99%  巷に夜の在るごとく -1-

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■ プロローグ ■  中華料理は火との勝負だ。たとえそれが、昨夜の残りのお冷ご飯で作るチャーハンだとしてもだ。  味付けは塩、胡椒。香り付けに醤油をほんのひとたらし。飯をべたつかせないためには、やっぱり中華鍋を持った手首の返しが大事だね・・・・  なーんて事を思いつつ、唯野一はせっせと手を動かしていた。そのデカイ身体に似合わず、中華鍋を使う手さばきは繊細で、あたりには醤油の焦げたイイ匂いが漂い始めていた。 「はーい!海鮮チャーハン出来上がりッと」  湯気の立つホッカホカのチャーハンを手際よく皿に盛り付け、テーブルへと運ぶ。当然、かき玉子入りのスープもセットだ。 「お待たせしました。食べてみてください」  にっこり笑ってスプーンを渡す。ほんとはレンゲがいいんだが・・・・  渡された相手、九十九 伸はテーブルに頬杖をついて、唯野を困ったように見上げていた。 「あのなぁ、唯野くん・・・」 「はいっ!」 「だから、うちは・・・助手の募集はしてないんだって」  ここは東京、銀座・・・とは言っても、表通りから一本中に入った、よく言えばなかなか趣のあるとゆーか、年輪を感じさせるとゆーか・・・要は、ちょっと奮いタイプの建物がちまちまと軒を並べている通りだった。  その中の、特に年季の入った喫茶店の二階に、その事務所はあった。通りから見える窓には『九十九探偵事務所』の文字が貼ってある。  いつもどおりのんびり起きて、いつもどおり仕事依頼の電話を待っていた九十九の前に、突然現れたのが唯野だった。  立て付けの悪い古いタイプの出入り口のドアの枠に頭をぶつけそうになりながら、入ってくるなり「助手にして下さい」と言ったのだ。 「探偵事務所ってなってはいるけどね、実質は便利屋なんだよ・・・・最近は」  所長であり、唯一の所員である九十九はため息混じりに呟いた。 「そんなワケだから、君が期待してるようなアクションや、推理なんて無いの」  そんな九十九の言葉に、テーブルの向かいに座って同じように頬杖をついてニコニコしている唯野は、動じた様子は無い。デカイ身体に、ちょっと南方系の濃~い顔は妙に愛嬌がある。 「第一・・・ひと雇えるほど、儲かってないんだ。これが」  一方、あはは~と情無い笑いを浮かべて肩をすくめる九十九は、男にしては小柄なせいか、そーゆー仕草がやたらと可愛く見えてしまう。  凛々しい眉と黒目がちの大きな目が印象的な、いわゆる『年齢不詳』というタイプだ。白いシャツに、サスペンダー付きのパンツという格好が似合っていた。 「そーゆーワケだからさ・・・」 「俺、給料いりません」 「はぁ?」  唯野の言葉に目をパチクリする九十九。大きな目がますます大きくなって、怪訝そうに唯野を見返した。 「給料いらないって・・・おまえ。どーすんの?たしかまだ大学生で、収入無いんだろ?」 「大丈夫です!そーゆー事より・・・つまりその・・・修行させて下さい」 「修行?」 「修行」  うん!とひとつ大きく頷いて、唯野はテーブルの上に身を乗り出す。 「貴方の下で働きたいんです。俺、身体には自信ありますから!」 「そーだろーなぁ・・・」  どう見ても、自分よりはひとまわりはデカい唯野の体格に、九十九はぼそりと呟く。  自分の体格に不満は無いが、でもやっぱり、自分よりガタイのいいヤツの前に出ると、ちょっと気落ちしてしまうのは否めない。  アクション俳優を目指している・・・と言っていたのを思い出し、なるほどと思う。 「あ・・・」  その時、九十九はやっと目の前の唯野と、どこで会ったか思い出した。 