ニンジンと

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

ニンジンと

「今週中に、富士山が噴火する恐れがあります。本当にわずかな可能性ですが、念の為、心構えをした方が良いでしょう。詳しくは…」  そんなニュースが部屋のテレビから流れて、耳を通り過ぎる。恋人の玲香と、だらだらと部屋で過ごしている、そんな時だった。  一瞬、自分の目元が揺らいだ。  かと思うと、すぐに解けた。 「今、変な感じにならなかった?」  隣で座っている玲香に、そう話しかけた。  でもそこに、玲香はいなかった。  そこにいたのは、ニンジンだった。    あまりに突然で、あまりに不可解な出来事で、僕はいつまでも意味が分からなかった。  まわりを探してみる。でも、どこにも玲香の気配はなかった。僕の部屋で確実に存在しているのは、奇妙な、その一本のニンジンだけだった。  一旦寝て、起きてみた。  でも、ニンジンのままだった。  恐ろしいことが起きた。  玲香は、ニンジンに化けてしまった。  それは、僕のよく知っているニンジンだった。橙色で、緑色のヘタがついていて、下へ向かってすぼんでいっている棒状の、やけに握りやすい、あのニンジン。野菜でしかないニンジンが、床には転がっていた。動くことはない。 「このニンジンが、玲香さんです」  娘が帰ってこないと心配になった玲香の両親には、そう説明した。嘘はついていない。  娘がニンジンになったなんて、そんな事実をすぐに受け入れることのできる人間なんていない。僕は鋭い目で見られながらも、同じ説明を繰り返した。両親の目はどんどん尖っていく。でも今の僕は、こうすることしかできなかった。やけに口が乾いていた。  呆れ果てて帰っていく両親の背を見送りながら、手元のニンジンを見つめる。ひとつも動きやしないし、玲香らしさなんてものもない。  玲香がもし化けるなら、レンコンとか、ごぼうとか、そういう落ち着いている雰囲気を持つ、しぶとそうな野菜になると思った。派手な色で、好き嫌いの別れる短命そうなニンジンになんかならない。ずっと近くにいたから、それくらい分かっていた。    玲香は、大人しくて、真面目な人だった。  でも、その性格とは裏腹に「絶対に明日も生きてやる」という強い意志を持っていた。死に対しての恐怖を、常に抱えていた。そういう時の玲香は決まって、全く迷いのない目になった。恐怖を感じるくらい、他を寄せ付けない目だった。僕はその目に、どうしようもなく惹かれていた。  玲香の本当の両親は、一酸化炭素中毒で死んだ。焼肉屋を経営していて、その準備中だった。いつもなら稼働しているはずだった換気扇をつけ忘れてしまい、いつものように炭火の用意をしてしまったことが原因らしい。  そんな経験をしていた玲香は、人間はちっぽけなことで死んでしまうからと、あらゆる危険に目を配っていた。特に、ガスや空気中の危険にはめっぽうだった。  翌日、玲香は行方不明者として捜索されることになった。全てを知っている僕からすれば、なんとも馬鹿馬鹿しかった。その玲香は、今も僕の目の前で転がっているというのに。相変わらず動かない玲香を見つめながら、僕はとりあえず大学へ行った。  恋人がニンジンになっても、意外にも日々は順調に進んでいった。家に警察関係者が押し寄せてきた時は大変だったけど、「少し喧嘩をしてしまったんです。それで玲香は怒って出ていってしまって」とそれっぽい理由を話したら、すぐに納得してくれた。ニンジンになったなんて摩訶不思議な理由は、とりあえず僕の中だけにしまっておいた。そうやって、平凡に日々は流れていった。  玲香がニンジンになって、三日。  僕の部屋には相変わらず、一本のニンジンが転がっている。動かないし、枯れることもなかった。いつまでも立派な橙色を保っていて、そんな姿を見ると「化けた」という不思議な出来事が、溶けていくような感覚に陥った。  玲香は、ニンジンになりたくてなったのだろうか。それとも、させられてしまったのか。  何も明らかにならない時間が流れて、また一日が過ぎた。僕は、いつものように目を覚ました。そんな、何でもない朝だった。きっと日本中の皆が、そう思っていた。  そんな日本国民の耳に届いたのは、心臓を揺らすような爆音だった。爆音が響いてから数秒が経って、スマホからテレビから、緊張感を煽る警報が流れ出した。 「富士山が噴火しました。繰り返します…」  窓を開ける。遠くの空で、大量の火山灰が散っているように見えた。勘違いかもしれないけど、どうせ、そうだった。本当に噴火するなんて思っていなかったので、なかなかに焦りはあった。  僕はニンジンを強く握りしめて、外へと飛び出した。玄関を開けると、なぜか、そこには一箱のダンボールが届いていた。間抜けにも僕は、思い切り足をぶつけてしまった。そのせいで、中身が溢れた。同時に、手元のニンジンも落としてしまった。不運は、残酷にも重なり合った。僕は目の前の、橙色に染まる光景に、立ち尽くすしかなかった。 