0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
■ 1 ■
九十九探偵事務所に、押しかけ助手の唯野が住込み始めて早一ヶ月。
仕事の依頼もいくつかあって、なかなか忙しい毎日に時間がたつのが早く感じられた。
それでもずっと一緒にいるせいか、少しづつ九十九の事が解ってきた…というか、気になる事が出てきた。
たとえば、なぜ右利きなのに右手に腕時計をはめてるか…とか、なぜ人と目線を合わせないのか…とか。
九十九の視線は、たとえ向かい合って話をしていても、いつも微妙にずれている。
…いったい、どこを見てるんだ?…
そんな事、訊けるわけも無く、唯野は少し寂しい思いにかられる。
…やっぱ、まだ気を許してくれて無いのかなぁ…
奥の部屋にもまだ入れて貰えないし、一緒に酒を飲むという事もない。もちろん助手としてここに来たんだから、プライベートな部分まで深入りする必要はないけれど、それでもやっぱり九十九に惚れ込んでここへ来たのだから、もーちょっと気にして欲しい唯野だった。
「唯野くん」
「はい!」
九十九の呼ぶ声に、主人の声を聞いた犬よろしく唯野が反応する。その様子に、九十九が苦笑するというのがお決まりのパターンだった。
「明日から、また君一人になるけど、よろしくな」
「は?」
「は?じゃないだろー。そろそろ月半ばだから、トオコんとこが〆切なんだよ」
「あ…漫画家の」
妖艶という形容がピッタリのオネーサマな女性、夏木トオコの顔を思い出す。
「そーだ。毎回迎えに来られるのは嫌だから、今回はこっちから行ってやる事にしたんだ」
「はー…また、どうして?」
「んー…まぁ…しょうがないからな。いい加減諦めて、ビジネスと割り切る事にしたんだ。実際、ギャラはいいからなぁ」
ふう…と九十九はため息を一つつく。
「仕事の選り好み、してる場合じゃないもんな」
「すみません…」
唯野は小さくなって頭を下げた。やっぱり自分が来たせいだと思うからだ。
「何で、君が謝るんだ?」
不思議そうに九十九が尋ねる。
「え…だって、俺がきたせいで…九十九さんのライフスタイル変えさせてしまったみたいで…」
「確かになぁ…」
九十九は煙草をシャツの胸ポケットから出して、一本咥えて火を点ける。大きく吸い込んでから、旨そうに煙を吐き出した。
「君こそ煙草の煙が嫌いなくせに、ここに居るじゃないか」
確かに唯野は煙草の煙が大嫌いだった。今までそれが原因で、何度周りの人間と揉めただろう。ただ九十九に対しては、そんな事言える立場ではないと思っていた。
それでも警告だけはしておきたい。
「まぁ…人生に妥協は必要ですから」
ぼそりと呟く唯野に、九十九は小さく微笑む。
「じゃあ、お互い様だ」
もう一回大きく吸い込むと、九十九は煙草を灰皿に押し付けた。
次の日。トオコの所に行く九十九を、唯野は送って行く事にした。仕事場だというそこはマンションの一室で、資料用の本やら切り抜きやらが散乱する中、何人かのアシスタントが真剣な表情で机に向かっていた。
「あーーっ!九十九、いいとこに来た。これっ!これにバック描いて」
トオコが原稿を差し出して叫ぶ。以前、事務所に来た時とは全然感じが違う。今日のトオコはスウェットの上下に、髪はひっつめ、おまけにメガネもかけている。
「ったく、人使いあれーなーっっ!俺は高いぞ」
「いつも大枚払ってるでしょっ!あら、大きなボウヤも来たの。なんか手伝ってく?」
トオコがにっこりと笑う。以前とはまた違った迫力があった。
「唯野くんは帰っていいぞ。他の仕事があるからな。んじゃ、一週間後に」
「はぁ…」
唯野の返事は上の空で、目はずっとあらぬ方を見ていた。
「どうした?」
「いえ、キッチンが…」
それはもう惨状という以外、言葉が見つからない状態で、もしこれが暑い季節だったら、いったいどーなるんだ?という有様だった。