「もしかして、おまえ・・・先月の仕事ン時の?」 「思い出してもらえましたか♪」  バッサバッサと尻尾を振る音が聞こえてきそうな、そんな錯覚をおこさせる唯野の笑顔に、ようやく九十九の頬も緩んだ。    先月、九十九は某遊園地のイベントで、特撮ヒーロー物のアトラクションの司会を一日だけやった。この事務所の大家でもある下の喫茶店のマスターの頼みで断れなかったのだ。  その時、ヒーロー達のリーダー格を演じていたのが唯野だった。 「あの時の九十九さんの動き・・・俺、感動しました」 「動きって・・・おまえ。俺は司会で、アクションなんか無かったぞ?何の話だ?」 「ステージじゃありません。ほら、途中でアクシデントがあったでしょ」 「あー・・・」  アトラクションの真っ最中、客席から悲鳴が上がった。ステージに夢中になっていた子供が、興奮しすぎたのか客席横の階段を転げ落ちたのだ。 「みんな血を見てパニックだったじゃないですか。その中で、九十九さんだけが冷静でしたよね。救急車手配したり、応急処置も的確だったし・・・もしも九十九さんがいなかったら、俺たちだけでオロオロオしてて、あの子供、もっとひどい事になってたかも」 「なーに言ってる。あんな事、誰でも出来る事だろ」  九十九の返事は照れもあってか、素っ気無い。 「俺、あの時わかったんです。俺が求めていたのは、こーゆー人だって!」 「はいー?」  その時の感動を思い出しているらしい唯野には、呆れる九十九の声など耳に入らない。ひたすら自分が、いかに九十九の事を尊敬しているかを語りだした。 ・・・おいおい・・・勘弁してくれよ~・・・  それが九十九の正直な気持ちだった。自然、大きなため息が出る。  その音に我に返った唯野が、顔を赤くして頭をかいた。 「あ・・・すみません。ひとりで勝手に喋っちゃって」  そして、すでに忘れ去られていたチャーハンに気付く。 「どうぞ、食べてください。せっかく作ったんですから」  デカい身体を小さくして焦る唯野に、九十九はまたため息を吐く。実はこーゆー状況にかなり弱いのだ。 「・・・じゃあ・・・せっかくだから、頂くわ」 「はいっっ!」  期待に満ちた唯野の視線を感じながら、九十九は冷めてしまったチャーハンを口に運ぶ。 「どうです?」  心配そうな唯野の声。 「うまい・・・」 「よかったーっっ!俺、中華料理得意なんです。横浜の中華街でバイトしてましたから。リクエストあったら言ってください。大抵のモンは作れますから」 「そっか・・・」 「はい!」  飼い主に褒めてもらった大型犬よろしく、唯野は九十九の顔を覗き込んで頷く。それを上目遣いに見ながら九十九は内心ため息を吐いた。 ・・・なんだって、こんなにウマいんだよーっっ・・・  中華大好きの九十九は、無論自分でも作る。しかし大きくて重い中華鍋は手にあまって、味はいまいち。不満足だった。 ・・・これじゃ、追い返せないじゃないかー・・・  こうして九十九 伸は、一人身の気楽さと引き換えに、美味しい食事とやたら元気なデカイ助手を手に入れた。  しかしこれが、この先とーゆー事態を招くか予想だにしない九十九だった・・・・・・                              ◆◆◆ 「いやー・・・唯野くんは、何でもできるんだなぁ」 「いえ・・・そんな事ないです」  九十九探偵事務所の所長にして、ただ一人の所員である九十九伸の言葉に、押しかけ助手の唯野一は照れたように頭をかく。 「立派なモンだぁ、これだけできれば・・・」  ごたごたと物の積んであるデスクの端に腰をかけて、手にした業務報告書を見ながら九十九は呟く。  探偵事務所という看板は出しているが、実質は便利屋と大差ない。