み続けてきた。神経が磨耗していくようだった。 「おれは自分やオリンピックのために走ったおぼえはありません」 「じゃあなんのためだ」  おれは言葉を切った。責めるような菱井の顔を直視することができなかった。 「ほらな、いえないだろ。自分がなんで走ってるのかもわからないのか。そんなだから記録のひとつも出せないんだ」 「走ったこともないくせに、好き勝手いわないでください。そんなに記録が欲しいならあんたが走ればいい」  吐き捨てるようにいった。菱井がたじろいだ。 「ほら、いえない。結局、あんたが大事に思ってんのはおれの体だけなんだ」 「どういう意味だ?」 「……心臓には詳しくても、心のことはなんにもわかってないってことだよ」  菱井は虚をつかれたように立ちすくんだ。おれはようやく少しすっきりした気分になって、大仰にため息をついた。 「話しても無駄みたいなんで、帰ります」  背中を向ける。引き留められるものと思っていた。だが、望んだ言葉も、それ以外の言葉も、おれを追ってはこなかった。  大股で2歩半。ドアの前まできて、天井を仰いだ。振り向かずにはいられない自分が情けなかった。それでも、おれは踵を軸に体を反転させた。  文句をいいかけ、口を開いたまま、硬直した。デスクの向こうに菱井の姿はなかった。 「菱井さん?」  菱井は椅子の傍らにうつぶせに倒れていた。駆け寄り、抱き起こす。苦しげに歪められた顔は青ざめ、脂汗が浮いていた。 「菱井さん!」 「だいじょうぶだよ。大声出すな」  噛みしめた歯の間からうめき声を漏らすと、菱井は大きく息をした。だが、顔色は少しもよくならなかった。 「車を呼べ。栄田総合病院に……」  かろうじてそれだけをいうと、菱井は意識を手放すまいとするかのようにぎゅっと目を瞑った。瞼がわずかに痙攣した。ただの貧血や疲労ではない。おれは絶句した。心臓が、音を立てて軋んだ。  救急車を呼ぼうとするのを、菱井に制された。芯を失った体をタクシーに押し込むと、すぐに自分も体を滑り込ませた。菱井はついてくるなといったが、今度は聞き入れなかった。  夜の甲州街道は渋滞していた。初老の運転手が、千歳烏山あたりで起きた玉突き事故についていいわけがましく説明した。おれたちを乗せたタクシーは新宿付近でまったく進めなくなってしまった。病院は世田谷だ。菱井の呼吸は次第に弱々しくなっていく。おれは苛立ち、不安を募らせた。 「なんとかなりませんか。病人がいるんですよ」  八つ当たり気味に運転席のシートをつかむ。運転手は困ったように肩を竦めた。 「そういわれても、この辺は抜け道もないし……救急車を呼んだほうがいいかもしれませんよ」  バックミラーごしの申し訳なさそうな言葉には、厄介払いしたがっている色が見えた。 「病院までの距離はどのぐらいですか?」 「うーん……10キロいかないぐらいじゃないですかね」  菱井はおれに半身を預け、目を瞑って苦しげに胸を上下させている。小刻みに震える指先がブルゾンの裾をつかんだ。  菱井は救急車を呼ぶのを嫌がっている。たとえ無理に乗せたとしても、この渋滞では、いくら救急車でもすぐには病院までたどり着けないだろう。おれは逡巡した。  迷っている暇はない。ブルゾンを握りしめる指先の白が眼球を刺し、おれは覚悟を決めた。 「すいません、降ります」  ドアを開けさせると、たちまち冷気が車内になだれ込んでくる。顔をしかめながら、運転手に札を押しつけた。  素早く脱ぎ捨てたブルゾンで菱井の体を覆う。菱井は目を開け、訝しげにおれを見上げた。 「なにをしてる」 「走ります」  短くいうと、手早くブルゾンを着せる。菱井はされるがままだったが、おれの言葉に即座に反応を見せた。 「なんだって?」 「おれが走って運びます。そのほうが早い」  菱井は言葉を失った。抱え上げようとすると、ぐったりと虚脱していた体を強張らせて烈しく拒んだ。 「ふざけるな。あと半日もしたらフルマラソンを走るんだぞ。そんなことしたら、筋肉に負担がかかるし、もし怪我でもしたら……」 「いったじゃないですか。記録なんてどうでもいい」  圧し殺した声。おれは乱暴な手つきで菱井の腕を引き寄せた。 