最期の微笑み

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最期の微笑み

 後悔しても、反省してもしきれないくらいの罪を俺は犯した。
  生まれ変わっても償いきれないほどの罪を。
 
「こんな風に育てたわけじゃないのに……」 
「母さん。弘樹に聞かれる」 
「聞かせた方がいいのよ! どうしてこんなことになってしまったの……」

 
「ほら。私がそばに居た方が弘樹さんは幸せだったんですよ」



  当たり前の会話たちと、嫌な声が今日も大音量で聞こえてくる。それ同時に「ごめん……弥生ごめん……ごめんなさい……」という、どうしようもない声が耳に届く。

  俺が泣いたところで傍から見れば反省しているように見えないだろうし、弥生が帰って来るわけでもないのに。それでも自然と涙が溢れてきてしまう。
  枯れることを知らなかった涙だったが、何ヵ月も寝ずに泣き続けた結果、何故かずっと視界が真っ暗なままになってしまった。

  自分が目を開けているのか閉じているのか区別がつかないほどの真っ暗さに最初は戸惑ったが、俺はすんなりと受け入れた。きっと与えられた罰の一つだと受け入れたから。
  そんな俺の顔を誰かが触れている。それが誰なのか俺には分からない。今、自分がどんな状況に置かれているのかすら分からないのだから。

  これから自分がどう生きていけるのか全く想像できないくらい、全てが真っ暗だった。


  ──弘樹は、私が毎回どんな気持ちでいるとか考えたことあるの?

  ──どうして、浮気なんてしてるの……?


  涙声になっている弥生の声を、今も鮮明に覚えている。 
 あれから随分と日にちが経っているというのに。

  人間は声から忘れていくというのに、全然忘れることが出来ない。その度に俺は泣いて、後悔と反省をしていた。何十回、何百回と。  だからといって許してもらおうとは思っていないけど、この声が頭の中で完全に消えてなくなってしまった時、俺はそれこそ生きている意味がなくなる。 

 いや……涙も枯れ、俺のことを誰もがこの世からいなくなってほしいと願っているのに、俺は何故──まだ生きているんだ? そう思った瞬間、今まで真っ暗だった目の前が突然眩しくなり、瞬きをすれば見慣れない部屋が視界に飛び込んできた。 

 どうしてこんな所にいるんだ? なんて疑問が浮かぶ前に俺は慌てるようにベッドから降り、何かに引き寄せられるようにおぼつかない足で知らない家から出て、急いで駅へと向かった。 

 朝なのか昼なのか分からない明るい時間には当然人がちらほらいて、家族たちから向けられた時と同じような鋭い視線が突き刺さるも、そんなことにいちいち反応している余裕など俺にはなく、ひたすら重くなった足を必死になって前へ確実に進み続けていれば、いつしかいつも使っていた駅に到着していた。

  電光掲示板の右上には7時36分と表示されているのを見て、それならあと1分くらいで電車が来ることを知っていた俺は、お金を払わずに改札を抜けた。  当然、後ろから俺を注意する声が聞こえてくるが、振り向いている時間などない。

  先程まで重くて走れなかった足が今ではとても軽くて、階段を下りるまで走っていた。 
 いや……走れていたのかは、よく分からない。すれ違う人がとても速く歩いている気がしたけど、視界に映る景色の流れはとてもゆっくりだったから。 

「こら、待ちなさい!」
 
 後ろからそんな声が聞こえるも、階段を最後まで下りる前に視線の先で電車の姿を捉えた瞬間、口から入る空気がとても澄んでいるように感じた。 


 好きだった。 
 愛していた。

  ただ純粋に、その気持ちだけで生きていた。


  それだけじゃダメだということを知ったというのに、結局俺は行動をしなかった。  すぐさま行動していれば、やっぱり何かが変わっていたんじゃないかって、最後まで俺と弥生が笑っている世界を望んでしまう俺はやっぱりどうしようもないクズで。そんな俺を非難する弥生の顔が脳裏をよぎる。 


 列になっているところに並ぶのではなく、どんどん人を抜かして一番前へと向かう。 


 ──私の言葉より、浮気相手の言葉を信じるのっ!?

  ああ、そうか。  この言葉は、弥生にとって〝行かないで〟を意味していたのか。 
 弥生の病気といい、職場の環境だったり何も気づけなかったというのに、これすらも最後の最期まで気づけなかったなんて情けなくて視界が滲む。 


 転生をするまで約4年かかると言われているけど、俺は後生を抱えて生まれ変わることが出来るのだろうか?  また弥生と出会うことが出来るだろうか?  一目見て出会った彼女が弥生だって気づけるのだろうか?  もし……本当に弥生の生まれ変わりと出会ったら、俺は自分の感情を抑えることが出来るのだろうか? 

 多くは望まないって思っていたのに、結局一番重いものを望んでしまう。 


「あの、危ないですよ?」 


 俺を怒る声と心配する声を無視して、前へと歩み続ける。 


 ねえ、弥生。
  どうしてあの時、俺に笑ってくれたの?

  本当は、弥生も俺と同じ気持ちでいてくれてるんじゃないの?  だから俺、許されることのない罪を犯したのに自分の都合のいいようにしか解釈できなくて……って、あり得ないことを言っても仕方がないよね。本当に笑ってくれたのかも分からないのに。 

 でもね、俺の気持ちは一生変わらないよ。


 「弥生……愛してるよ……」


  この気持ちこそが本物で。さぁっと心に風が吹いた瞬間、いるはずもない弥生の姿が見えた。  睨んでいるのではなく、俺が安心する優しく包み込むような笑みを浮かべている弥生が見えて、俺も自然と笑みが浮かんだ。 


「え……」


  列の一番前にいた制服を着た長い髪の子よりも前に出て、その子の「え」という声が聞こえた瞬間、俺はホームへと身を投げ出した。


  Fin
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