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08.なんて言えるはずもなく
美咲は靴の入った箱の行方を探した。警察や市電の忘れ物係に問い合わせた。それでもそんな届出はないと言われた。それでも今度は百貨店に入っている靴屋に問い合わせた。あの靴を買った店だ。すると、レインキャッチャーで靴を預かっているという。
レインキャッチャー?
一瞬だけ、美咲はその変な名前が意味するところがわからなかった。それからあのカフェだと思い出す。香ばしいコーヒーとまだ若いマスターのいるカフェだ。
その日の仕事を切り上げると、美咲はカフェ・レインキャッチャーに急いだ。夕暮れの紺色に染まろうとしつつある店の前には、忘れ物を預かっていますとの貼り紙。美咲は覚悟を決めて店に足を踏み入れる。
「どうやら間違いなさそうですね」
美咲の差し出した靴屋のレシートを眺めたマスターは、納得したようににっこりと微笑んだ。コーヒーの香りの満ちる店内。店の奥のテーブル席で美咲とマスターは靴の入った箱を挟んで向かい合う。
「誰かに贈る予定だったんでしょう?」
マスターが美咲にたずねる。その「誰か」へ贈るのなら、大事な日に間に合わなかったのではないかと心配する顔で。
「自分への贈り物ですから。ちょっといいことがあったんですよ」
美咲はとっさにマスターにそう告げた。曖昧な微笑みを浮かべて。その一方で、マスターの親切に美咲の心は痛んだ。マスターを騙しているような気がしたから。でも、さすがに不倫の手切れ金代わりに買ってもらった靴なんて言えるはずもなく。
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