「やだーっ!見ないでよー。だって片付けてるヒマなんか無いんだもーん!寝るヒマも無いってのに、ノン気に皿なんか洗ってらんないわよ」
「だからもっと早くから仕事しろって、言ってるだろ」
「ショーガナイデショ!〆切が3つ、一緒なんだから」
九十九とトオコが怒鳴り合う中、他の者は黙々と手を動かしている。
「あ、俺…まだ時間有りますから、ここ片付けてきます」
「きゃーっ!ありがと。優しい!」
何か言いたそうな九十九を横目に見ながら、唯野はトレーナーの袖をまくって洗い物を始めた。
結局、九十九が缶詰になっていた一週間、唯野は仕事の合間を見ては、トオコの仕事場に顔を出していた。片付けと、食事を作るためだ。
放っておくと、皆、何も食べずに一日中机に向かっている。ただでさえ睡眠時間が極端に少ないのだ。せめて食事ぐらいはちゃんと摂らなかったら倒れてしまう。
「唯野って、忠犬ハチ公みたい!」
睡眠不足で少々ハイになっているらしいトオコが、唯野の作った雑炊を食べながら、大声で言った。
「は?忠犬ハチ公」
他のアシスタントにも、茶碗を渡しながら唯野は聞き返す。
「だって、ご飯作ってくれるの、九十九の身体が心配だからでしょー」
ぐっ…と九十九が喉をつまらせ、慌ててお茶を飲む。
「良かったわねー、九十九。イイ子がアシスタントに来てくれて。これでうちの食生活も安泰よー!」
ホホホホホ!と高らかに笑うトオコに、アシスタント達が拍手する。皆、しっかりとハイになっていた。
「何バカな事言ってるんだ。唯野くんは俺の助手で、おまえンとこのホーム・ヘルパーじゃないぞ」
「だから、九十九が来れば、唯野も付いてくるんでしょ?だったらOKじゃない」
「そりゃ、どーゆー理屈だ」
呆れたように呟いて、九十九は席を立つ。
「ほら、センセ。無駄口叩いてないで、さっさと終わらせようぜ。お仕事」
「んーーっっ…因果な商売よねー!」
大きな伸びをして、トオコも席を立った。
ようやく原稿がすべて終わり、トオコの所の仕事から解放されたのは、7日目の昼頃だった。
皆、前日の朝から寝てなくて、開放感から倒れそうになっていた。
結局、出版社の担当者に原稿を渡し、それを見送ったのも唯野だった。
「それじゃトオコ先生。俺たち帰りますから」
半分眠っているトオコに声をかける。
「あー…ありがと。九十九ンとこクビになったら、いつでも私の所にいらっしゃいね」
「はい」
唯野の返事に笑みを浮かべて、トオコは身を近づける。
「唯野…あのね」
「はい?」
「九十九の事、お願いね」
「………」
トオコの瞳の中に、真摯な何かを見つけて、唯野はすぐに返事ができなかった。
「おーい、何してる?先に帰っちまうぞ」
玄関で呼ぶ九十九に返事をして、唯野はトオコに頭を下げる。トオコも唯野に深々と頭を下げた。
九十九と唯野が乗った車が事務所に辿り着いた頃には、そろそろ日が傾きかけていた。助手席で眠っていた九十九を起こし、車から降りられるか尋ねる。
何しろ都内はどこも駐車場不足で、とても事務所の近くに車を止めておく事などできない。かなり離れた月極め駐車場に止めて、そこから歩いて来なければならないのだ。
「一人で事務所まで行けますか?」
「ああ…」
目をこすりながら、九十九が頷く。
「じゃあ、これ鍵です。落とさないように」
「ああ」
「車置いてきますから、先に帰って、寝てて下さい。
「そうする…」
九十九を降ろし、車は駐車場へと走り去った。それを見送って、九十九は事務所への階段を登り始めた。
たとえ寝惚けているとはいえ、ずっと住んでいる部屋の鍵だ。難なく開けて中に入る。後ろでにドアを閉めようとした途端、何かに引っかかって閉まらなくなった。
「んー…?」
振り向いた九十九が見たのは、ドアの隙間に差し込まれた男物の靴だった。
