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一章:ソル
「クソ……最初に配達すりゃよかった」
イリカは、ため息混じりに声を漏らした。車の荷台に積んだ今日最後の荷物。それに記載された届先の住所が、月でも指折りの暴力団の屋敷であるからだ。そこが暴力団の屋敷であるというのは無論裏社会の人間しか知らないのだが、運び屋として生計を立てているイリカは知っていた。そこが暴力団の屋敷だと。
口から、細く長く息を吸う。気合いを入れる時には、いつもこうしてる。
相手が女子供にも容赦なく手を出す非情な団員でなければ、こちらが余程の失礼をしない限り大丈夫なはずだ。イリカはそう思うことにした。
コンビニでお気に入りの菓子パンを買い、口に入れる。月の女王、もといルナが失踪したせいで、月のどこも鬱屈とした雰囲気になっている。裏社会の連中はこの雰囲気に便乗して、何かを企んでいるのかもしれない。
イリカはとある過去の経験から、ルナのことを強く尊敬していた。故に、ルナの失踪はイリカにとってとても辛いニュースだった。
自身の頬をパチンと叩いて気合いを入れ直す。そして、左手でゆっくりと車のレバーを握った。
走る。できるだけゆっくりと。先程までとても広かった道路は少しずつ狭くなり、ここが街の郊外であることを思わせた。窓を少し開けると、ノスタルジックな匂いがした。知らない町なのに、この場所には包容力がある。
鼻歌を歌いながらナビと睨めっこをしていた時、ふと、少し先の歩道にいる青年に手招きをされた。周囲にイリカ以外の車はない。自分を呼んでいるのだろうと思って、イリカは青年のすぐ横で停車する。
「ごめんね。ちょっと道を尋ねたくて」
「いいですよ。どこですか?」
青年は雨雲を思わせるグレーの髪と、透き通るような青色の目を持っていた。イリカはほんの数秒、青年の柔らかな微笑みに見惚れていた。心の中の奥底にある何かに触れられているような、でも不思議と嫌な感じはしない、そんなもどかしい感覚に陥っていた。青年の年はイリカより少し上といった所だろうか。顔が少しやつれているのが気になった。
「この辺りに、ヤクザとか、暴力団の屋敷ってある? ごめん、変な質問だよね? 勿論、知ってたらでいいんだけど。言いたくなかったら、それでも……」
イリカは目を見開いて、言葉に詰まった。勿論青年の質問の物騒さも相まっているのだが、今イリカは目的地のすぐ近くにいる。この辺りでヤクザか暴力団の屋敷と言ったら、イリカの目的地しかない。
もしかしたらこの青年は、ヤクザと関わりのある危険人物なのかもしれない。
風船が音を立てて弾けるように、青年に対し浮き立っていた心が一瞬で地に足をつけた。イリカの顔に玉のような汗が浮かぶ。
「あっ、あっちです! それでは!」
イリカは車の窓を全速力で閉めて、その場を去った。ミラーに青年の唖然とした顔が映り、イリカは、青年には聞こえないだろう声量で「あばよ!」と吐き捨てた。
(いや、待って)
イリカは顎に手を当て、想像する。あの時は慌てて正直に答えてしまったが、そのせいで、自分が屋敷の場所を知っていると青年にバレてしまった。
(マズいな……)
近くにあるコンビニにすぐさま停車した。青年には車のナンバーも見られた。自分が暴力団の仲間だと思われてしまうから、彼より先に自分が屋敷に着くのはいけないのでは……?
コンビニで、大好きな炭酸飲料と高いアイスを買う。きっと、これが最期の晩餐だ。
(わたし、あの人に殺されるんじゃ……)
冷や汗がドバドバ出てきて、死後の世界のことなんかを考え出しはじめる。でも、仕事をおろそかにする訳にはいかない。イリカは運び屋だ。その仕事を誇りに思い、プライドだって持っている。こんな粗末な命は惜しくない。
(これが最期の仕事になるぞ、イリカ)
そう自分に言い聞かせ、助手席に置いた荷物を睨んだ。
屋敷に着いたイリカは、コンビニからそれまでの道のりで青年を見かけなかったことに安堵した。
屋敷のインターホンを鳴らす。「運び屋です」と正直に伝えれば、特になんという訳でもなく素直に荷物を渡せた。ただ、荷物の受取人の小指がなかったので、イリカはかなり恐怖心を煽られた。
もうこんな仕事辞めてやる! とイリカは毎日のように思うのだが、学校にもまともに行ったことがないイリカにはこの程度の仕事しかできない。イリカは己の顔面の良さを自覚しているので、売春もしていたことはあったのだが、一回でトラウマになってしまった。
「早く宿探そう……!」
イリカは車に乗ってスマホを取り出し、近くの宿を探した。ヤクザの屋敷に行くなんて滅多になくて怖かったから、いつも車中泊の所をほんの少し高めの宿に泊まろうと思った。
イリカには家が無い。そもそも、この車だって無免許運転である。
生まれて間もなく母が死に、貧しい家庭で育ったイリカは父によく万引きやスリを命じられていた。今では父も死にイリカは自由になったのだが、家や家族というものが苦手なイリカは、帰る場所を作りたがらなかった。
イリカは十六歳である。本来ならば、学生として青春を謳歌するべき年齢なのだ。
中々宿が見つからない。とりあえず、屋敷からさっさと離れようと思った。エンジンをかける。出発しようと思った時、車の後ろの方から人の声がした。声というより、それは、口から発せられただけのただの音に近かった。