そんな九十九のところに、何を思ったか唯野は『助手にして欲しい』とやってきた。  しかも給料はいらないという。  追い返す事が出来ずに、なし崩しのうちに助手にして約二週間。唯野は依頼のあった仕事を次々にこなしていった。 「お客さんの評判も上々だし、これなら君に給料出せるぐらいの儲けが出そうだ。 「いいんです。そんな気を遣ってもらわなくても」 「そーはいかないだろ。学生で収入が無い君に、只働きさせるワケにはいかないって」 「すみません」  アクション俳優を目指しているというだけあって、唯野は立派な体格をしている。そのデカイ身体を小さくして頭を下げる。 「なんで謝るんだ?俺は単に、君の労働に対して正当な賃金を払う・・・って言ってるんだぞ。それって、当たり前の事だろーが」 「でも・・・俺が勝手に押しかけて来たんだし・・・」  一応自覚はあるわけか・・・と、九十九は内心呟いた。 「でもなぁ・・・そーいや君、アパート暮しだって事だったけど、家賃とかはどーすんの?親から仕送り受けてるわけ?」 「いや・・・それはー・・・」  めずらしく唯野は言いよどむ。 「ん?」 「俺・・・その・・・両親、いないんです。俺が高校の時に事故で2人とも亡くなったんで」 「え・・・」 「それで、2人の保険金とか・・・遺産とか・・・貰ったもんですから」  それでなんとかやってるんです・・・と、唯野はにっこりと笑った。 「あ・・・悪い・・・ツライ事、思い出させて」 「いいんです、別に。もう5年も前の事だし・・・独りにもずいぶん慣れました」 「そっか・・・」  ちょっと湿っぽい空気が、2人の間を流れる。こーゆーのは真にキマズイものだ。山積みになった物の陰から灰皿を探し出し、九十九は煙草に火を点ける。 「あの・・・」 「んー?」  紫煙とともに返事を吐き出す。そんな九十九を、唯野は覗き込むようにして前に立つ。九十九は煙草を手にしたまま、唯野の顔を見上げて首を傾げる。 「何だ?」 「実は・・・その・・・できたら俺、ここに住み込みたいんですけど・・・ダメですか?」 「・・・住み込み?」 「はい!そしたら毎日、食事も作れるし。通う手間も無くなりますしね。あ!もちろん食費とか、光熱費とか・・・ちゃんと払いますから」 「あのな、唯野くん・・・」 「はい!」 「いったいここの、どこに君が寝るスペースが有るってゆーんだっっ?」   ため息まじりの言葉とともに、九十九は片手で室内を示す。 「それに君は、煙草の煙が嫌いなんだろ」  九十九探偵事務所の中は、大方のイメージ通りに物が乱雑に置いてあった。そしてお約束のように灰皿の上には溢れんばかりの吸殻の山。もちろんそれは偏見だか、とにかく、唯野のようなデカイ奴が横になれるスペースなど、有りそうもない。 「えーと・・・」  唯野の目が、ちらりと事務所の奥の部屋に通じるドアを見る。そこは九十九が寝起きしている部屋になっていた。唯野はまだ入った事が無い。 「あっちは、ここ以上に散らかってるぞ」  それに気付いた九十九が、口を尖らせて拗ねたように言い切った。 「えーと・・・じゃぁあ・・・」  再び事務所の中を見回して唯野は呟く。 「これを整理すれば、かなりのスペースできるんじゃないですか?ソファー・ベッドひとつぐらい置ける・・」 「あー?」  唯野の指差す『これ』とは、九十九が事務所を開いてから現在までの仕事の内容を記録した、業務報告書を入れた段ボール箱の山だった。  実際のところ、探偵としてはともかく、便利屋としての九十九の評判は上々で、その仕事量はけっして少なくはない|。それが全て手書きの書類で保管してあった。 「整理するって・・・どうする気だ?これは全部、必要なモンだぞ!」  まさか捨てる気じゃないだろーな!