駐車場に車を置いた唯野が事務所に戻って来た時、窓から物の壊れる音が聞こえてきた。慌てて階段を三段飛ばしで登って、事務所のドアに飛びつく。しかし鍵が掛かっているのかびくともしない。
「九十九さん!」
ドンドンとドアを叩き、中に呼びかける。ドアの向こうから聞こえる声は、何か叫んでいるようだ。手を伸ばして、ドアの上の通気用の小窓を開けた。
途端に聞こえてきたのは、聞き覚えのある重低音。隆という名の男の声だった。
「…もういい加減に観念して、大人しくしなって」
九十九の事を妙に気に入っていて、力づくでもモノにしてやると言っていた男だ。
「うるさいっ!誰がおまえの言う事なんかっ!離せって」
再び物の割れる音があたりに響く。それに混じって九十九の声が聞こえる。
「バカ!痛いっ…何すんだ!…やめ…っっ」
九十九の声が言葉にならない悲鳴に変わるのを聞いて、唯野は息を大きく吸い込んだ。呼吸を整え、一瞬息を止めると、渾身の力を込めてドアを蹴った。
元々かなり古かったドアは呆気なく蝶番が外れ、内側に吹っ飛ぶ。事務所の中に飛び込んだ唯野が見たのは、デスクの上に屈み込んでいる隆の背中だった。
辺りにはデスクの上にあった物が散乱している。その中で、隆はデスクの上に九十九を組み敷いていた。両手首を押さえつけ、首筋のあたりに顔を埋めている。
唯野は飛び込むのが早いか、隆の首を羽交い絞めにして九十九から引き離した。
「くっ…」
隆の肘打ちをすんでの所でかわし、唯野は九十九を背後に庇って身構える。しかし九十九の様子に気を配る余裕は無い。隆の殺気を、痛いほど感じていたからだ。
睨み合う事、数分。隆の口元に笑みが浮かび、殺気が消える。
悠然と乱れた衣服を整え始めた隆を、唯野はまだ睨みつけていた。
「出てけ…!」
鼻に皺を寄せた大型犬よろしく、唯野が唸る。その様子に隆の笑みが深くなった。
「ふん…いい番犬になるじゃないか」
腰に響くような重低音に凄みが加わって、馬鹿にしたように呟く。
「なんだとっ!」
「おーっと…そんなに唸らなくても、帰るよ。今日のところはな」
両手を上げて唯野を制しながら、隆はその後ろの九十九に目をやる。
「じゃあな、探偵さん。次に会うときまで、せいぜい飼犬に手を咬まれないように、気をつけなよ」
壊れた入り口のドアを爪先で蹴って、後を続ける。
「そいつもかなり、力が強いようだからな。抵抗するのに骨が折れるぞ」
「貴様…っっ」
笑い声を残して去ってゆく隆に、唯野は搾り出すような声を出した。
隆の気配がすっかり消えてから、ようやく唯野は背後の九十九を振り返った。
「九十九さん!」
九十九はデスクの上に横たわったまま、両腕で顔を覆って身じろぎひとつしない。乱れた衣服と、その下に見え隠れする肌に残された赤黒い痕が、九十九がどんな目にあったのか語っていた。
「大丈夫ですか!どこかケガでも…」
「……な…」
「え?」
「自分の身も護れないなんて…情けない…」
自嘲を含んだ九十九の声に、唯野は身を硬くする。それでも努めて明るく声をかけた。
「この一週間、まともに寝てないんですもん。そんだけ疲れてたら、誰だって力入りませんよ」
「そっか…」
「そうです」
唯野はごく自然に九十九の手を引いて起こすと、そのままソファー・ベッドの方に座るよう促した。そして上着を脱ぐと、さりげなく九十九の肩にかけて、にっこりと笑う。
「飯、喰いますか?それとも風呂入って、寝ちゃいます?」
「ああ…」
「どっちも準備できてます。一週間、お疲れ様でした。漫画家ってあんなにハードな仕事だなんて知りませんでしたよ、俺」
「…唯野くん」
何事も無かったように言う唯野に、九十九は小さく笑う。
「九十九さん…?」
「いや、ごめん…もの凄く眠くて…何も考えられない…」
言葉どおりの大きな欠伸。目も半分閉じかけている。