注意して聞いてみると、それは先程会った青年の声だった。今にも消え入りそうな、青年の声。イリカは何だか居ても立っても居られなくなって、車の窓を開け、青年の声のする方に向かった。
青年の姿を探すと、彼は屋敷の門のすぐ近くにいた。まるで誰かから逃げているかのように、塀に手をついて、息を荒げている。体は傷だらけだった。
「あ……」
青年に声をかけようと、イリカが声を漏らした。彼女の声に気付いた青年が、イリカと目を合わせる。青年の目が敵意のあるものに変わる。イリカは小柄なので、彼と殺し合いになったら勝てそうにない。
「わっ、わたしはただのフリーの運び屋です! ここに荷物を届けに来ただけです!」
ヤクザに深い関わりのある者ではないと伝える。青年は藁にも縋る思いだったのか、イリカの言い分を素直に受け取った。
「ならいい。頼む、助けてくれ」
青年はイリカの目を覗く。彼の表情はとても苦しそうで、イリカは青年の思いをまるで自分のことのように思う。
「あっちだ!」
屋敷の中から、太い男性の声が聞こえた。青年を追いかけてきたのだろうということは、彼の青ざめた顔を見ればわかった。
「頼む……!」
青年はのそのそと近づいてくると、イリカの肩に手をつき訴えかける。彼は今にも倒れ込みそうで、イリカは体に力を入れた。
迷いを表すように、きゅっと唇を結う。
彼を助ける義理はない。彼がどのような人物かも全くわからないというのに助けるのは、イリカにとって一銭の得にもならない。
でも、青年の様子を見て、『他人だから』と割り切ることはイリカにはどうしてもできなかった。
「……乗ってください!」
青年を介抱しながら、車に乗せる。車を出すのと同じタイミングで、ヤクザがイリカを見つけた。
「あいつ……!」
彼らの声が後ろから聞こえる。
ヤクザとのカーチェイス。イリカは、心の深い所にある何かが燻ぶられるような感覚を覚えた。盗人として生きてきた汚い人間の性だろうか? いや、それよりもっと深い所の……
「……悪いな」
少し落ち着いたのか、青年がイリカに声をかけた。苦しそうに汗をかいて、特に出血の酷い腕をもう片方の腕で押さえている。
「喋ってると、舌噛みますよ」
イリカは息を吸って、気合いを入れる。峠道の急カーブ。ヤクザはしつこくイリカ達を追って……
イリカはミラーから後ろを見た。ヤクザの車はもういない。イリカは自分が息を止めていたことに気がつき、スピードを緩め、ふぅと肺の息を出し切った。
「……案外、あっさり引き下がりましたね」
「まあ、俺一人に時間なんてかけられないからな」
青年はそう言い切った。
イリカは峠を出た所で薬局に寄り、包帯と大きめの絆創膏、消毒液を買った。あとは水。
「あなた、誰なんですか?」
イリカは青年に言った。青年の名前も知らなかったことを、イリカは今になって思い出した。
「悪い。自己紹介が遅くなったな」
青年は腕や足に包帯を巻きながら言う。
「俺の名前はサグメ。あんたは?」
「わたしはイリカ。運び屋です」
イリカにはサグメに聞きたいことが山ほどある。
「あなた、どうしてヤクザに目を付けられたんですか?」
イリカはサグメの命の恩人だ。それくらいは答えてもらわねば。
サグメは少し躊躇う素振りを見せながらも、慎重な口ぶりでイリカに言った。
「俺は、中央の入江出身なんだ」
中央の入江。月の政府機関が集中する場所、言わば月の首都である。
「ちょっと前まで、俺はルナの住まう王城で兵士として働いていた」
イリカは目を見開き、サグメをじっと見つめる。
だって、王城が賊に襲われた日、城で働いていた者は一人残らず死んだと聞いた。
「唯一の生き残りだから、俺はあいつらに目つけられてたんだ」
「ならどうして、自分から屋敷に?」
「……なんだかな。心の中の誰かが、やれってうるさかったんだ。どの道、俺は王城で死ぬはずだったし」
サグメの言葉をいまいち信じられない。その時は頭でもぶつけて、気が触れていたのだろう。
「そうですよ。あの時、どうやって生き残ったんですか?」
「俺は逃げたんだ。いわゆる、敵前逃亡?」
イリカの疑問を全て理解していると言わんばかりに、サグメは言う。
「敵前逃亡は、なんつうか、アレだから、本来なら殺されてた。でも、俺の仲間は皆死んだ。俺を罰する人はいなくなった。俺はもう、どこにも帰れない」
サグメは苦しそうに俯く。敵前で逃亡したことを悔いているのだろうか。
「だからせめて、俺の家族に別れを告げておきたい」
サグメはイリカと上目で目を合わせた。イリカは少しぽかんとした顔でサグメを見た。
「あんた、運び屋なんだろう?」
イリカは静かに頷く。
「俺を、中央の入江まで運んでくれ。勿論、金は払う。あんたの仕事で、俺に手伝えることがあったらする」
サグメはイリカに縋るような目で見た。イリカは一瞬目を泳がせて、それから、腹をくくってサグメに聞いた。
「サグメさん、今お金は持ってませんよね?」
「ああ。あいつらに全部盗られた」
「じゃあ、いいですよ。ツケで」
サグメはフッと息を零して笑った。「助かる」
中央の入江に行けば、ルナが失踪した理由もわかるかもしれない。それに、サグメは王城で働いていたと言った。なら尚更だ。
イリカは勝ち気な笑みを浮かべる。それにつられて、サグメの表情も少し柔らかくなった。
「しばらく頼む。イリカ」
「こちらこそ」
イリカとサグメは、固い握手を交わした。イリカの表情は希望に満ち溢れていて、サグメにはそれが眩しかった。
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