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 私は逃げ出した。  走って走って、ただひたすらにプネウマから遠ざかろうとした。  吸いこむ夜の空気がもったりと重く、すぐに息切れしてしまう。滴り落ちる汗が不快だった。血を吐くような息苦しさのなか、私はあたりの静けさに愕然としていた。誰もいない。ここに来るまでに誰にも出会わなかった。頭上ではクリーム色の丸月が、いよいよ鐘楼の影に重なろうとしている。もうみんなプネウマに殺されてしまったのだろうか。思い出した光景に背筋が凍った。あいつはオルニスやマケリから意思を奪ったのだ。人の身から意思が消えること――それは死だ。  人は死んだらどこへ行くのだろう。ここに思考する「私」という存在がある。その意識が消えたら、物事を考えられなくなる。そうすると消えた私はどこに行くのだろう。死んだらどうなる。むかし一度だけ、私は人の死に触れたことがあった。魔法学校へ入る前、祖母が死んだときだ。祖母の意思の灯がふっと消え、肉体から力が抜けていくのがよく分かる出来事だった。穏やかな顔で目を閉じ、祖母はそれから二度と動かなかった。まるでそっくりそのまま、先ほどのオルニスやマケリのように。  人は死んだらどうなるのだろう。そんな問いに真剣に取り組むのは、もっと歳をとってからだと思っていた。死はそう簡単に訪れるものではないし、突発的な事故や病気でもなければ老齢になるまで出くわさないものだ。ここにいる「私」が消えたら――。  私は無意識にプネウマの元へ戻りはじめていた。走って体力を消耗したせいで体が重く、息苦しい。もうこんな真っ暗な世界は御免だ。いつもの明るい世界へ戻りたい――あふれる太陽の光、目につき刺さる色彩艶やかな私の世界に。私はようやく普段の世界の明るさを知った。光で満ちる世界にいる限り、その恩恵を感じることはなかっただろう。霞む思考に鳥仮面の影がちらついていた。プネウマは「覚悟を決めろ」と言っていた。いったい何の覚悟か。死ぬ覚悟なんてまっぴらだ。 「生き延びる……!」  私ひとりでも。もしも避けられない死があるとするなら、プネウマも道連れだ。  жжж 「遅かったね。君が最後だ」  私はプネウマとの距離を測った。手の届かないぎりぎりのところで立ち止まり、じっと待つ。もはやこの身を立たせているのも辛いほど消耗し、疲れきっている。 「来ないで」 「ふむ。――それで、君の答えは?」  片手を差し出すプネウマに心底腹が立った。考えていた芝居ではなく本気で金のオブジェを芝生へ投げつけていた。 「こんなもの!」  きらきらと金色が光る。猫、星、子どもの精巧なモチーフ。散らばったそれらへプネウマがそっと手を伸ばす。手の届くところまで距離が縮まって、心臓が飛び出すかと思った。プネウマがオブジェを拾おうと屈んだその瞬間、ひと息に術を発動させた。炎を。  金のオブジェからたちのぼる火柱が、芝生を蛇のようになめプネウマを囲う炎壁となった。試験管を逆さにした形の火壁に閉じこめられ、プネウマは首をかしげた。 「大がかりな術だ。これが君の答えかな?」 「あんたは、ここで死ぬ……!」  私は歯を食いしばった。すこしでも気を抜けば炎壁が消えてしまう。このまま炎を燃やし続ければ、プネウマの周囲にわずかに残された酸素は燃え尽きるだろう。それなのに相手は動揺すらみせなかった。 「ミスタ・マケリから聞かなかったのかね。これは卒業試験だと」  炎壁へと白手袋の指が伸ばされた。プネウマが静かに触れた箇所から火が消えていく。炎が吸い取られているのだ。私は火勢を強めようとして、できなかった。すでに体力が底をついている。炎を完璧に飲みこんでしまったプネウマが近づいてくる。 「毎年、君のような生徒がいるものだ。ミスタ・オルニスといい、C組は活きがいい」  プネウマは仮面の奥で笑っていた。息も絶え絶えの私を見下ろす黒の両瞳はきらきらと光っている。嘲られているのか。罵ろうとして唾を飲んだ。 「ひと、ごろ、し……」 「そうかもしれない。でも、そうではないのかも。――ところで、君は魔力を使い切った人間がどうなるか、知っているかね?」  プネウマの片手が伸びてくる。私は気力で目を見開き、憎い鳥仮面を睨みつけた。殺される瞬間まで抵抗する意志を見せつけてやる。    プネウマの背後に丸い月が見えていた。柔らかな光だ。首もとに触れてくる忌まわしい白手袋の感触。 「怖がらなくていい。未知はおそろしいものだが、すべてに害があるわけではない。ミス・ファイエル、君の試験は――」  プネウマの姿が霞み出す。思考が溶けはじめ、私は死の感触を味わった。それは意外にも穏やかで安心のできる何かだ。暖かな陽だまりや、うつくしく輝く緑の葉陰。あるいは川のせせらぎや、透きとおる青空に深呼吸する瞬間に似ている。心地よい脱力感、これが死の――……。
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