「今走らなきゃ、これまでなんで走ってきたかわかりませんよ」 「やめろ」  荒い息とともに菱井は拒絶の声を漏らした。強引に肘をつかんだ。菱井は弱りきっていた。抵抗する代わりに、泣き出す直前の子供のような顔をした。目を逸らすように背を向け、おぶった。菱井の体は驚くほど軽かった。しかし、だからといって、男ひとり背負って10キロ走る苦労とリスクは変わらない。自分を鼓舞するようにタクシーを降りた。 「やめてくれ、俊藤、頼む。頼むから。そんなことしたらおまえは……」  背中で菱井が懇願する。不安げなか細い声。なんとかしてやりたかった。太腿を支える手に力をこめた。菱井の体から緊張が解けることはなかった。  ウォーミングアップもしないまま、おれは夜の歩道を走り始めた。  意識を失ってぐったりとした菱井と、彼を背負ったおれが転がり込むと、緊急用の出入り口に待機していた警備員や看護士が飛んできた。静かだった病院が、にわかに慌ただしくなった。  床に膝をつくと、おれは菱井を背にしたままうつぶせに倒れこんだ。平坦な道とはいえ、舗装されていないワンウェイを、菱井を背負って疾走したのだ。脚は膨張し、全身が鈍く痛んだ。心臓が不規則な脈を打っている。噴き出した汗が冷え、床に落ちた。  必死だった。いまだかつてこれほどまでに懸命に走ったことはなかった。筋肉が、心臓が悲鳴を上げ続けていた。  看護士がおれの脈を取ろうとしたが、振り払った。菱井の血の気の失せた顔を見た瞬間、看護士は息を呑んだ。 「堤先生呼んできて、早く!」  年長の看護士が声を張り上げ、若い看護士が慌てて走っていく。  それほど待たずに、白衣を着た医師が足早に駆け寄ってきた。堤という医師に違いなかった。すっかり憔悴し床にへたりこんでいるおれを一瞥した。  チタン・フレームの眼鏡の奥の細い目。見覚えがあった。疲弊した頭では、すぐに思い出すことはできなかった。 「発作が起きたのは何時ごろ?」  おれの背中に頬を押しつけられた菱井の顎を持ち上げ、脈を見てから、堤はおれを見ずに尋ねた。慌てた様子は見られなかった。苛立ちを感じて、目を逸らした。  堤はおれの返事を期待していないようだった。冷静に看護士に指示し、菱井の体を持ち上げた。背中から菱井の重みが消えかける。奪われかけた肩に咄嗟に腕を回した。  堤が怪訝な顔でおれを見下ろした。視線が絡む。とたんに、記憶を取り戻した。声を上げそうになった。  福岡国際マラソンのトラック。菱井を支えるように立っていたのが、堤だった。 「あとは任せて。だいじょうぶだから、安心しなさい」  おれが心配していると思ったのか、堤は大きくうなずいた。指示を受けた男性看護士が飛んできて、馴れた手つきで菱井を手術室に運んだ。 「きみ……俊藤大祐か」  立ち上がりかけ、堤は独白のようにいった。悲鳴を上げる手足を床に投げ出したおれを見て、なにが起きたかをだいたい察したらしい。なんともいえないような顔で首を振ると、無言で手術室に消えた。  手術室から堤が出てきたとき、おれは廊下の端にいた。おれを探してきょろきょろする堤のもとへ走った。 「菱井さんは?」  おれの質問には答えず、堤は眉をひそめておれの全身をねめつけた。 「なにをしていたんだ?」 「ダウンです」 「クーリングダウン?」 「そうです。走った後ですから、少し体を動かして、疲労回復を促進するんです」 「コーチが手術室に入っているのに?」  堤の言葉は無感動だったが、おれは侮蔑されたように感じた。反論したいのをぐっとこらえた。 「やんなきゃ、どやされます」  なにかしていないと、不安に押しつぶされそうだった。それを隠すために、わざと芝居がかったしぐさで首をすぼめた。 「そうだろうね」  堤は心得顔で調子を合わせた。隈の刻まれた顔は汗ひとつかいていなかった。 「足はだいじょうぶか」  堤の緩慢な世間話を聞いている余裕はなかった。無視し、にらみつけた。 「あの、具合はどうなんですか」  詰め寄ると、堤は面倒くさそうに曖昧にうなずいた。 「とりあえずはだいじょうぶ。数日は入院してもらわなくちゃならないけど、回復するよ」  おれは全身で息をついた。座り込んでしまいそうになるのをかろうじてこらえた。堤の視線を意識していた。 