と言わんばかりに唯野を睨む。 「パソコンに入力してCD-ROMにおとせば、これだけ量があってもたいした場所は取りませんよ」 「パソコン?そんなモン、どこに有るんだ!買おうにも、そんな金無いぞっっ!」 「アパート引き払えば、敷金が戻ってきますから・・・」  唯野の言葉に、九十九は驚いたように顔を見る。すぐに言葉が出てこない。 「だめですか?」 「・・・何・・・考えてんだ、おまえ・・・」  呆れたように呟く九十九の前で、唯野はしょんぼりと肩を落として立ちすくむ。 「だって・・・俺、心配なんです」  俯いたままの呟き。 「九十九さん・・・独りだと、あんまり食事・・・真面目に食べてないじゃないですか」 「あ?」 「キッチン見ればわかります。たまぁに中華作ってるみたいですけど、ホントにたまにでしょ?外食ン時はアルコールが多いみたいだし・・・その上、煙草も半端な数じゃないですからね。一日に吸う量が」 「大きなお世話だっ!」  ふんっ!と九十九はそっぽを向く。本当の事を言われるのは、真に気分の悪いものだ。いや、本当に・・・  ただ九十九にしてみれば、世間一般の基準から言えばいい加減な生活態度ととられるかもしれないが、別に誰に迷惑をかけているワケでもなし、自分だって別に、それで健康を損ねているワケではない。単にそーゆーライフ・スタイルというわけだ。 「だめですかぁ・・・」  唯野の声に、九十九は横目でちらりと見る。デカイ身体をますます小さくして、九十九の方を上目遣いのうるうるした目で見ている姿は、まるで主人に叱られた大型犬。垂れた尻尾と耳が見えるようだ。 「九十九さーん・・」 「ああっもお!好きにしろっっ」  クーン・・クーンという鼻を鳴らす声が聞こえてきそうで、九十九は煙草を灰皿に押し付けながら叫んでいた。もうヤケクソである。 「いいんですか?」 「やめろと言ったら、やめるのか?」 「いいえッ!アリガトーゴザイマス!」 「うわっとっ!」  御礼の言葉とともに抱きついてきた唯野に、九十九は小さく苦笑した。  上背も胸板も、とにかく九十九よりひとまわりは大きい身体に、以前仕事で世話をしたゴールデン・レトリバーを思い出してしまったからだ。  あの妙に人懐っこい大型犬は、自分の身体のデカさと力の強さをまるでわかっていない。 「俺には金なんか無いぞ」 「はい」 「パソコンだって使えないからな。手伝わないぞ」 「はい」 「煙草もやめないからな」 「はい」 「ホントに変な奴だなぁ・・・おまえ」  九十九はため息まじりに呟く。  しかしまぁ・・・と思う。両親の話を聞いてしまった後じゃあ、あんまり無下にもできないじゃないか・・・  気分はすっかり、親を亡くした仔犬の里親だった。  それから一週間が過ぎ、確実に整理整頓されてゆく自分の事務所の中を見ながら、九十九は小さくため息をついた。  ・・・なーんか、いいように丸め込まれたんかな。俺・・・  そんな考えが頭をよぎる。  あれから唯野は、まず寝る場所を確保するためにと、業務記録のパソコン入力を始めた。  パソコンと、その作業をするためのデスクを運び込み、せっせと入力していった。そして今や、、そのほとんどが終わろうとしていた。 「ついでだから、大掃除もしましょう」  そう言って、家具をあちこち移動させ、当然そこら中に乱雑に置いてあった物とかもきちんとキャビネットに納められてしまった。  この部屋の床は、こんな色してたのか・・・というはまぁ冗談だが、本当に見違えるようにスッキリしてしまったのは事実だ。それは家具が多少替わった事にも関係しているのかもしれない。  今まで事務所の中央にあった、ほぼ物置状態の応接セットを引き取ってもらって、代わりにシンプルなソファー・ベッドと、それに見合う小ぶりのテーブルを入れたし、唯野の私物を隠すために置いたパーティションもある。