07.それは虫歯が痛むから

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07.それは虫歯が痛むから

「あの高い靴を失くした?」  電話の向こうで由香里があきれたような声を上げる。 「でもまあ、考えてみればそれで良かったんじゃないの? だって、もともと捨てようと思って持ち出したんでしょ?」  一部始終を聞いた由香里の言葉に美咲は答える。曖昧な言葉で。 「そうだけど……」  あの日、自分の部屋に戻り、人物のイラストの靴の部分を描いているときにふと気づいた。あの箱が消え失せてしまっていると。  自分があの箱を抱え街をさまよったとき、自分はたしかに箱を抱えていた。路面電車に乗り、公園やカフェやスーパーをめぐり、部屋に戻ったときにはあの箱は自分の手から失われていた。 「高いからちょっともったいなかったけどね」  由香里の慰めるような声に、美咲は電話のこちらでうなずく。 「まあね。でも、はじめのうちはこれで良かったと思って普通に過ごしていたの。イラストを描いて仕事に出掛けて、家に帰って家事をして、それからまたイラストを描く。そんないつもの生活」 「なにも問題がないように見えるけど」  由香里の疑問はもっともだろうと、美咲自身も思う。 「でも靴がなくなってみると、逆に靴が頭に浮かんでくるの。イラストを描くのに集中しても、いつのまにか靴のことを考えてて」 「それは虫歯が痛むから、逆に虫歯のことを忘れようとしても、かえって虫歯の痛みを感じるみたいなこと?」 「それに近いかも」 「まだ相手に未練があるんじゃない?」  美咲は返事に困った。智仁に未練があるみたいだという理由で、箱から靴も出さず、そして靴も履かないでおいたのは自分だ。それはけっきょく智仁にまだ未練があるからなのか。自分でも意識しないままに。いくら考えても美咲は自分でも答えがわからない。 「どっちにしても、自分の手で決着をつけなきゃいけないことなんじゃないかな、きっと」  由香里の言葉に美咲の心が揺らぐ。自分の手で決着をつける……。
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