息抜きの場所は恋人の隣だけ

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息抜きの場所は恋人の隣だけ

「もう、所長! お願いですから片付け手伝ってくださいよ!」  たまらず一喝した僕の声で、仕事机で突っ伏していた所長がのそりと顔を上げた。お客さんと対峙する時だけちょっと精悍になる顔はだらしない姿へと変貌している。 「えー、それは部下の仕事でしょー?」 「ええそうですね。でもお客さんが来るまであと一時間しかないんですよ? それまでにこの小汚い部屋を綺麗にしないといけないんですよ? わかってます?」  打ち合わせに使う机の上を整えるくらいならもちろん何も言わない。だが足元は調べ物や探し物のために無造作に投げ出されたバインダーやら本やらでぐちゃぐちゃのごたごた状態だし、どこか息苦しいから埃も舞っている気がする。足元と空気を整えないと、おもてなし用の飲み物お茶菓子の用意まではとてもできない。唯一の先輩である(あずさ)はそのおもてなし用の買い物に出てしまっている。 「(のぼる)くん、そうは言ってもだね、僕は朝方まで資料をまとめていたんだよ。ものすっごく疲弊してるんだよね」 「じゃあ来てくれたお客さんをドン引きさせてこの事務所の悪評を垂れ流されて最悪潰れてもいいって言うんですね」  疲れているのはわかっているけれど、敢えて厳しい口調で言わないとこの所長は動いてくれない。  口も手も動かさないといけないなんて、はっきり言って効率が下がるだけだ。早く「わかりました手伝います」って白旗を揚げてくれないかな……。 「でもまだ一時間もあるよ? 馬鹿でかい事務所じゃないんだから、そんな急がなくても間に合うと思うけどなぁ」 「そうやって余裕かまして、お客さんの約束時間に遅れます連絡に救われたことが何度もありましたよね。それに早く片付け終わればその分休めるじゃないですか」  仕事のスイッチが入ると何回も惚れ直してしまうほど完璧で無駄がない男に変身するのに、オフだとどうしてだらけやすくなってしまうんだろう。もちろんいつも完璧でいろ、だなんて思ってはいないが、時と場合を考えてほしい。少なくとも今は半分くらいスイッチを入れてほしい。 「いいから、ほら立って! バインダーと本を棚に戻すくらいはせめてやってください。それは所長の方が片付けしやすいでしょ? それだけでもおれは助かりますから」  所長の机の後ろの窓を開けると、涼しい風が優しく吹き込んだ。一度だけ深く呼吸をしたら、焦燥感が少しだけ落ち着いた。  よし、続きを頑張ろう。さっきは「潰れてもいい」なんて口走りはしたものの、本当にそうなってほしいわけじゃない。何だかんだでおれは自分のポジションが気に入っているし、所長のことも……誰よりも、好きなんだから。 「昇」  踵を返したところで、一言名前を呼ばれた。  反応する暇もなく、おれの身体は所長の膝の上に乗せられていた。 「ちょ、ちょっと! こんなことしてる暇ないでしょ!」 「ファイルの片付け以外も頑張って手伝うから、元気ちょうだい」  力の抜けた笑みを向けたかと思うと、猫のように頭を胸元にすり寄せてきた。背中にがっつり両腕を回されているので身動きが全然取れず、なすがまま状態になっている。諦めて覚醒した所長に賭けるしかなかった。  ……仕事モードの所長しか知らない女の人が見たら、どう思うんだろう。まあ、まず幻滅はされるだろうな。でもこうやって甘えてくるところは可愛いってなるかも。ギャップ萌えとかいうやつ。おれも時々感じることあるし……。 「呆れてるでしょ」  すっかり全身の力が抜けてしまって、ぬいぐるみのような気持ちでいたら、いつの間にか所長に見つめられていた。 「……所長の言葉を信じてるだけですよ」 「僕はね、君につい甘えちゃうんだよ」  頭を優しく撫でてくれる。つい目を閉じたくなる心地よさだった。 「結構しっかり者だし、いろいろお小言言うけど、僕への気持ちが全然変わってないっていうのもわかるから、ついね。すっごく頼りにしてるんだ」  思わず息が詰まった。完全プライベートじゃない時にそんなことをはっきり言わないでほしい。 「そうやって素直なところも甘えたくなるんだよなぁ。二人きりになると未だにせわしなくしてるのも可愛いし」  変な声が出そうになった口を、ぎりぎり手のひらで覆った。何もかも見破られている。急激に顔が熱くなってきた。  目の前の所長が、なぜか困ったように笑っている。また、おれが自覚ないまま所長いわく「欲に繋がるスイッチ」的なものを押してしまったらしい。そのたびに一応気を引き締めるけれど、正解が未だにわからない。  口元の覆いをそっと外して、所長の顔が近づいてくる。自然と瞼を下ろした。少しかさついた感触と、ほんのりとしたコーヒーの香りで包まれる。  触れるだけのキスが何度も降ってくる。お互いに物足りないのはわかっていた。それでも多分、ほんの数センチ距離を詰めても所長はそっと押し戻すだろう。根は真面目でちゃんと大人なのだ。 「……あーあ。全く、惜しいなぁ。今の昇、本当に可愛くてすごく色っぽいのに」 「なんですか、それ……」  軽いキスでも、何度もされたら身体が熱くなるんだな……。  仕事があるのに、早くしゃんとしないと。 「ねえ、急遽休みになりました、ってしたらダメ?」 「ダメに決まってるでしょう」 「そこは普通、特別ですよっていうところじゃない?」 「寝ぼけたこと言わないでください!」  ……大人、はやっぱり撤回しよう。 「そういう冗談を言えるってことは、もう元気になった証ですね。ほら、片付け再開しますよ! 梓さんももうすぐ帰ってくるだろうし」  勢いをつけて立ち上がる。事務所の出入口近くに置いてある時計を見たら、タイムリミットまで四十分を切っていた。いよいよ焦らないとまずい。 「本当、憎たらしいほどしっかりしてるよね。部下に相応しくて助かりますよ」  ふてくされている。片付けはしてくれるようだが、明らかにテンションが低い。これはしつこく引っ張るタイプの方だ。  こうなったら、一肌脱いでやるしかない。  のろのろとバインダーを拾い始めた所長の隣にしゃがみ込んで、強引に顎を持ち上げる。 「……さっきの続きも、仕事終わったら付き合いますから」  最終的におれがこうして折れるから、所長の甘え癖も直らないんだろうなぁ。  そう自覚していても弱いから、おれ自身もどうしようもない。
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