パソコンの乗ったデスクはその前にある。  唯一変わって無いものと言えば、九十九のデスクと、寝起きしている奥の部屋だけだ。   ここだけは自分の領分として、絶対に触らせる気は無かった。 「俺はフィリップ・マーロウや、名無しのオプが理想なんであって、ピンカートン探偵社をやりたいワケじゃないんだがなぁ・・・・」 「なんですかー?」  九十九の呟きに、唯野が大きい声で訊いてくる。今はせっせと、通りに面した窓のガラスを拭いている最中だ。 「いや・・・きれいになったな、と思って」 「はいー!」  うれしそうな唯野の返事に、九十九はまたため息をついた。 「あれぇ?」  唯野が窓を拭く手を止めて、下の道路を覗き込んでいる。 「どうした?」  九十九は煙草に火を点けようと、ライターを捜しながら訊いた。 「すっげぇド派手なジャガーが下に止まったんです。あ、誰か降りてきた。美人ですよ」 「何!」  九十九は煙草を捨てて窓に駆け寄り、下を見る。確かにそこには、真赤なジャガーが止まっていた。 「あの趣味の悪い赤・・・あいつだ。チクショー!もう、そんな時期かっ」 「どうしたんです?知ってる人なんですか」  急に狼狽えだした九十九に、唯野は不思議そうに質問した。 「唯野くん」 「はい」 「誰か俺を訪ねてきても、俺はいないと言ってくれ。しばらくは戻らないって・・・」 「はぁ?」  怪訝そうな唯野にそう言い置いて、九十九は上着を引っつかむと奥の部屋のドアに手をかけた。 「そーはいかないわよ。九十九」  突然ノックも無しに入口のドアが開いて、紅い口紅の似合う女が入ってきた。身体の線を強調した露出度の高い服に、フェイクファーのジャケットを羽織っている。 「あ、下の車の・・・」 「あーら、きれいになったじゃないvvv」  彼女は事務所の中を見回し、唖然としている唯野に目を留めた。 「だぁれ?この大きなボウヤ。九十九の助手?」  固まっている唯野の顎を指でなぞって、流し目に見る。 「あのな~・・・」 「九十九、迎えに来たわよ。今度も私を満足させて。さぁ、早くン♪」 「だから、そーゆー言い方はよせってっっ!」  九十九は彼女との距離をとりつつ、じりじりと出口の方に近づいてゆく。 「あの~」  まことに緊迫感の無い唯野の声。 「こちら、どなたですか?九十九さんの・・・彼女?」 「オッソロシイ事、言うなーっっ!!こいつは夏木トオコって、ただの知り合いだ」  焦りまくる九十九を横目に、トオコはにっこりと微笑む。  美人というよりは、妖艶と言った方がピッタリとくる、そんな微笑。 「うん・・・冷たいわね、九十九は。私が、こんなにも貴方の事欲しいのに・・・つれないったら」 「あのな、トオコ。何度も言ってるだろーがっ!俺には無理だって」 「ダイジョーブよvv九十九なら、一週間もあれば私を満足させてくれるわ。赤マムシもユンケルもたっぷり用意してあるから。ほら、いい加減にビジネスと割り切りなさい」 「だ・か・ら~」  トオコに壁際に追い詰められて、九十九が焦った声を上げる。どう見ても彼女の勝ちだ。 「唯野くん!頼むからコイツを追い出してくれーっっ!」 「だめよ、ボウヤ。九十九は私がしばらく私が借りてゆくわ。良くってね?」  良くっても何も、唯野には事態が飲み込めない。唖然としているうちに、九十九はトオコに引きずられるようにして、出て行ってしまった。 「唯野くん!」  表の通りから声がする。急いで窓から顔を出すと、九十九がド派手なジャガーの窓から身を乗り出していた。 「しばらく留守を頼む。一週間ぐらいで戻るから」 「九十九さん!」 