「栄養失調と、あとは疲労が原因だね。負担をかけるなとあれほどいったんだが」 「菱井さんの主治医なんですか」 「というより、友人かな。大学が一緒でね」  菱井の母校。名の通った医大。白衣の堤に菱井と同じような居丈高な態度を感じ取って、おれは納得した。 「前にもこんなことがあったんですか」  おれの単純な質問に、堤は尖った顎を逸らして顔を上げた。 「あいつは生まれつき体が弱くてね。持病だよ。心臓に疾患が」  ため息とともにいうと、堤は苦々しげに顔を歪めた。 「おれとしちゃ、入院させてじっくり治してやりたいところなんだが」  ため息混じりの言葉は重く、心底菱井の身を案じていることが容易に見受けられた。どうやら見かけほど冷徹な人間ではないようだ。堤は眉間に深い皺を刻み込んでおれを見た。 「今はきみのことで頭がいっぱいだそうだよ」  なんと答えていいのかわからなかった。結局、自虐気味な笑みを浮かべた。 「おれの出す記録のことで、でしょう」 「大学のとき、陸上部のマネージャーをやっててね」  戸惑いを隠しきれないおれには頓着せずに、堤はおもむろに思い出話をはじめた。 「といっても、そこまで力を入れていたわけではないんだけど、関カレできみを見てからは、スポーツ医学とかいうものに熱を上げ始めて。その熱意たるや、すごかったよ」 「はあ……」  迎合する気にもなれずに、おれは肩をすくめた。とらえどころのない男だ。 「俊藤くん、きみ、ほっとしているね」  唐突に堤がいった。うろたえながらも、おれは嘲るような視線を受け止めた。 「そりゃそうですよ。心配でいてもたってもいられませんでしたから」  ぽろりと本心をこぼしたことに気づいて、おれは無意識に唇を噛んだ。堤は気にする素振りもみせなかった。曖昧な笑みを浮かべていった。 「そうじゃなくってさ」 「じゃあなんすかね」  いちいち気に障る男だ。友好的な態度が崩れているのにも構わずに、おれは堤をにらんだ。 「おれと菱井が単なる友人でよかったと思っているだろう」  意味がわからなかった。沈黙するおれを細い目でとらえ、堤は言葉を繋げた。 「福岡までついていったのは、菱井が発作を起こしたときのためだよ。あの馬鹿、きみのレースのときにはいつも興奮して」  刃物のような顎を撫でながら、堤はのんびりと喋る。 「そういうわけだから、きみににらまれるおぼえはなかったんだが、まあ、誤解が解けてよかった」 「なんのことですか」  苛立ちが募る。静まり返った暗い廊下で、おれたちはにらみあった。  沈黙を破ったのは、看護士の足音だった。若い看護士は堤を見つけると、緊張の面持ちで近寄ってきた。 「先生、菱井さんの容態が……」  堤の表情が曇る。 「わかった。すぐ行く」  ただごとではない雰囲気。寒気を感じた。あとを追おうとするおれを、堤が厳しく制した。 「きみは帰りなさい」 「なにいってるんすか。菱井さんが……」 「レースに出るんだろう」  レース。おれは硬直した。たじろいだ一瞬のいいわけのように、苦笑いを浮かべた。 「そんなもん、どうだっていいんです。どうせ、この状態で走ったって、ろくな記録も出ない」  卑屈な笑いを見つめながら、堤は顔を強張らせた。圧し殺した声でいった。 「菱井の持病は心臓だといったろ」  掠れた声。おれはその場に縛りつけられた。 「きみは菱井のすべてだ。きみの心臓は菱井の心臓だ」  冗談じゃない。そう思った。おれの心臓はおれのものだ。筋肉も、内臓も、おれのものはひとつ残らずおれのものだ。おれだけのものだ。だが、口に出せなかった。  堤は白衣のポケットからストップウォッチを出して、沈黙するおれに差し出した。 「きみのだろ」  受け取ろうと伸ばしかけた手を引っ込めた。堤を見つめた。 「おれの記録を計るのは、菱井さんの仕事です」  堤の細い目がおれを射た。無言のまま堤はストップウォッチをポケットに突っ込んだ。振り向きもせず、足早に去っていった。  堤の姿が見えなくなると、半ば無意識に腕を捻った。腕時計の針は午前7時を刺していた。いつの間にか夜が明けていた。  軽やかな音を立てて、廊下を跳ねた。大殿筋に痺れるような痛みが走った。太腿から足首にかけて、重量を感じた。