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やる気スイッチの簡単な押し方
「僕だって必死に頑張ってるんだよー! ひどいよあやと!」
事務所の備品(主に飲み物とお茶請け)を補充して戻ると、いきなり所長に抱きつかれた。
「ちょ、ちょっとどうしたんですか!? あ、梓梓さーん!」
「大丈夫、たいしたことないから」
いつも通りのクールな返答だが、彼女の意識がお茶請けだけに向いていることは知っている。
「おいおい、新人に泣きつくたぁいつからそこまで貧弱に成り下がったんだよ」
聞き慣れない声、しかも結構ドスが効いている。
最悪の想像をしながらおそるおそる出所を探すと、資料が並べられた棚に見知らぬ男が立っていた。
「あ、あの、取り立てですか?」
「あぁ?」
「す、すみません! つい!」
「お前わざとやってんな?」
「あっ、ち、違うんです!」
無意識とはいえ、失礼な問いをしてしまった。男は呆れたようにため息をつく。
「まぁいいわ。おい、そいつのやる気をあげろ。お前が適任らしいからな」
未だ抱きついたままの所長はか細く「梓くんの裏切りものぉ~」と呟いた。その当人はうきうきでお茶請けをひとつひとつチェックしている。
「あの、あなた様はいったいどちら様で」
「桐原綾人だ。こいつの尻拭いばっかしてる記者だ。情報屋扱いされてるけどな」
前髪を軽くオールバックにまとめた目尻の細い彼は、所長を鋭く睨みつけた。が、所長も負けじと桐原を睨み返す。迫力は全然ない。
しかしその名前、どこかで聞いたことがある。
「……あっ! 所長とよくやり取りしてる!」
電話のときはかなり砕けた口調だったので、気になって質問してみたことがある。
『腐れ縁の記者よ。情報集めがうまいから、悔しいけどついつい頼っちゃうんだよね』
まさか所長となにもかも正反対のように見える相手だったとは思いもしなかったが。
「直談判しないとスルーされそうだったんでな。やっぱ来て正解だったわ」
素晴らしい読みっぷりに拍手したくなってしまった。
「好き勝手言ってくれちゃって……ていうか尻拭いなんて人聞きの悪い! ちゃんとお金払ってるし手伝いだってしてるじゃん」
「毎回すんなり終わらせてくれんなら文句言わねえよ。そもそも終わった試しねえし」
「君の仕事は大変なんだよ!」
「そりゃお互いさまだ!」
大型犬と小型犬が吠え合っているようにしか見えない。勝手に巻き込まれているおれは誰が助けてくれるのだろう。梓はチェックを終えたものの、食べる物を真剣に吟味しているためか話しかけづらいオーラを発している。
「もー今日はことさらめんど……難しい依頼持ってきてくれちゃってさぁ。知ってる? 僕ここんとこ連日寝不足なのよ。みんなも残業しながら頑張ってくれて、やっと朝に終わったのよ。これでちょっとゆっくりできると思ったら君がやってきたんだよ。ひどくない?」
「気の毒だが知らん。お前にしかできない仕事だから諦めろ。依頼料上乗せするって言ったろ」
なに?
聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「上乗せされたってもう頭が働かないよ~。せめて締め切りを二日くらい延ばしてくれたら」
「駄目だ。ケツは今夜十時まで。これでもだいぶ譲歩してんだ」
「ね、昇くんひどいでしょ? 恋人としてなんとか言ってやってよ」
「ちょっ、なにあっさりバラしてんですか!」
「気にすんな。前に浮かれまくりのこいつから一方的に教えてもらった」
「名前だけだよ。顔を見せるなんてもったいないからね」
「どうでもいいですよ所長のバカ!」
もう何発か殴りたい気持ちでいっぱいだったが、使い物にならなくなったら困る。
そう、報酬だ。ただでさえ収入が不安定な我が探偵事務所、もらえるときはちゃんともらって蓄えておかないといけない。梓もあんな状態でなければ同じことを言っていたに違いない。
桐原の「お前がやる気をあげろ」の言葉をようやく飲み込んで、所長の手を引いて事務所のドアを開ける。
「少し、おれに時間をください」
来客予定は入れていなかったから、廊下には誰も来ない。ビルの二階には事務所しかない。隠れてこそこそやるには絶好の空間だった。
「所長、疲れているのはわかりますが、なんとかこなせませんか? おれ達も手伝いますから」
「昇くんは依頼内容聞いてないからそう言えるんだよ」
改めてその内容を聞いて、正直眉根を寄せてしまった。これは確かに、修羅場明けの身にはつらい。所長の訴えもよくわかる。
内心申し訳ない気持ちを抱きつつ、所長を見上げる。
「でも、報酬を余分にいただけるんでしょう? こんなチャンスめったにありませんよ」
「むー……」
反論を止めた所長は、じっとこちらを見つめてきた。下がりっぱなしの眉尻が溜まった疲労を表していて、恋人としては今すぐベッドに寝かせてやりたくなる。が、これも多めにもらえる依頼料のためだ。
「じゃあ、今から僕がするお願い、聞いてくれる?」
「おれでできることなら何でもやりますよ」
「ありがとう。とびきり濃厚なキスをしてほしいな」
さらっと言われて、全身が硬直した。キス? 濃厚?
「ほら、僕たち最近全然触れ合いっこしてないじゃない? 本当は今夜君をめいっぱい抱く予定だったのにそれもなくなりそうだし」
刺激の強い予定をさらさらと紡がれて突っ込みが思いつかない。確かに恋人らしいアレコレはお預けだったし、欲なんてないと変に恥じらうつもりもない。
「……でも、桐原さんは夜十時までとは言ってますけど、それより早く終わらせれば、時間作れますよ」
必死に視線をキープして提案する。酷な内容なのはもちろん百も承知だし、所長はたぶん意図に気づいている。
曇っていた瞳に少し輝きが戻った。
「ということは、昇くんも望んでくれてるんだ?」
「誰だって、恋人といちゃいちゃしたいもんでしょう」
半ばやけくそのまま、所長の唇を塞ぐ。舌を差し込むと待ちわびていたと言わんばかりに絡め取られた。
よほど飢えていたのか、舌への、口腔への愛撫が半端ない。久しぶりの刺激に耐えられず、所長の服を必死に掴む。
「っん、ふぁ……あ、」
壁を挟んでいても二人に聞こえるかもしれないのに、声が抑えられない。背中を撫でる動きさえ甘い高ぶりに変わって、無意識に追いかけてしまう。身体をすり寄せたい衝動と必死に戦っていると、唇が解放された。
「ゆきたか、さん……」
恋人が満足そうに笑っている。柔和なイメージが完全に消えた、色欲にまみれかけた男がそこにいる。丸眼鏡の奥で、鋭い二つの光がおれに絡みついている。
「続き、絶対するからそのつもりでね。昇」
そして颯爽と事務所に戻っていった。
「調子に、乗らせすぎちゃったかな……」
うまく事が進んだこと。恋人としての夜が確約したこと。
嬉しい気持ちは本物だったが、言いしれない恐怖があるのも本物だった。
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