「それから、俺の部屋には入るなよ」 「わかりましたー」 「よろしくなー」  言い終えないうちに、ジャガーは走り出した。  あれはいったい何だったんだ?というもっともな疑問が唯野の頭に浮かんだのは、九十九を乗せたジャガーが乱暴な運転で角を曲がって見えなくなってからだった。  まぁ『留守を頼む』と言われた事だしと、取りあえず遣りかけの窓拭きを終わらせ、事務所の掃除を続けた。 「あ・・・っと」  ついでに九十九の部屋もと、奥の部屋のドアノブに手をかけて思い留まった。  『俺の部屋には入るなよ』  九十九の言葉を思い出したのだ。  よほど信用されてないのか、はたまた何か秘密があるのか・・・?こうしてみると、九十九は結構謎の多い男だった。  どちらにせよ、まだ自分に気を許してないって事だよな・・・と唯野は思う。 「いつになったら、入れてもらえるのかな・・・」  その日を夢見てうっとりしてしまうあたり、唯野もけっこう謎な奴だった。  ・・・しかし、あの女性と九十九はいったいどーゆー関係なんだ?  業務報告書の入力の続きをしながら、唯野は思う。 「やっぱり恋人かな・・・」  妖艶という形容がピッタリの笑顔を思い出す。プロポーションだって中々のものだった。あの女性を『満足』させるとなると、かなり大変だろーなー・・・ 「うわっっ!」  かなり下世話な想像をしてしまって、顔が赤くなる。唯野だって健康な成人男性なワケで、そっちの欲求が無いわけじゃない。  ただ今回は、羨ましいというよりも、九十九が気の毒だという気持ちの方が強かった。  何でかなー・・・と思い、トオコの言った『ビジネス』という言葉を思い出した。 「これってまさか・・・売春・・・!」  いやいやまさか、あの九十九に限ってそんなホストまがいの事・・・などと否定しつつも、手の方は勝手に入力したばかりの仕事のデータを呼び出していた。 「ナツキトオコ・・・と。出た出た。ふーん・・・」  九十九は一ヶ月に一度の割合で、トオコの『仕事』をしていた。毎回一週間程度の期間だが、その割に報酬はいい。 「九十九さん・・・」  自分の想像に気が重くなる。  ため息を一つついて、唯野は仕事の続きに戻る事にした。  主不在の事務所で過ごすこと六日間。  これじゃ何のために住み込んだのか、わかんないなぁ・・・と唯野は片付けの手を休めて、もう何度目かわからないため息をついた。  九十九にはいろいろ言ったような気がするが、本当の所は、少しでも長く九十九と一緒に居たかっただけ。まぁ『一目惚れ』とでも言うか、何か自分に必要な物を、彼が持っているような気がしたのだ。  ただ今回の『仕事』が、気にならないと言えば嘘になるが、まぁあの九十九の事だから、たとえどんな『仕事内容』だって、きっと手抜きはしないはずだ。ならば助手として、精一杯サポートしようと・・・そう唯野は決めていた。  来客を告げるノックの音に、自分の考えに没頭していた唯野は我に返った。 「はーい、どうぞ。開いてます」  唯野の返事に応じて入ってきたのは、唯野と同じぐらい大柄な40前後の男だった。 「あ・・・と、どちら様ですか?」 「おや。いつもの探偵さんは?」  来客は良くとおる渋い低音の声で言って、事務所の中を見回す。  値踏みするようなその目付きと、ソフトな色合いのダブルのスーツのスッキリとした着こなしが、色の浅黒い精悍な顔立ちを引き立たせて、見る人に知らず知らず威圧感を与えている。  一言で言ってしまえば、どー見ても『そのスジ』の人間だった。 「九十九は・・今、不在ですが」  唯野は答えながら、わずかに身構えた。 「ほぉ・・・いつ戻る予定なんだ?」 「さぁ・・・聞いて無いんです。一週間前に突然出て行ったままなんです」  間の抜けた返事だが事実だから仕方ない。