アキレス腱がわなないた。  息をついた。“エマージェンシー”のランプが消えたドアを押して、おれは朝日の中に足を踏み出した。  快晴の国立競技場。北京五輪の代表選手を選抜する最後の大会だけに、トラックを囲む大勢のギャラリーは色めきたっていた。  到着したのはスタート1時間前だった。すでにほとんどのランナーがアップを終え、スタート地点付近で各々屈伸をしたりコーチと話し合ったりしている。  いつもは菱井がしてくれるテーピングを手ずから施し、軽く筋肉を伸ばしたところで、スタートの時間が迫った。  スタート地点。おれは中間の位置に立った。前方にいる競技者たちはポジショニングに余念がない。腕を収縮させていると、見知らぬランナーが声をかけてきた。 「余裕っすね」  ユースで見かけたことのあるにきび顔。曖昧に微笑んでみせた。 「アップもほとんどしていないようですけど、だいじょうぶなんですか。陸連はあんたを推しているようですけど、今回の調子によっちゃ、引っくり返る恐れもありますよ」  大きなお世話だった。反論の代わりに肩をすくめてみせた。 「アップならじゅうぶんだよ。コーチを背負って10キロ走ってきたからな」  どうやら冗談と受け取ったらしい。にきび顔は小さく口笛を吹いて首を回した。  おれを盗み見ているのはにきび顔だけではなかった。あらゆる場所から視線を感じた。ランナーたちがにやついている。福岡国際マラソンが最高潮だとしたら、確かに今のおれの体は、はっきりいってレースを舐めている。ここ数日節制していなかったから体脂肪も増え、トレーニング不足が目に見えてわかる。さぼっていた期間で、菱井が課した月間走行距離よりも大きく下回る距離しか走っていない。  自信が音を立てて萎んでいく。鼓動が跳ね上がる。いまだかつて、スタート前に緊張をおぼえたことなどなかった。菱井がいない。それだけで、今おれはこんなに不安になっている。  スタート時間。耳を割る号砲。歓声が湧き上がる。押されるようにして、おれは走り出した。  集団に混じってのスタート。烈しいプッシングに揺さぶられながら、おれは滲み出てきそうになる涙をこらえた。  なんと情けない姿か。これが俊藤大祐か。菱井猛の秘蔵っ子か。  開いた掌。痙攣する頬に叩きつけた。周囲のランナーが怪訝な顔になるのを無視して、顔を上げた。  手術室。横たわる菱井の姿が目に浮かんだ。  爪先を捻った。大外から飛び出した。スロウペースで流していたランナーたちが浮き足立つ。気にもせずにストライドを伸ばした。  トラックを2周する頃には、先頭集団が形成されていた。わずかに遅れてつく。ここで焦ってはいけない。あえて常套句を垂れ流させてもらえば、耳にタコができるぐらい聞かされた台詞。  今朝無茶な走りをしたわりには、体が軽い。展開次第では……いや、必ず記録を取る。取ってみせる。  公道に出てもハイペースは変わらなかった。おれが中堅の位置を崩さないことで、先頭集団がペースを乱している。  頭を使え、俊藤。  菱井の言葉が甦る。  がむしゃらに走って結果が出るほど、フルマラソンは甘くない。惑わせ、かき回して自分のペースを守るんだ。  ペースを守った。心臓と一体化した。すぐに沿道の声援が耳から消えた。今ここにいるのは、おれと菱井だけだった。おれは菱井とふたりきりだった。  アスリートにとって、マラソンで成功することは長い競技生活の最高到達点だ。自分がどれだけの選手なのか、どこまで上り詰めることができるかは、最後の最後までだれにもわからない。おれにも、おまえにも。  あのとき、菱井が珍しく瞳を輝かせて語った言葉。  マラソンは究極の戦いだ。無数にある競技の中でもっともまぐれが出にくいのがマラソンだ。ライバルはいない。自分と戦い、勝利するのがマラソンだ。  おれの胸に掌をあてて、菱井はいった。  最後に勝負するのはここだ。ここで、戦おう。ここで勝とう。おれとおまえで。  自信はなかった。自分の心臓。血を配送し、菱井の言葉に躍る以外、なんの役にも立たないと思っていた。だが、菱井はおれの心臓にすべてを預けた。  おまえの心臓が燃える音が聞きたい。菱井はそういった。グルコース、グリコーゲン、脂肪に骨。