「そぉスっよね。んじゃ、どっちも起きてからって事で」
「ん…よろしく」
そう言うが早いか、九十九は目を閉じてソファーに体重を預けた。
「あ、こんな所で寝ちゃ…」
奥の部屋へ…と言おうとして唯野はため息をつく。
「しょーがないか…疲れてるんだもんな」
いつもは自分がベッドとして使っている場所だ。そう寝心地は悪くないはずだ。唯野は九十九を起こさないように気遣いながら、ソファーの背凭れを倒してベッドの形にすると、毛布をそっとかけた。
九十九は唯野の上着にくるまったまま眠っていた。
「さ…って…片付けるか」
唯野は事務所の中を見回して、気合を入れるように呟いた。
部屋を片付ける唯野の気配を背中で感じながら、九十九は隆の事を考えていた。
…何だって、アイツ……
手首にはしっかりと隆の指の痕が残っている。まさかこんな事をされるとは、夢にも思っていなかった。
実は今まで、口では『モノにする』だの何だの言ってはいても、実際に行動に出ることはただの一度も無かった。
もちろん身体に触ったりはしていたが、そんなのは酒の上での冗談や、友人同士のじゃれ合い以外の何物でも無かったし、何よりもこちらが拒否すればやめてくれた。
そしてそれ以上に、男同士でそんな気になれるものかという考えがあった。だから今日も、まったく警戒していなかったのに…。
自分に覆いかぶさってきた隆の目を思い出して、九十九は小さく身震いした。
怖いくらい真剣だった。
日頃自分が『冗談』だと思っていたじゃれ合いの数々は、すべて『本気』だったという事か?
だとしたら、それらに適当な受け答えをしてきた自分は、隆に対して酷く残酷だったのかもしれない…そんな考えが頭を掠めた。
…それにしても…
自己嫌悪に陥りかけて、ふと思う。こんなやり方は、隆らしくないな…と。
もし隆の本心が、力づくでも九十九を自分のモノにする事だったとしても、こんな性急な手段は選ばないはずだ。もっと時と場所を選んで、嫌味なぐらい手間をかけて九十九に接するだろう。
それが隆という男のやり方だ。
『いい番犬になるじゃないか』
やはり唯野を助手にしたせいかと思う。
この仕打ちは、唯野に対する当てつけなのだろう。そうでなければ、すぐに彼が戻ってくるのが判っていて、あんな事をするはずが無い…
抱きすくめられて、キスされてもまったく抵抗できなかった。シャツのボタンが弾け飛んで、隆の手が直に肌を滑る…今日ほど自分が情けなかった事は無い。
いくら疲れていたとはいえ、あんな……
九十九の寝息が深いものに変わったのに気づいて、唯野は安堵のため息をついた。どうやらやっと、本当に眠ってくれたらしい。
「……」
片付けの手を休めて、唯野は疲れきった九十九の寝顔を覗き込んだ。
思ったより長い睫毛が、頬に影を落としている。スッキリと通った鼻筋に、わりと肉感的な唇。ハンサムというよりは清浄な感じのするきれいな顔だと思う。目を閉じると、それが余計に際立つ。
…だからってなぁ…
別になんとも感じない。性的衝動を感じる要素はどこにも無い。
まぁ、それは個人の好みの問題だから仕方と言ってしまえばそれまでだけど、先刻の隆の行動は、なんだか納得できなかった。
会ったのは一度だけだが、その第一印象では九十九の事をとても大事にしているように感じられた。
もし本当にモノにしたいのだとしても、あんなやり方をする男には思えなかった。
「もしかしたら、俺のせいかなぁ…」
隆の残して言った言葉にそう思う。確かに自分は九十九に『一目惚れ』して、ここの押しかけ助手になった。
でもそれは、九十九の人柄に惚れたのであって、決して下心が有ってでは無い、…はずだ。
「俺、そんなふうに見えるって事か?」
ちょっとショックを感じてしまう。
「誤解だよ…それ」
唯野は大きなため息をつくと、部屋の片づけを続けた。
-2-に続く
最初のコメントを投稿しよう!