しかし男は、それを聞いて渋い笑みを口元に浮かべた。 「何か?」 「いや。まだあの先生に捕まってるかと思うと、気の毒でね」 「先生?」 「夏木って漫画家の女の所だろ?締め切り間際になると、いつも手伝わされてるからな」 「漫画家?」 「何だ。何も知らないのか?そー言えば、あんたは何者だ」 「九十九の助手です」 「ほぉ・・・」  お互いの視線が遭ったその瞬間、火花が散ったような気がした。 「探偵さんの助手か・・・そりゃ、よろしく。俺は、隆だ」 「りゅう・・・さん」 「ああ、そう言えばわかる。この辺じゃあ、多少顔が利くから、何か困った事があったら声をかけてくれ」  渡された名刺には、某会社の取締役の肩書きがあった。どんな会社かは、神のみぞ知るというところだろう。 「それで、ご用件は?俺で良かったら、承りますけど」  一応危険の無い相手とわかって、助手らしく対応する。 「いや、別に用は無いんだ。そろそろ先生の所から戻って来る頃だと思ったから、ご機嫌伺いにね。しかし、居ないんじゃーな」  ほろ苦い笑みを浮かべて、隆は肩をすくめる。 「仕方ないな。じゃあ、戻ったらこれを渡しといてくれ」  そう言って、諦めたように手にしていた包みを、テーブルの上に置いた。 「随分きれいになったじゃないか。あんたがやったのか?」 「ええ、まぁ・・・それより、これは何ですか?」 「ああ?フカヒレのスープの缶詰だ。探偵さんの好物だよ」  隆は、横浜中華街の有名な店の名を告げた。 「きっとヨレヨレになって帰ってくるから、それで精をつけてやってくれ」 「はい」  じゃあな・・・と呟いて出て行こうとした隆は、ふと気が付いたように立ち止まって、唯野の方を見た。 「何か?」 「また来るからと、探偵さんによろしく伝えといてくれ」  何か意味を含んだ凄みのある笑みを浮かべて、隆は帰って行った。  夕方になって、やっと九十九は戻ってきた。それはもう、ヨレヨレガダカダの状態で、立っているのがやっとという感じだった。 「大丈夫ですか!?」  思わず出した唯野の腕にすがって、九十九は安堵のため息を吐く。 「ふぇー・・・今回も修羅場だったぁ」  少しやつれたような顔には、目の下にクマができていた。 「そんなに・・・大変だったんですか・・・」  隆のおかげで何が『大変』だったかはわかっているので、唯野は九十九の身体を気遣う。  まぁ、そうでなくても放っておけるハズもないが。 「ああ・・・ドリンク剤ってのはさ、飲んで効いてるうちは全然気にならないんだが、効力切れた途端にガクッとくるからツライんだよなぁ・・・あー、まいった」  とりあえずソファーに座らせて、熱いジャスミン茶を出す。 「おう、サンキュ。ん・・・何だこれ?」  テーブルの上の、隆の置いていった包みに気がつく。 「あ、フカヒレのスープだそうです。隆という人が、今日の昼に来て」 「げっ!アイツ、また来たのか」  九十九はヤレヤレと言う様に、天を仰いだ。 「アイツもなー・・・悪いヤツじゃないんだけどなぁ」  はぁ・・・と大きくため息をつく。 「拙かったですか・・・受け取ってしまって」  唯野が心配そうに覗き込む。その様子は、やっぱり主人に叱られた大型犬のようだ。 「いや、そんな事ないよー・・・俺、フカヒレ大好きだし。ただなー、持ってきた奴がなー」 「どーゆー人なんですか?あの隆って人」 「んー・・・」  九十九は困ったように言い淀む。 「まぁなんだ・・・見たとおり、これ関係の幹部ってヤツなんだが」  と、自分の頬にキズを描く真似をする。つまり『ヤクザ』か。 「どーゆーワケだか、俺のこと気に入ったらしくてな。暇さえあればチョッカイかけてくるんだ」 「やっぱり怒らせると、拙いでしょーね」  唯野もため息をつく。