なにもかも燃やし尽くして、心臓を焦がす匂いが嗅ぎたい。菱井はそういった。  マラソンが好きだと思ったことはなかった。くるしいばかりで、ちっとも楽しくなどない。それでも続けてきたのは菱井がマラソンを好きだからだ。走っていれば、菱井がおれを見てくれる。おれの筋肉に触れてくれる。  15キロを過ぎた。日本最高に迫るハイペース。負担をかけていた風が追い風に変わる。中堅に牽制をかけるのをやめ、一気にペースを上げる。  先頭集団に追いつくと、空気が尖った。ここからが本当の勝負だ。  先頭集団のケツにくっつき、尾を乱す。ひとりずつ狙いをつけてペースを乱し、落としていく。苦手だったはずの精神攻撃。躊躇はなかった。  4人が脱落し、5人になったトップグループ。外国人招待選手を含む集団は、そう簡単には崩れそうになかった。チェンジ・オブ・ペース。プレッシャーをかけるのをやめ、自分の歩幅を維持する。  22キロ。険しい上り坂。ピッチを上げた。トップの先頭に踊り出る。トップグループはついてくるが、残りの集団は引き離される。  30キロ地点。タイムを確認する余裕はない。それでも、少なくとも12分は切っている自信があった。  もっと自信を持てよ。菱井はもどかしげにペンの頭を噛んだ。  欲がないっつうかなあ。なんでおまえはそうなんだよ。記録が欲しくないのか。オリンピックに行きたくはないのか。  欲しかった。行きたかった。菱井の喜ぶ顔が見たかった。本当はそれだけだった。褒めてほしかったわけではない。  最初からすべて菱井のためだった。検査のためではなく、トレーニングのためではなく、菱井に触れてほしかった。菱井に触れたかった。  ほっとしている。堤はそういった。すべてが崩れたのは福岡でのレース。菱井が自分を堤に預けるのを目にした日から、おれは虚無感に勝てなくなった。なににも勝負を挑めなかった。  長い坂を上りきり、ダウンヒルに差し掛かる。ピッチが上がる。自分の体重に加わる加速。足の裏にかかる負担が重い。  太腿を襲う圧力。顔をしかめた。それでもスピードを落とさなかった。  呻いた。よろめいた。すかさず後方の選手がピッチを上げた。追い抜かされた。  堤は恐らく気づいていただろう。菱井を担いでの10キロ。足にはまめができていた。素知らぬふり。今では意味がない。まめは潰れ、一歩踏み出すたびにいやな音を立てた。激痛の相乗効果。フォームが崩れる。  くそったれ。鈍る頭が呪詛を唱える。いてえじゃねえかよ、この野朗。いてえわ苦しいわ、ほんとになんなんだよ。舐めるんじゃねえ。  桜田門を過ぎた。35キロの給水ポイント。水を取り、口に含む。喉に落ちた水が零れ落ちる。  舐めるんじゃねえ。  汗にまみれた顔に水をぶちまける。先頭から遅れ始めている。差は7メートル。  そんなに記録が欲しいなら、あんたが走ればいい。  おれはそういった。菱井をにらみつけ、そう吐き捨てた。  菱井の持病は心臓だ。堤はそういった。きみは菱井のすべてだ。きみの心臓は菱井の心臓だ。  胸が苦しい。呼吸が乱れている。リズムを保つことが困難になってきていた。  手術室に横たわる菱井を想像する。菱井は戦っている。おれも負けることはできない。  40キロ。菱井の声が耳を掠める。  おれは人間の体がどこまでできるか知りたいんだ。肉を燃やし、骨を燃やして、どこまでいけるかを知りたい。  モルモットだ。ずっとそう思っていた。菱井にとって、おれは研究材料でしかない。だが、菱井は戦っていた。おれとともに、ずっと戦いを続けていた。  骨が燃えている。じりじりと摩擦に似た音が、耳に疎ましい。炎のけぶる匂いが鼻腔を掠めるような錯覚にさえ陥った。  恐怖を感じないといえば嘘になる。それでもおれは走り続けた。走ること以外、おれにできることはなかった。  菱井にとっても同じだった。おれが走る。そのこと以外、菱井の頭にはなかった。  終盤。飛び出した。2人がついてくる。  トレーニングがじゅうぶんとはいえないから、決して負荷ではない。現実に、肉体は限界をとうに越えていた。  肉の音。左足のまめもどうやらつぶれてしまったらしい。これはいい。片足をひきずらなくて済む。  なぜ走るのか。菱井は尋ねた。