「玲香、玲香、玲香…」  ダンボールの中には、大量のニンジンが入っていた。玲香は、見事にも、その中に混ざり込んでしまった。ひとつひとつニンジンを見て、判断していく。呆れるくらいに、違いが分からなかった。ニンジンの持つクセなんてちっぽけなもので、見れば見るほど、どれが玲香だか分からなくなってくる。血眼で、自分が納得できるまで、ニンジンを選び続けた。背中からは、慌てている人々の声と、警報が鳴り続けていた。今、こんな大量のニンジンを目の前にしている人間なんて、日本中でただ一人だろうな、なんて冷静に考えていた。  噴火してから、玲香がニンジンに紛れてから、三時間ぐらいが経った頃だった。僕はいまだに、ダンボールの前で座り込んでいた。    突然、街中の電気が消えた。降り積もる火山灰の影響だ。大学も、今日は休みになった。目の前の空には、汚い埃のような火山灰がゆらゆら揺れている。そんな光景を見て、玲香が言っていたことを、ふと思い出した。 「火山灰はね、本当に何億分の一の可能性だけど、猛毒のガスに変わる可能性があるんだよ。プリーニっていう成分に。もしそうなったら、多分、とんでもないことになる」 「それ、死ぬってこと?」 「そういうこと。でも防ぐ方法もあるよ」 「何かの薬を打つとか?」 「まあそれもあるけど、一番はね…」  僕の頭の中には、あるひとつの、あまりにも馬鹿げた可能性が浮かんでいた。もしそうなんだとしたら、玲香はきっと、まだどこかにいる。ニンジンになんか、なっていない。  なんでこんな大事なことを今まで忘れていたんだろうと、自分を恥ずかしく思いながら、急いで駆け出した。目的地は決まっていた。二人でよく遊びに行っていた、あの山の。  何度も息を切らしながら、僕はようやく、目的地に着いた。そこは小さい頃によく遊んでいた山の、大きな大きな畑だった。昔から誰も整備している様子はなくて、それでも確かに、存在だけは残り続けていた。こっそり種を植えたりしたこともある。  ゆっくりと足を進めて、大きな畑を端から眺めていく。僕は、玲香のことを誰よりも分かっているつもりだ。もしそれが正しければ、玲香はきっと、この畑にいる。間違いない。  土、土、土。雑草。土、土、土。  退屈な畑の景色が続いていく中、それは突然現れた。明らかに人工的な、黒い頭が畑に埋まっている。見れば見るほど、黒い髪が浮き上がってくる。僕は優しく、それに触れた。 「ひあっ」  可愛らしい声と共に、玲香は畑から顔を出した。土に塗れた、何よりも愛おしい顔が、こちらを見ていた。たまらなくなって、僕はすぐに玲香を引っ張り上げて、強く抱きしめた。 「やっぱり、ニンジンじゃなかった」 「駄目!外に出たら、毒が」 「分かってる。ちょっと待ってて」  僕は近くにあったスコップで、玲香の潜っていた穴の隣を、すぐに掘った。大きな穴が空いて、二人並んで、畑に潜り込んだ。 「野菜になる、だもんな」  玲香があの日、僕に教えてくれた火山灰から身を守る方法は『野菜になる』ということだった。畑で成長している野菜には、火山灰が変化したことで成る物質、プリーニの影響を受けないらしかった。もちろん、野菜になることなんて、僕たちにはできない。  でも、そう教えてくれた玲香の目は、他の何も寄せ付けない、迷いのない目だった。この玲香なら、最善を尽くしかねない。そう思った。 「少しでも野菜に近づこうとしたんだよね」  僕がそう言うと、玲香は頷いた。土の削れる、ボコボコなんて音も聞こえる。畑に埋まりながら、野菜になろうとする二人は、そのまま話し続けた。 「噴火の騒ぎが落ち着くまで、僕も隣にいる。玲香と一緒に野菜を目指すよ」 「あの日は、手荒いことしちゃってごめんね」 「あの日?」 「テレビから噴火のニュースが聞こえてきて、私、いてもたってもいられなくなったの。それで非常用で持ってた、とあるガスを使ってあなたの視界をくらましたの。きっと一瞬の出来事に感じただろうけど、実は、一時間近く経ってたんだよ」 「そうだったんだ。じゃあ、あのニンジンは?」 「ダイイングメッセージ、みたいなこと。あなただったら、残された野菜を見て、私の話を思い出してくれると思った」 「はは。分かりにくいよ。僕、本当に玲香がニンジンに化けたかと思ったんだからね」 「ちょっと待ってよ。もしそんな力があっても、私はニンジンになんか化けないよ」 「やっぱり?ちなみに、何の野菜?」 「えっとね。ふきのとう」  玲香の化けたい野菜は、僕が思っていた何倍も渋くて、やっぱり敵わない。服の中に入り込んでくる土の感触を味わいつつ、僕は遠くの空を見つめていた。  火山灰が散っては、ひらひらと落ちていく。異様な光景だけど、土に包まれた僕の心は不思議と落ち着いていた。本当に野菜になれるかと思うくらいに。  僕なら、何に化けるだろう。そんなことを考えては、だらだらと時間が過ぎていく。僕たちは間違いなく、あの日へと戻ってこれた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!