良かった。何事も無く帰ってくれて。  もっとも乱闘になったところで、そう簡単にやられはしない自身はあるが、相手が相手だけに、もしかすると凶器を持っているかもしれない。 「たぶんなー・・・まぁ、アイツ本人はなかなか面白い奴で、話してて飽きない男なんだが・・・ただなぁ・・・」 「何かあるんですか?酒癖が悪いとか」  もし九十九に危険があるようなら、これからは自分が気を付けなければならない。そう思って、質問する唯野の声には力が入った。 「アイツ・・・俺の事、女みたいに扱うんだー。まいるぞ」 「はぁ?」 疲れきった様子の九十九は、いつもより口が軽くなっているらしい。普通なら他人に話さないような事まで漏らしていた。 「最近は納まってるけどな、一時はすごいプレゼント攻勢でさぁ。バラの花、一気に100本とか、服だの何だの・・・そりゃ女オトす時にやる事だろぉ!って、全部叩き返してやったんだが、それでも諦めなくて・・・」 「はい・・・」 「力尽くでもモノにしてやる・・・って言われちゃったよぉ。ハッキリと」 「モノ・・・って、まさか・・・あの人、そーゆー人なんですかっ」  昼間見た隆の様子を思い出して、唯野は首をひねる。そんな感じはまったくしなかったからだ。ただ、あの帰り際の笑みは、そーゆー意味だったかと納得した。 「いーや!そーじゃ無いらしい。ちゃんとカミさんいるし、子供もいるんだぞ。笑っちゃう事に、いいパパなんだな、これが」  何を思い出したのか、くすくすと笑い出す。 「いや、ほんと・・・タイミングずれて良かったよ。こんな状態の時に襲われたら、テーコーできないもんな。ったく・・・人の事、隙さえありゃすぐ押し倒そうとしなけりゃ、イイ奴なんだけどなぁ」 「大丈夫です。俺がいますからっっ!」  唯野は思いっきり力説する。 「はは・・・そっか。ありがとな。でも、あんまり危険な事はしなくていいからな」  にっこりと笑った後、心底疲れたというように九十九はソファーに沈み込んだ。  その様子に、唯野は喋らせ過ぎたと気付いて、慌てて気持ちを切り替える。 「とにかくゴクローサマでした。飯、どうします?それとも風呂に?」 「んー・・・寝る」  そう呟くと、九十九はソファーから立ち上がって、唯野の手を借りて自分の部屋のドアまで辿りついた。 「しばらく寝てくるから、起こさないでくれ。もー誰が来ても、居ないって言ってくれ。絶対だぞ」 「わかりました。おやすみなさい」 「ああ・・・」  ノブに手をかけたまま、一瞬動きが止まる。 「九十九さん?」 「こっちの部屋・・・入ってないよな」 「はい」 「そっか・・・んじゃ、おやすみ」 「おやすみなさい」  九十九の消えたドアを、唯野はしばらく見つめていた。  まだまだ自分の知らない事が、いっぱいあるなぁ・・・と思う。  無論まだ、知り合って一ヶ月というところだから、当然いえば当然だ。おまけに自分の方が押し掛けてきたのだから、多少警戒されててもしょうがない。  しかしいつか、完全に打ち解けて何でも話してもらえるような相手になりたいと、心から思っていた。  さっき支えた身体は、見た目よりもしっかりと筋肉がついてはいたが、それでもやっぱり小柄で、すっぽりと唯野の腕の中に収まってしまう。  本人にバレたら怒られそうだが、やっぱりあーゆーのは、保護欲をかきたてられてしまうのだ。 「よしっ!」  気合をひとつ。  唯野は、九十九が目を覚ました時にすぐ食べられるよう、彼の大好きな中華料理を作るためにキッチンへと向かった。      -Ⅰ- end 
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