おれもずっと自問し続けてきた。肉を削り、骨を燃やしてなおも走り続ける理由。  おまえの心臓をおれにくれ。初めて会ったとき、菱井はおれの手に触れた。脚に触れた。心臓に触れた。  心臓をくれてやる。おれは懇願した。  おれの心臓の音を聞いてくれ。おれは懇願し続ける。おれの肉が削れ、骨が燃える音を聞いてくれ。匂いを嗅いでくれ。そして……  競技場が目に飛び込んでくる。42キロの果て。すべての果ての地。後続を振り切り、おれはひとり走る。  第3コーナーを回り、第4コーナー。最後の直線。10メートル。  5メートル。  3メートル。  1メートル。  堤は相変わらず無表情だった。ゼッケンの縫いこまれたウェアのままのおれの姿を認めると、肩を落とした。 「菱井さんは……?」  ふるえる声に、堤は無言で顎をしゃくった。  病室のドアにかけた手もまた震えていた。跳ね続ける心臓を宥めることができなかった。おれはドアを引いた。  菱井の顔は白かった。ベッドに横たわったまま、身じろぎもしなかった。足を引きずり、近寄った。  青々とした月桂樹。そっと菱井の頭にもたせかけた。 「似合うよ」  無理に作った笑顔が歪む。涙。とめようがなかった。とめどなく流れ続けた。子供のように、おれは泣いた。  月桂樹の冠。穏やかに目を閉じた菱井の顔はキリストのように見えた。キリストは笑わない。菱井も微笑することはなかった。  本当に欲しいものを、おれは手に入れられなかった。月桂樹の青がくすんだ。勝利が枯れた。 「記録が取れたら、そのときは、告白するつもりだった」  菱井の細い体にしがみついた。揺さぶった。 「ちゃんというつもりだったんだよ」  くず折れた。足がいうことをきかなかった。菱井に縋ったまま、おれは虚脱した。泣き喚いた。病室に備えつけられたテレビは、主役のいないレースのダイジェストを垂れ流している。 「なんで見ててくれなかったんだよ、馬鹿野郎!」  叫んだとたん、頭を固いものが打ちつけた。 「うるせえんだよ、馬鹿」  薄く目を開けた菱井が、憎々しげに吐き捨てた。 「ゆっくり眠れもしねえじゃねえかよ」  ため息とともに漏れた声は弱々しかったが、いつもの皮肉っぽい匂いがした。おれは顔を上げた。 「……あれ?」 「あれじゃねえよ。人を死人みたいに扱うな」 「え、でも……」  堤の含み笑いが脳に浮かんだ。菱井は唖然としているおれをもう一度殴った。固い感触の主をぐいと差し出した。  古びたストップウォッチ。無機質な線が描く2時間5分52秒。 「自己新記録更新だな」  菱井が微笑む。冷えた体に熱がこもる。規則正しい運動を取り戻したばかりの心臓が、たちまち脈を上げはじめる。 「菱井さん!」  抱きつこうとしたおれの額を、再びストップウォッチの角が打つ。 「おれは日本新記録を出せといったはずだぞ。ちょっとタイムが上がったくらいで調子に乗るな」 「菱井さん……」 「なにを告白するつもりだったか知らんが、オリンピックまでお預けだな」 「菱井さぁん……」 「情けない声出すな」 「おれ、さっきまで42.195キロ走ってきたんですよ。その前にだれかさんを背負って10キロ近く走ってるし……」 「だから?」  冷たい声。鬼のようだ。心臓どころか、まともに血がかよっているかどうかも疑わしい。 「やさしい言葉のひとつもかけてくれたっていいんじゃないかと……」  自分でも情けなくなるほど弱々しい声だった。鋭い眼差しににらまれる。 「たとえばどんな?」 「しゅんどーえらい! めちゃくちゃかっこいいー! 今すぐ抱かれたい!……とか」 「馬鹿か、おまえは」  呆れた顔でいって、菱井は手を伸ばし、汗が固まってパサつくおれの髪をぐしゃぐしゃにした。 「五輪で金を取ったら」  まだ色の戻らない顔をゆったりと緩ませて、やさしく微笑んだ。 「キスくらいならしてやってもいい」  どうやらおれはもうしばらく骨を燃やさなければならないようだ。でも、それでもいい。どこまででも燃やし尽くしてやる。  ロング・スロウ・ディスタンス。焦らず、ゆっくりと、走り続ける。 おわり。
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