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05.それでもいいかもしれない
次の週末、美咲は靴の入った箱を抱え、街をさまよった。行き先はどこでもいい。この箱を置き去りにできればそれでいい。美咲は路面電車に乗り、いくつかの電停をやり過ごす。
のんびりとした光が車窓から差し込む、土曜日の昼下がりの穏やかな電車は、次の電停に止まりつつあった。スピードが緩み、何人かの乗客が電停を降りようと座席を立つ。美咲も自然な感じを装って座席を立つ。つい座席に箱の存在を忘れてしまったみたいに。
うまくいきそうだ。けれどその瞬間、美咲の隣に座っていた乗客が慌てて美咲に、忘れ物ですと告げた。
「ありがとうございます、考え事をしていたからつい……」
取り繕う美咲に、乗客はそんなこともありますよと微笑んだ。
今度はその電車を降りた電停の近くにあった公園に入ってみる。週末の公園はどこまでも平和。遊歩道、芝生の広場、小さな子どもがにぎやかな声を上げている遊具……。美咲はベンチに座り、しばしスマホを眺める。スマホに用は特にないけれど。
それから美咲は、なにか急に用事を思い出したといった感じでスマホから顔を上げ、ベンチから立ち上がる。そばに置いていた箱の存在などすっかり忘れているように歩きはじめる。
けれども、やっぱり結果は同じ。子どもと遊んでいた母親が箱を抱えたまま、美咲を走って追いかけてきた。
「ありがとうございます、用事を思い出してうっかりしてました」
忘れ物を教えてくれた親切な人にとても恐縮しながら、といったふうを装いながら美咲はお礼を述べる。その一方で、他人はどうして私に親切なのだろうといった疑問が美咲の頭に浮かぶ。水に溺れた人の顔が一瞬だけ水面の上に出て、息継ぎできるみたいに。
事情をなにも知らない他人だから、という理由もあるだろう。けど、私が不倫していた上に、手切れ金代わりに不倫相手に買ってもらった高価な靴を捨てようとしているだけだと知ったら、親切な人も私を罵倒するかもしれない。それでもいいかもしれない。
けっきょく美咲は靴の入った箱を抱えたまま、ふたたび街をさまようばかり。ミントグリーンの包装紙。複雑な迷路が淡くプリントされた包装紙。本当に出口のない迷路をさまよっているみたいだ。さて、この箱どうしようか。そのへんのゴミ箱に捨ててしまおうか。
そんなことを考えながら歩いていると、見覚えのある看板が姿を現す。『カフェ・レインキャッチャー』と書いてある看板だった。
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